♯5 近づく彼との距離
section8
その週の土曜日。
洗顔や朝食を終えた私は、熱心にクローゼットの中を漁っていた。
私の“ファン”だと言ってくれた彼――町瀬くんの注目を浴びながらこれからピアノを演奏するのだと思うと、
服に無頓着な性格をしているせいか、もう着る機会も無さそうな古い服が貴重なスペースを占領してしまっている。
一度、時間がある時に整理しなきゃ――そう思いながら物色を続ける。
どれもしっくりこないな。
「あ、そうだ!」
いい事を思いついたとばかりに、私はお姉ちゃんの部屋へ駆けだす。
お姉ちゃんは上京する時、持っている服の半分ぐらいを家に置いていった。帰省時の荷物の負担を減らすために。
そして有名大学への合格祝いとして、向こうでいろいろと新しい服を買ってもらったらしい。
センスのいいお姉ちゃんの服を拝借させてもらおう。
お姉ちゃんが高校生だった頃の面影がまだ残る室内に入り、チェストやらクローゼットやらを開けて、一着ずつ手に取ってみる。
防虫剤の香りが鼻を突いた。清潔感のある匂いで、決して嫌ではない。
お姉ちゃんとの身長差は数センチぐらい。
スリーサイズもそんなに変わらない……本人から聞いたり、下着のタグをチェックしたりした訳では無いけれど……たぶん。
だから、デザイン重視で選べばいい。
「良さそうな秋物はないかなー。ブラウスは自分のを使うとして、それに合いそうな上下を」
帰省時に新調したらしきものを除き、どれも数年前のものだから
数あるアイテムの中から私はジャンパースカートを選び取った。
幅の広い肩紐が少し子供っぽい。でも、ココナッツブラウンの上品な色合いの生地がその短所をカバーし、白いブラウスと合わせれば、きれいめコーデに仕上がるような気がした。
(あとは……いつもすっぴんだから、お化粧もしようかな?)
昔、博多へ遊びに出かけた時に300円ショップで買い揃えたメイク道具がある。
それらを使ってメイクをして行こうかなと思った。大したテクニックは持っていないけれど、何もしないよりかは好印象なはず。
自室に戻って着替えを済ませ、姿見の前でくるっと回ってみた。
「うんっいい感じ!」
それから、勉強机のワゴンの引き出しを開けてコスメを探る。
乱雑にコスメが仕舞われた安物のプラスチックケースを奥の方から引っ張りだす。
本当はきちんとしたメイクポーチでも買って、大切に保管した方がいいのだろうけれど……。
その時、私の手が不意に止まった。
自前の道具と一緒にお姉ちゃんから貰ったお下がりのグッズが出てきて、どちらを使おうか迷ってしてしまう。
高校生時代のお姉ちゃんは異性とは無縁だったものの、お洒落なグループに属していた為か、普段から美意識が高かった。
当然コスメにもこだわりを持っていて、私の物に比べて数段質がいい。
なんというか容器からして違う。どれも細部までデザインが行き届いているし、付属品のパフなんかも生地の表面が繊細。
デパコスまではいかなくとも、それに近い、高校生が持つにしては上等な価格帯の物であったに違いない。
自前であろうと、お下がりであろうと、私の肌質に合うことは確認済み。
愛着のある自分の物を使いたいけれど、高い製品のほうがより“映える”のでは……という思いもあり、結局お下がりの方を使う事にした。
その後、服の防虫剤の匂いを誤魔化そうと、これまたお姉ちゃんの部屋にあったホワイトリリーの香水を軽く体に振りかけた。
あぁっー! 何から何までお姉ちゃんに頼ってばかりだ!! ……ちょっと悔しい思いがするけれど、まあいいや。
◆
そういえば午前中って何時ぐらいのことだろう? 待ち合わせ場所に行ってもすれ違いになったりしないかな?
そもそもあんなに軽く交わした約束を、ほぼ初対面の彼は本当に守ってくれるのか……。期待した私が馬鹿だった、なんて事になったりして。
不安を覚えつつ、電車に揺られながら私は月沢駅へ向かった。
駅に到着すると、電車を降りて改札をくぐる。
それからすぐ、ピアノの音色が私の元に届いた。誰かが演奏している。
構内を真っ直ぐ進む。
前方に、架け橋ピアノと、それを演奏する人物の顔が見えてくる。
私は思わず息を呑んだ。
町瀬くん――。
私が来るよりも早く、彼は約束の場所へやって来ていた。
彼の奏でる音に耳を傾けながら、ピアノの側まで近づく。
彼は私の気配に気づいたようで、ハッと顔を上げる。
「よっ、桜井」鍵盤の上の指を止めながら短く挨拶をした。
「町瀬くん、来てくれたんだ」
「もちろん。そういう約束だったからな。でもちょっと早く来すぎた。さっきまで1時間ぐらいずっとベンチに座って待ってたんだ」
そう言いながら、ピアノの斜め後ろのサークルベンチを町瀬くんが親指で指さす。
「えっ、そんなに!? ごめんなさい、私、もっと早く家を出ればよかった……」
「いや、いいよ。ちゃんと時間まで言ってなかった俺が悪いから」
それから彼は「ふぅ」と息を吐きながら両手を膝の上に置いた。演奏はここまでのようだ。
「町瀬くん、ピアノ弾けるんだ」
「まぁ入試の実技のために少し習ってたからな。初心者レベルだけど」
「あ、そっか、声楽専攻でもピアノ要るんだったね……」
「ああ。暇だったからG線上のアリアを弾いてたけど、やっぱり難しいなぁ俺には。途中で何度も音を外した。桜井なら楽勝じゃないか?」
「そん事ないよ! 私も初めて挑戦した時はからっきしダメだったし」
「そっか。よし! じゃあ替わろう」
町瀬くんが椅子を引いて立ち上がった。
相変わらず背が高い。無意識に彼のことを見上げてしまう。
パーカー、ジーンズ、ボディバッグ――彼は砕けた格好。特に服に気を配っている様子はない。
ファッションを意識する程の相手ではないのかな私は……。なんて、密かに残念がる。
でも浅い関係性を考えると、それは当然かもしれない。今日に限って変に見た目に気を遣ってしまった自分が恥ずかしい。
彼と入れ替わるように私はピアノの前の椅子に着席した。
位置を調整すると、まずは両腕のストレッチを行う。
それを、すぐ隣から彼が見つめる。
「えっと、町瀬くん、どこかに座らないの?」
「ここで聞いてる」
まるで品定めでもするかのような鋭い眼差しを間近に受け、私は緊張してしまう。
例の如くハノンから弾き始める。
ウォーミングアップの為の曲に過ぎないというのに、出来るだけ綺麗な音色を響かせようと過剰に指遣いを意識してしまう。
(落ち着け私、いつも通り弾けばいいの!)
神経を尖らせているせいか、ポシェットの肩紐の位置が妙に気になる。何度も体をゴソゴソさせた。
すると。
「バッグ、俺が持っとこうか?」
「え?」私は指を止める。
「演奏の邪魔になりそうだからさ。あ、勿論、弾き終わったらすぐ返すよ」
貴重品やプライベートな物が入っているバッグを、親密な間柄でもない彼に預ける事に対して抵抗を感じるけれど、厚意を嬉しく思ったので、演奏の間だけ持っていて貰う事にした。
まだ途中だったハノンの演奏を再開し、そして弾き終える。
「いつも1曲目はハノンだな」
「通ってた教室の先生に、指慣らしで弾くように言われてたの」
「へえ、俺の所はそんなの無かったな。いきなり弾き始めてた」
私は意外に思った。もしかしたら私の教室独自の指導だったのかもしれない。
それから、エステンの人形の夢と目覚めを弾く。
彼と初めて出会った日も、ハノンの後にこれを弾いていた。お陰で、ただ可愛いだけだったこの曲が、今は特別な意味を持っている。
その後J-POP、そして創作曲へと演奏する曲を変えていく。
どこかの女の子がピアノを弾き、それを近くに立つ男の子が何やら真剣な目で見守っている――その様子が珍しいのか、周りの人たちがチラチラと視線を送ってくる。
時々、前から歩いてくる若い女の子たちが、値踏みするような目で町瀬くんの事をみていた。
顔立ちが良く背も高い異性が居るのだから、つい関心を寄せてしまう気持ちも分かる。
女子ウケのいい彼のことを独占している状況に、私は
BPM90ほどのゆったりとしたテンポで、『レ・ミ・ファ♯・ソ・ラ・シ・ド♯』の7音によるスキップをするような愉快なメロディを、右手で奏でる。
それから左手で、少し余韻を残すイメージで鍵盤を長く押さえてコードを重ねる。伴奏を楽譜に書き起こせば2分音符が頻繁に出てくるかもしれない。
3分ちょっとの演奏。その間、町瀬くんは首を縦に振りながらリズムを刻んでいた。まるでウンウンと頷いているみたい。
私の“世界”を理解してくれている。そう思うと、嬉しいような気恥ずかしいような気分になった。
演奏を終えるといつものように優しい拍手で私を称えてくれた。
それと同時に「うん、これだ! これなんだよ!!」と、拳を固く握りながらヒートアップし始めた。
「町瀬くん……?」
大袈裟な反応に戸惑いの気持ちが芽生える。私のピアノに感銘を受けてくれている証なのだろうけれど……。
「素晴らしい演奏だった」町瀬くんが私にポシェットを返しながら褒めてくる。
私はお礼を言ってそれを受け取ると、椅子を引いて立ち上がった。
ピアノは弾き終わったけれど……この前みたいにまたどこかで雑談するのもいいな。なんて事を心の中で思ったものの、町瀬くんはこのまま帰るようだった。
でも別れ際に、こんな風に次の約束を取りつけてきた。
「なぁ桜井、明日って時間あるか?」
明日は月曜日だけれど、スポーツの日で学校が休み。
特に予定の無い私は首を縦に振った。
「もう一度ここで会えないかな」
いいよ、私の返事に町瀬くんの顔がパッと輝く。
「じゃあ今度は時間を決めとこう! ……明日の13時! 今日と同じようにここで待ってる」
また誘ってもらえて嬉しく思った。「うん、分かった」微笑みながら言葉を返す。
それからお互いに別れの挨拶を交わし、私に背を向けて東口の方へ彼が歩いて行こうとした。
かと思えば、ピタッと動きを止めて
「な、約束だ、絶対に来てくれよ! それで、とびっきりの曲を聴かせてくれ」
そして更に「自分の勘――いや感性を信じてるんだ、俺は」と続けた。
その言葉の意味が私には理解できなかった。
でも、言い様のない熱意が伝わってくる。
単に私のピアノを気にいった以上の何かが、その言葉に込められているような気がした――。
自分でも不思議だった。良くて並程度の実力しかない私の演奏にどうして彼はここまで熱くなれるのだろう。
碧水の音楽科に通っているなら、プロとしての道が開かれているような凄腕の奏者に出会う機会が幾らでもあると思う。音楽エリートに囲まれる環境下で、普通、私なんて
疑問に思う部分があるものの、純粋に彼の期待に応えたい気持ちから、「うん、必ず行く……!!」と、私にしては珍しく大きな声で叫んだ。
周囲の人々がギョッとしたような反応をする。でも何故だかそんな事は全然気にならなかった。
私と彼、2人だけの世界に没入していたのかもしれない。
彼は安心したような笑みを浮かべ、右手を頭の上で振りながら歩いていった。
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