♯4 憧れの高校生
section6
どうやら夏目さんは、なるべく私が学校に来たくなるような環境を作ろうとしてくれているらしい。
この前「今からでも何か部活に入ってみない?」と提案された。「今よりずっと学校生活が楽しくなるかもよ」と。
そして彼女の友達の上宮さんを通じて、部活見学に招待してもらう事となった。
1日の授業を終え、放課後――。
「じゃあ
「オッケー」
さっぱりとしたマッシュカットがよく似合う上宮さんが、スクールバッグと、部活用品を入れているらしいスポーツバッグを肩に掛けながら歩き始める。
私はそれについていき、廊下へ出て階段を下りる。
「わ、私、運動苦手だし、バスケなんて体育の授業ぐらいでしかやった事ないけど、大丈夫かな……?」
「大丈夫、大丈夫、見学するだけなんだから。それにもし興味を持ったとしても、うちの部ゆるいから初心者の途中入部は大歓迎だよ」
それでもハードなイメージのあるバスケ部をいきなり訪れることに私は緊張を隠せなかった。
西館を出て、グラウンドに沿って東館の裏側をずっと歩いていく。
やがて体育館、武道場、部室棟などが見えてくる。
プレハブ式の部室棟の前は、多くの運動部員で
「私、着替えてくるから、ちょっと待っててね」
そう言いながら上宮さんが階段を駆け上っていく。部室棟の1階部分を男子が、2階部分を女子が利用しているらしい。
私は武道場の横あたりに突っ立って、上宮さんが出てくるのを待った。
その途中、スポーツ刈りにしたサッカー部員らしき男子が上半身裸でユニフォームを片手に部室から出てくる。「あー涼しくて気持ちいいなー」
「きゃっ! なにやってんのよ梶原! 服着てから出てこいっ」ちょうど部室棟へ向かっていた女子グループが悲鳴をあげる。
それに対して腹筋を見せつけるようなポーズをしてみせる。
その時、2階からポタポタと水滴が落ちてきて、その男子の首や肩周りに降りかかった。
「うわっ、つめたっ! なんだよ!?」
「けけけ。そんなに暑いならこれで冷やしてあげる」
2階の廊下の手すりから1人の女子が身を乗り出しながら、デオドラントウォーターのボトルを傾けていた。
運動部員が集まっているだけあって、辺りは活気に満ちている。
私は早くもついていけない思いがした。
それから数分ほどして、黒い半袖Tシャツにビビッドカラーのハーフパンツを着用した女子バスケ部員たちが出てくる。
「お待たせ〜」階段を下りながら上宮さんが私に向かって軽く手を振る。
「この子ねー。見学希望ってのは」
「よろ〜」
「ね、私のスーパープレー見せてあげよっか?」
時期外れの部活見学であるにも関わらず、十数人ほどのメンバーが笑顔で私のことを迎えいれてくれた。ほっとした気分になる。
それからみんなでゾロゾロと体育館に向かう。
顧問の先生たちは、バスケ未経験である事も関係してか、終わりの方ぐらいしか顔を出さないらしく、普段から自分たちでメニューを組んで練習を行っているとのこと。
確かにそれなら緩くもなるかもしれない。
準備運動、ランニング、ハンドリング……慣れた動きで次々とメニューをこなしていく。
練習場所を仕切るネットの向こうで他の運動部の子たちが必死の形相で練習に
それからしばらくして軽い休憩タイムに入る。
「せっかくだから、桜井さんもやってみなよ!」
上宮さんがバスケットボールをアンダースローで投げて
「わ!」私はそれをどうにか両手でキャッチした。
「制服とスリッパだから、あまり激しい動きはできないかもしれないけど」
「う、うん……!」
とはいっても何をしたらいいか分からず、ボールの黒いシームを見つめようとしたら、世話好きそうな二年生の部長が「まずはドリブルから!」と、簡単にやり方とコツを教えてくれた。
(なるほど……出来るだけ重心を低く保って……)
動きを真似てみようと、慎重にボールを手から床へ落下させる。
でも、つま先に当たって斜め前へ転がっていってしまった。
「あれっ!?」
私は大慌てで追いかける。
「あらら、初心者あるあるだね」
「シューズ履いてたらもっと変な方向にいってたかもね」
それからシュートやパスにもチャレンジしてみたけれど、ゴールから大きく外れたり、ボールをキャッチし損ねたり、散々な結果に……。
繰り返される私の豪快な失敗についにみんなが笑い始めた。
でも決して嫌な笑いではない。打ち解けるような柔らかい笑み。
それから練習を眺めたり、時々ボールに触らせてもらったりして、見学タイムを終えた。
顧問が来るあと3、40分ぐらいまで、みんなはまだ練習を続けるらしい。
一人だけ場違いな制服姿のまま私は体育館から立ち去っていった。
その時に、みんなが手を振りながら見送ってくれて、なんだか温かい気分になった。
いつの間にか西の空が茜色に染まっている。
こんな時間まで学校に残ったのは初めてかもしれない。
いつも、帰宅レースでもしているのかと思うぐらい、速攻で校門を飛び出していたから。
「意外と楽しかったなぁ」
是非入部したい! とまではならなかったけれど、有意義な時間を過ごすことができた。これまであまり接点のなかった上宮さんとも少しは仲良くなれたかもしれない。
section7
その日の夜、夕飯を終えた私は私服に着替えると月沢駅へ向かった。
ソファに座りながらテレビを見ていたお父さんと、ダイニングテーブルで書き物をしていたお母さんが、玄関に向かう私のことをジロッと見てきたけれど、特に何か言われることはなかった。
お母さんが申し訳程度に「気をつけなさいね」と声をかけてきただけ。
近所のスーパーへ買い物にでも出かけると思っていたのかもしれない。
架け橋ピアノには先客が何人か居たので、しばらく私は駅構内で時間を潰した。
それから空いたのを見計らって、いつものように弾き始めた。
この開放感、高揚感、幸福感――。420円を出してここを訪れるだけの価値がある。
以前、クローゼットの奥に仕舞っておけそうな66鍵盤の折りたたみ電子ピアノあたりをこっそり購入しようかと思ったこともあったけれど、やはりピアノはオーソドックスなアコースティックピアノに限る……!
鍵盤の重たい感触、ピアノ全体から放たれる豊かな音色。これぞ、私の求めるもの。
ショパンの、別れの曲。
モーツァルトの、トルコ行進曲。
エステンの、アルプスの夕映え。
ランゲの、荒野のバラ。
そして――私だけのオリジナル。
いつもよりも晴れやかな気分で弾き終えることができた。
素敵な男子に挨拶をされたり、クラスメイトと一緒にお弁当を食べたり、部活見学に誘ってもらえたり、憂鬱なはずの学校生活の中で
その時。
「とてもいい演奏だった」
突然、背後より私の右隣に現れた誰かがそう言った。
私はびっくりして、その人の方に顔を向ける。
思考回路が停止した。
そんな――。
そこに立っていたのは、あの人だった。
私に拍手を送り唐突なナンパを仕掛けてきた、あの男の子。
「後ろの方でずっと聴いてた」
聞き覚えのある低いトーンの声でそう言う。
「え、あの……」
演奏の間、私を見続けてたってこと?
でも、それが出来なかった。
彼の着ている服に目が釘付けになったからだ。
オフホワイトのブレザー、フォグブルーとアイボリーの縞模様が交差するオーバーチェック柄のネクタイ、アッシュグレーのスラックス、
紛れもなく、私がかつて進学を夢見ていた『碧水音楽大学附属高等学校』の制服を彼は着ていた。
私と同じ高校生ぐらいの子だとは思っていたけれど……まさか碧水の生徒だっただなんて。
ということは、この人も何か楽器が弾けたりするのかな? ……いや、碧水には普通科もあったから、そっちの方かも。
「ハノン、別れの曲、トルコ行進曲、アルプスの夕映え、荒野のバラ」
「え?」
「その5曲までは分かった」
私が先ほどまで演奏していた楽曲のタイトルをスラスラと彼は口にした。
この人には音楽の素養がある――瞬間的に私は悟った。
有名どころの別れの曲やトルコ行進曲ならともかく、アルプスの夕映え、荒野のバラ、そして練習曲のハノンを一発で言い当てられる人なんてそうは居ない。
音楽科だ――。きっと、この人は碧水の音楽科に在籍しているんだ。
私の心が波立つ。
「でも、その後の曲が分からないんだ。いつもそう、一番綺麗なのに何の曲か分からない」
一番……綺麗……。思いもしなかった褒め言葉に私の瞳が揺れる。
「なぁ、自分で作った曲なんじゃないか?」
雷に打たれたような衝撃が全身を駆け抜けた。
「それが気になって、詳しく話を聞きたいと思ったんだ。だからさ……お茶でもどう?」
彼の目を見つめた。下心めいたものは何も感じ取れない。ただ熱い瞳をしていた。
この前もきっとそうだったんだ。私が勝手に勘違いをしていただけで。
コク――。静かに頷く。
◆
彼に連れられるようにして私は移動した。
その途中、彼が不意に立ち止まり、気まずそうに頭を
「あー悪い……。そういえばこの辺、喫茶店なかった」
私も今になってその事実に気づき、思わずクスッと笑ってしまった。確か数キロぐらい歩かなければならない。
「どうしよっか。駅に戻ってハンバーガーショップとかでもいいか?」
「うん、どこでも」
駅の方に向かって私たちは引き返し、それから馴染みのあるハンバーガーショップへ入る。
時刻は20時20分。夕食時のピーク直後ということもあり、まだディナーを楽しむお客さんの姿を至る所で見かけた。
とりあえず何か注文しようと2人でレジカウンターへ向かう。
彼はメニューを見ることもなく、慣れた風にローストコーヒーのMサイズを注文した。
「なにか好きなものでも、代金は俺が出すから」
彼がそう促してくるので、お言葉に甘えて、レモンシェイクのSサイズを頼んだ。
彼が、背中に背負っていたバックパックの中から、ナイロン製の黒い長財布を取り出す。
ブランドが気になった私は、つい表面のロゴマークを読み取ろうとしたけれど、失礼だと思い、目を逸らす。
彼は500円硬貨で支払いを済ませ、商品の乗ったトレイを受け取ると、ボックス席に向かって歩き始める。
それについていきながら、こうして男の子に何かを奢ってもらったり、リードしてもらったりするのは初めてだなぁ、なんてことを考えていた。新鮮な気分。
それからボックス席の奥側に2人で向かい合うようにして着席した。
彼は主に私の音楽的なセンスや経歴について興味があるようで、何の楽器をどのぐらいやっているのか、普段はどんな音楽を聴くのか、あの曲は何なのかなど様々な質問を投げかけてきた。
その際に、お互いの個人情報を幾つか交わした。
彼は
「えっと、それで、町瀬くんは何の楽器を学んでいるの?」
私は一番気になっている点を尋ねてみた。ピアノだったらいいな……と密かに思う。
「あ、器楽専攻じゃないんだ、俺」
「え? そうなの? じゃあ……」
「うん、声楽のほう」
碧水の音楽科は器楽専攻と声楽専攻の2つのコースに分かれているけれど、そのうち声楽専攻の方に彼は身を置いているらしい。
とても意外だった。
どこか愛想に乏しく抑揚のない話し方をする彼が歌っている姿を全く想像できなかったから。
でも音楽科のある高校に進み声楽を専攻するぐらいだから、それなりに歌唱テクニックや歌に対するポリシーなんかを持っているに違いない。
一体どんな歌声を出し、どんな歌い方をするのだろうか……。
それから、彼が長崎県出身で今は親元を離れてこの近くで一人暮らしをしている事を知る。
そうまでして本格的に声楽を学びたかったらしく、生活費は実家からの仕送りとアルバイト代で
凄いな。この年で身の回りの事を一人でこなし、将来に向かって着実に歩みを進めている。
親に反発心を抱きながらも、結局は何かと甘えてばかりの私とは大違いだ――。
第一印象通り、やはり彼は大人っぽい人だった。
◆
いつの間にか、お互いにドリンクを飲み終えていた。
「冬服はまだ早かったかもな」彼がブレザーのボタンを外して前裾をパタパタさせる。
私はクスッときた。
「それにしても、私の演奏に拍手をしてくれたのは町瀬くんが初めてだったから、嬉しかったな……。いつも誰からも相手にされないし」
私がそう言うと、手のひらの上に顎を乗せて頬杖をついていた彼の目が
「それじゃあ、俺が桜井のファン第1号だな」
相変わらずぶっきらぼうな言い方をしつつ、彼はニィッと口角を上げた。
今度は私の目が大きくなる番。
そんな!! ファンだなんて……!!!
驚きや照れ臭さから、あたふたする。
「また聞かせてくれよ。ピアノ」
「私のピアノを……?」
「ああ。次はいつ弾きに来る?」
私は少し考えて「今週の土曜日の朝にでも」と呟いた。
「良かった。ちょうど空いてる」
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