♯3 私の下の名前を呼んでくれた人

section5




 朝の準備をあらかた終えて、自分の部屋へ上がろうとしたところ、まだ眠そうにしているお兄ちゃんと階段ですれ違った。


「朝から邪魔」面倒臭そうに体をかわしながら文句を言ってくる。


(邪魔なのはお互い様なのに)


 心の中でそう言い返しつつ、側を通り過ぎる。


 その時、お兄ちゃんが「あっ」といった風に私の方を振り返った。


「そういえばお前、留年しそうなんだって!?」


「別に……」


「嘘つけ。あんな中途半端な学校で留年は流石さすがに無いわー」


 ニヤニヤとした笑みを背後から浴びせられているような気がして、私は逃げるように階段を駆け上った。


 自分の方が優れているからと、何かにつけて私の事を馬鹿にしてくるタチの悪い兄だ。


 それから支度を済ませ、室内の掛け時計に目をやると時刻は7時40分。自宅を出るまであと10分ほど。


 カチ、カチ、カチ――私の中で恐怖のカウントダウンが開始される。


(はぁ、学校いやだなぁ)


 特に2時間目の英語コミュニケーションⅠ。


 教科担任の宮島先生は、毎回授業の頭において「スピーキングイングリッシュ!」と称し、無差別に当てた数人の生徒に対して1分間のスピーチを行わせてくる。


 指名されたらどうしよう。授業当日の朝から心臓がバクバクする。


 このまま永遠に時が止まってくれたらいいのに。それか気付けば下校のチャイムが鳴っているか。


 少しでも気分を高めようと、何か楽しい事でもして、残り僅かな在宅時間を過ごすことにした。


 よし、歌を聴こう――。机の上からワイヤレスイヤホンを取って耳に装着する。


 それからベッドのふちに腰掛けながらスマホでiTubeのアプリを開いた。


 私には最近ハマっている『Rey』という男性シンガーがいる。


 主にカバーソングをあげている人で、恐らくアマチュアなのだろうけれど、綺麗な歌声や高い歌唱力が私の心に響き、定期的に彼の歌を聞いている。


 数週間ほど前にとあるアニメの主題歌を検索していたところ、上位の方にReyの動画が表示され、それを試しに視聴してみたのが、彼の事を知ったきっかけ。


 その時、動画が気に入った私はいいねボタンを押した上で、どんな人なのだろうとReyのチャンネルページへアクセスした。


 チャンネル登録者数は2000人ほど。アップロードした動画の総数は4本。およそ1年前に登録し、概要欄には『いつかその頂へ』と一言だけ。まだ駆け出しといった印象を受けた。


 私は登録者一覧の中からReyを探し、可愛らしいテディベアのアイコンをタップする。


 すると、4本の動画が新しい順に上から表示され、その中から下から2番目のものに指先を伸ばす。


【cover】まだ見ぬ花-永風茜。


 再生回数38万回。そのうち数十回は私のリピート再生によるもの。


 この1本だけ他の3本に比べて再生回数が多い。この動画をきっかけに彼の事を知ってチャンネル登録した人も多いのではないかと思う。私のように。


 再生が始まるや否や、優しいハイトーンの歌声がイヤホンから流れる。


 それから、4分20秒に及ぶを見つめつつ、一体どんな人が歌っているのだろう、綺麗な歌声からしてきっとカッコイイ人なのだろうな、と品のない事を私は考えていた。


 iTubeで活動するカバー歌手の中には、歌唱中の自分の姿やシルエットなどを晒す人も多いけれど、この人の場合そのような部分が一切ない。1枚の静止画を淡々と映しているだけ。


 その静止画がまた不思議!


 王冠を被った丸っこいテディベアが赤い絨毯の上にちょこんと座っている――。4本全ての動画が同様の作り。


 動画を見終える頃には、私の心が明るくなっていた。


 やっぱり音楽の力はすごい。


 ありがとうReyさん――心の中で呟く。


 そういえば読み方は“れい”で合っているのかな? 何かの英単語?


 今になってReyという言葉の意味が気になった私は、まだ時間があるついでにネットで調べてみる事にした。


 Rey、意味、とブラウザの検索バーにフリック入力する。


「えーと……スペイン語で『王』の意味? 読み方は『れい』でいいんだ」


 ◆


 学校に向かう途中、私はコンビニに立ち寄った。


 今日はいつものように食堂ではなく、教室で昼食をとる予定で、その時に食べる物を買っていこうと思って。


 昨日、夏目さんに「お昼、一緒に食べない?」と誘われたのだ。


 ランチタイムになるといつもどこかに一人で消えていく私を案じてくれての事だと思う。


 そんな風に誘ってくれる人なんてもう現れないかもしれないから、ありがたくそれに応じることにした。


 コンビニに入店し、あまり時間もないので真っ直ぐにお弁当コーナーへ向かう。


 そして少し迷いながら、甘辛チキンのパスタサラダとデザート代わりのメロンスムージーを選んでレジに持っていった。


 代金は後で親が出してくれるから値段は気にしなくても大丈夫。


 もしこれが自腹だったら、きっと、おにぎり1つぐらいで終わっていただろうなぁ。


 そんな事を考えながら、セミセルフレジで会計を済ませ、ミニサイズのエコバッグに商品を詰めてから店を出た。


 ◆


 学校に到着した私は西館へ向かう。


 足取りが重く、途中で何人かの生徒に追い抜かれる。


 西館を含む3つの校舎に囲まれる形でタイル舗装の広い中庭が作られており、その真ん中に、北東から南西に向かって桜の木がずらっと植えられている。


 その桜並木周辺は『桜ロード』と呼ばれ、毎年の春には、満開の桜のもとガーデンベンチに座りながらお花見を楽しむ生徒や先生たちの姿を見かけることができる。


 雫ヶ丘の名物的な風景となっているらしく、かつて受験生時代に私が取り寄せた学校案内のパンフレットにもその様子が収められていた。


 見る者の心を和ませる薄紅色の花びらはとうの昔に散り、その後にい茂っていた青葉も、今や生気が抜けたように落葉や変色を始めている。


 道すがらそれを眺めていると、なんだか物寂しい気分になった。


 桜舞い散るなか希望を胸に入学してきながら残念な状態に至ってしまった今の自分とシンクロするようで。


 人がまばらなエントランスへ入りA組の靴箱まで向かう。


(あ、誰かいる)


 ショートカットの女子生徒がこちらに背中を向けて上履きを履こうとしていた。


(川村さんだ)


 私の気配に気づいたらしい彼女が体をかがめたまま後ろを振り返った。スタイリッシュなウェリントンの赤眼鏡の向こうで、2つの眼球が私の姿を捉える。


 彼女は特に反応を示すこともなく、顔をまた元に戻すと、つま先をトントンさせて上履きに足を収めた。


 お互い言葉を交わすような仲でもないので、私も黙って自分のロッカーに向かう。


 それから靴を履き替え、廊下に出て階段をのぼる。


 私の少し先にいる川村さんは、無駄のない動きでどんどん階段を進んでいく。


 次第に彼女との間隔が開き始める。


 その時、背後から複数人の男子たちの話し声が聞こえてきた。


 迫り来る気配にプレッシャーを感じ、私はペースをあげる。


 やがて3階に到着。


 男子集団が誰なのか気になった私は、自分の教室の前あたりで背後を振り返った。


 そこに居たのは背の高い4人の男子たち。美形だったり、髪を染めていたり、みな垢抜けている。


 特に3人に囲まれるようにして中央に立つ男子が一際華やか。


 恵まれた頭身バランス、均整のとれた顔立ち、左右に綺麗に分かれた黒髪。


(水樹くん……!)


 D組に所属する彼の教室は、A組とは反対の方向にある。


 時々、A組の前を通って教室へ向かう水樹くんの姿を、教室の窓越しに見かける。


 でも、こんな間近で彼と遭遇するのは初めて。


 廊下で雑談にふけていた私のクラスの女子たちも、彼の姿に気づいたようで「あ、水樹くんだ」と、どこか眩しそうな目をした。


 私もつい彼の事を見つめてしまう。


 水樹くんを先頭に4人が近づいてくる。


 そして、私の側を通過する時、水樹くんが私の顔をジーと見てきた。なにか言いたそうな表情をする。


 ハッとした。私、なんて不躾な視線をしているのだろう!


 私のジロジロとした視線が彼を不快な気持ちにさせてしまったのかもしれないと思い、慌てて目を逸らせようとした。


 すると――。


「おはよう、れいちゃん」


 水樹くんが爽やかな笑みを浮かべながらそう言った。


 場に居合わせた人たちの動きがピタッと止まるのを肌に感じた。


 視線が私に注がれる。


 みんな『え? この子に挨拶するの?』って顔をしている。彼の友達も、教室の前で立ち話をしていた女子たちも、教室に入りかけていた川村さんも。


 私も同様の気持ちで、辛うじて「お、おはよ……」と挨拶を返す。


 水樹くんはそのまま廊下を奥に歩いていき、間をおいて、彼の友達が足早にその後を追いかける。


「今のって、の1人の桜井なんとかじゃね?」


「多分そう。下の名前、れいって言うんだ」


「へぇ。水樹はなんで知ってんの?」


「ん? まぁな」


 彼らの話し声が聞こえてくる。


 私は唖然とした。


 自分が裏で“脱落候補”だなんて不名誉なあだ名で呼ばれている事は知っている。


 私の他にも不登校やそれに近い生徒が学年全体で数人ほどいて、いつ学校から消えてもおかしくない状態である事から、脱落候補と揶揄やゆされているらしい。


 でも今はそんな事なんてどうでもいい。自分の身に起きた出来事が衝撃的すぎてそっちにばかり気をとられてしまう。


 あの水樹くんが私に挨拶をしてくれた。それも下の名前を呼びながら。


 どうして……?




section5




――おはよう、れいちゃん。


 彼の言葉がこだまになって私の頭の中でいつまでも響き、そのたびに温かい気持ちになった。


 柄にも無く浮かれてしまっている自分がいる。なぜか分からないけれど、学年きっての人気者の男子が私のことを意識してくれた――。


 彼にとっては、たかが挨拶。


 私にとっては、されど挨拶。


 ほんの数秒ほどの短い言葉に私の心が揺さぶられたのだ。


 午前中の授業を終え昼休み。


 約束通り夏目さんが一緒にご飯を食べてくれることに。


 仲の良いグループに「今日、桜井さんと食べるから」と断りを入れてまで、お弁当や椅子を持って私の席へやってくる彼女の姿を見た時は、なんだか申し訳ない気持ちになった。


 私は綺麗に片づけたばかりの机の右側に昼食の入ったエコバッグを置く。


 その左側に、夏目さんが「お邪魔します」と言いながら、バブル・ドット柄の風呂敷に包まれたお弁当箱と、それに水筒を置いた。


「さぁ、食べよっか」


 夏目さんの一言を合図に私たちは食べ始める。


 食事中、彼女が積極的に話を振ってくれるので、当初心配していた気まずい沈黙が生まれる事もなく、思ったよりも楽しいランチタイムとなった。


 さり気なく、夏目さんのお弁当箱の中身に目をやる。


 主食の豆ご飯、主菜の卵焼きとつくね団子、副菜のミニトマトとひじき煮、デザートのオレンジのくし切り。


 定番ながらも栄養バランスの取れたメニューだ。


 それにしても、くすみピンクのまゆ形をしたお弁当箱が可愛い。


「あの、なんか夏目さんのお弁当箱まん丸で可愛いね」


 すると、「でしょっ……!」と夏目さんの目が嬉しそうに輝いた。どうやらデザインに惚れて衝動買いしたらしい。


 それから中学生の頃の話になった時に、彼女が筑紫北つくしきた中学校出身である事を知る。


「じゃあ夏目さん、水樹くんと同じ中学校だったの……?」


「うん、そうだよ」


「えっと、水樹くんって普段どんな風に女子のことを呼んでたの?」


 不思議そうな顔をしながら、彼女が左上を見つめる。


「どんな風にって……普通に名字を呼び捨てだったと思うよ。3年生の時に同じクラスだったけど」


「下の名前で呼んだりはしないの……?」


「下の名前? それは無かったかなぁ。彼女や幼馴染みたいによほど親しい間柄なら別だけど」


 それじゃあ、今日の朝の出来事はとても異例だという事になる。


 そもそもどうして私のような最下層にいる生徒の下の名前なんかを知っていたのだろう? 彼の友達はあの時に初めて知ったような反応をしていたし、それがデフォルトだと残念ながら自分でも思う。


 彼の返した「まぁな」という言葉には一体どんな意味が――。


「いきなりそんな事を聞いてどうしたの?」


 夏目さんにそう問われた私は、今朝の出来事を話してみた。


「そうなの? 桜井さんって水樹くんと何か接点あったっけ?」意外そうな反応をする。


「ううん、全く……! 向こうは私の顔すら知らないと思ってた」


 挨拶はまだ目が合ったついでに……で説明がつくけれど、初対面であるにも関わらず私を下の名前で呼んでくれた事に関しては不可解でならなかった。


 夏目さんもただ首をひねるばかり。


 お互いに食事を終え、少しだけ雑談を続けると、夏目さんが荷物を持って自分の席へ戻っていく。それから、席に集まってきた他の友達とお喋りしつつ、ノートを開いて勉強していた。


 私は残りの時間をスマホで漫画でも読みながら過ごす事にした。


 その途中、ちょっとした思いつきで、ブラウザを開いて水樹くんの名前をネット検索してみる。


『メンズモデル・水樹怜央』の文字列が入ったとあるモデル事務所のホームページが上の方に表示されたので、それをタップする。


 水色のシャツと黒いストレートジーンズのシンプルないでたちでポーズを決める男の子の写真が、トップ画面に映し出された。


 前髪を下ろしたヘアスタイルで私服姿だけれど、確かに私の知る水樹くんの面影があった。


(本当にモデルとして活動してるんだ。すごいなぁ)


 全身写真の他にバストアップ写真など合計10枚ほどのギャラリーがページ内に埋め込まれ、それらと共に、プロフィールや活動実績を掲載する欄が設けられている。


 趣味の欄に私の目が引かれる。


 ギター、バスケ、ランニング、パルクール、キャンプ、クレーンゲーム、カフェ巡り――。


(うわ、沢山ある!)


 私の中のイメージ通り、彼はとてもアクティブな人物らしい。


 活動実績を見ると、CM、雑誌、カタログなど様々なローカルメディアにおいて活躍しているようだった。


 挨拶に過ぎないとはいえ、そんな魅力的な彼と言葉を交わす事ができた。このままハッピーな気分で残りの1日を過ごせそうな気がする。


 私は画面の中の彼を見つめながら「ありがとう」と密かに呟いた。 

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