♯2 不器用なナンパをされて
section3
週末の土曜日。
平日と違って、幾ら家にこもったところで罪悪感を感じる必要は無いので、私の心は少しだけ軽かった。
他の子たちは部活、塾、友達との遊びなどで忙しいのだろうけれど、どれも私にとっては無縁。
数少ない中学までの友達は、別々の高校へ進んだのをきっかに疎遠になってしまった。
お互い、以前とは環境の異なる新生活があるのだから仕方がない。
朝のルーティンを済ませ、しばらくスマホで動画を見て、それから申し訳程度に1時間ほど勉強をしても、時計の針はまだ10時。
手持ち無沙汰のなかピアノが弾きたくなった私は、毎度のように月沢駅へ向かう事にした。
半袖Tシャツ、ストレートジーンズのラフな格好に、薄手のカーディガンを合わせて装いを整える。
それから肌の露出部分に軽く日焼け止めスプレーを吹きかけ、小物類を準備すると、部屋を出て階段を降りていく。
玄関で通学用のスニーカーを履く。何足かある中でそれを履いていきたい気分だったので。
晴れ空のもと春日駅まで徒歩で向かい『春日▶︎210円区間』の切符を購入し、5分ほど待ってから電車に乗り込む。
1度ピアノを弾くたびに切符の購入費用だけで420円が飛ぶ。
2000円ぽっちのお小遣いから考えると痛い額だけれど、私にはこれまでのお年玉を貯めたお金が幾らかあるので、今のところ、それほど大きな問題では無かった。
土曜日の月沢駅の構内――。
平日より人が多いし客層もやや異なる。小さな子供を連れた家族の姿を、いろいろな所で見かける事ができる。
架け橋ピアノにおいても4、5歳ぐらいの小さな男の子の先客がいた。
キャッキャッと騒ぎながら両手で鍵盤をバンバン叩いている。
両手が沈むたびに、普段そうそう聞けないような不協和音が放たれる。
私は目を点にしながらその様子を眺めた。
なんだろう、スフォルツァンドかな?
……いや、スフォルツァンドだろうが、フォルティッシシシシシモだろうが音は綺麗なはず。
こんな演奏の仕方は存在しない。
(あの子にとっては音の出る面白いオモチャぐらいの認識なのかなぁ)
私の心がちょっぴり痛む。人によっては子供が無邪気に遊ぶ微笑ましい光景なのだろうけれど。
「こらッ! 壊れるからやめなー。もう行くよ」
最終的に母親の手によって強制退場させられていた。
その後、他に利用希望者らしき姿は見当たらなかったので、私が進み出る。
大丈夫だよ〜。次は私が大切に弾いてあげるからね、上手くはないけれど。
そう心の中で声を掛けながら椅子を引いて、
ウォーミングアップのハノン、クラシックを2曲、それから創作曲を立て続けに弾く。
鍵盤の上で私の10本の指がご機嫌そうにダンスを踊った。
◆
ふと気づくと、右斜め後ろのサークルベンチに、明らかにこちらに意識を向けるようにして誰かが腰掛けていた。
横目でチラッと確認する。
長い体、シャープな顔立ち、ボリューム感のある髪。
あの人って、もしかして――。
息を呑む。途端に演奏が乱れそうになったものの、どうにか持ち直す。
見当が正しいのかとても気になった。でも、今の状態では彼の姿をハッキリと視界に収める事ができない。
もどかしさを感じつつ、ひとまず、これまで通り演奏に集中する事にした。
私には創作曲のストックが10曲ほどある。そのうちの2、3曲を弾き終えたところで、架け橋ピアノの利用目安時間を(たぶん)使い切ってしまった。
ここまでにしよう。
鍵盤から指を、ペダルから足を離す。
そして、周囲を見渡す風を装い、さり気なく彼の方へ目を向けようとしたところ、あの聞き覚えのある乾いた音が私の耳奥に届いた。
反射的に、音のする方を振り向く。
すると――。
予想通りの光景が私の目に映し出された。
あの時と同じ人が、あの時と同じように私に拍手を送ってくれていた。
彼の手元から放たれた音の波が、真っ直ぐに空気を伝わり、優しく私を包み込む。
きっと、以前と同じようにたまたま私の演奏を見かけ、そして聴き入ってくれたのだと思う。
もしかしたらこの近くに住んでいて、普段からこの駅を利用するのかもしれない。
嬉しさ、恥ずかしさ、誇らしさ……いろいろな感情が一瞬にして渦巻く。
今度は逃げずに、きちんと感謝の気持ちを伝えた方がいいかも。せめて深めにお辞儀を――。
そう思った時、急に彼がベンチから立ち上がった。
そしてズシズシ歩いてくる。
元より十数メートルほどしかない距離。あっという間に私の元まで辿り着いた。
男らしい面積の広い体が私の視界に広がる。
ビッグシルエットのTシャツにワイドパンツ。黒色を基調としたモノトーンコーデ。重さを感じさせる服装も相まり、どこか威圧感のある佇まいで私の事を
少し
「あの……」彼の薄い唇が動き、想像していたよりも低くボソボソとした声が、
突然の展開に私は
それから間を置いて、「は、はい……」と、しどろもどろに言葉を返す。
お辞儀の事なんてすっかり頭の中から吹き飛んでいた。
「まあ、何というか……」
はにかんだように彼が
あ、もしかして、私の演奏について何か感想を言ってくれようとしているのかな。
そういえば、前も私に何か伝えたそうな素振りを見せていた……。
でも――。
「これから暇? 良かったらお茶でも飲もうよ」
しばし間を置いて、その言葉の意味を理解するや否や、ナンパという3文字が私の頭の中をスーと流れていく。
私はポカンとし、その後、戸惑いの表情を浮かべる。
その間にも「そんな時間は取らないからさ……!」などと、畳みかけるように彼が言葉を続けた。
(なにそれ。そういうことだったの?)
私の心が急速に冷めていく。
彼から顔を
「ごめんなさい……」
断りの言葉を辛うじて述べ、足早に立ち去る。
途中、私の背中の向こうで彼は今どんな表情をしているのかな、なんて事を思った。
ナンパが失敗して残念がっているのか。
イモ女が調子に乗るなと怒っているのか。
◆
「単なるナンパの手段だったのかな、あの拍手は」
電車を待つホームのベンチで、私は1人虚しく呟いた。
演奏に対する感激の気持ちを
拍手で相手を浮かれさせて誘いに繋げる――そんな風な下心を今となっては感じる。
(それにしても不器用だったな、彼)
以前に一度だけ、博多駅の駅前広場にて、見知らぬ男の人からナンパをされた経験がある。
10代後半ぐらいの
声かけがとても自然で、手慣れた感じがした。
恐らく手当たり次第に女の子に当たっていき、その中から脈のありそうな子だけを選んでいたのだと思う。
私は初めてそんな行為を受けた驚きから、思わず拒絶に近い反応を示してしまい、早々に“脈なし”と判断されてしまったようだけれど。
その時の人と比べると、彼の誘い方はとてもたどだとしかった。
普段ナンパなんてしないんだろうな、という事が容易に想像できる。
それにも関わらずわざわざ私に対して、それも出会いのどちらにおいても、アクションを起こしたのは。
慣れないナンパに手を出してしまうほど私の事がタイプだったから……?
最低限の服装をしてきて良かったなとか、髪のほつれを櫛でほぐしておいて良かったなとか、どうでもいい事を考えてしまった。
これが別の場面だったら、また私の反応も異なっていたかもしれない。もしかしたら。
でも、あの場面――私の演奏に感動してくれる人がいるのだと喜んでいるところに、不意打ちのナンパなんて食らえばショックな気持ちになるに決まっている。
なんたって、ぬか喜びをさせられたも同然なのだから。
「ガッカリだな……」心の声が自然と漏れた。
section4
その夜。
23時ぐらいにベッドに入ろうとしたところ、スマホの着信メロディが鳴った。
私に電話を掛けてくる相手は限られる。家族の誰か……もしかしたらお姉ちゃんかな?
そう思いながら、枕元に投げておいたスマホの画面に目をやると、案の定『姉』とシンプルな文字が表示されていた。
なんだか嫌な予感がする。また
さっさと寝たい。でもシカトすれば後からうるさいので、仕方なく通話ボタンをタップ。
「あっ、澪?」
「どうしたの、今から寝ようと思ってたのに……」
「いいから聞いて。今日ね、秀紀と高尾山登ったのよー。あっ、分かる? 八王子にある登山者数世界一の小さな山」
何の前置きもなくトークが始まった。
「え? うー、うん」
「だよね、澪でもそのぐらい知ってるよね。それで私初心者だから無理が無いようにって、彼、ずっと私の荷物を持っててくれたのよ! 優し過ぎない?」
「そ、そうなんだ、確かにそれは優しいかも」
私は相槌を打ちつつ、また始まった……と思った。
つい先月、
女子校出身で女の園に染まり続けてきた影響からか、昔から私と違って美人な割にプライベートに男っ気がなく、自分でも「男にうつつを抜かすぐらいなら将来の為に
彼氏のいる生活は思ったよりも楽しく浮かれ気分だけれど、自身の言葉の手前、それを大っぴらには出来ず、それでも誰かに自慢したい気持ちが抑えきれなくなった結果、私に白羽の矢が立ち、事ある毎にノロケ話を聞かされる羽目になったのだ。
「山頂から富士山を眺めてたら、突然2、3人ぐらいの男のグループにナンパされたのよ。そしたら、いつもなら優しい秀紀がちょっと怒ったみたいに一喝してくれて……なんというか、トゥンク? 私を大切にしてくれてるんだって」
「はぁ、大変だね美人さんは。恋人がいるのに声なんて掛けられて」
「ふふん、羨ましい? あんたもちょっとはメイク覚えて、髪もミディアムボブあたりにすれば? 伸ばしっ放しじゃなくてさ。そしたら1度ぐらい男に声かけられるかもよ。東京行く前、私のお古の道具何個かあげたでしょ? 私が通ってた美容室の名刺もまだどこかにあるはずだし」
さり気ないディスりに私はムッとした。
時々それっぽいメイクをする事はあるし、馴染みの美容室だってある。
それに――。思わず今日の朝の出来事を話しそうになった。
私に目を奪われるような人も、中にはいるんだから。
でも、そんな小っぽけな自慢をしたところで何の実りもないと思い、その後も黙ってお姉ちゃんの話を聞き続けた。
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