夕方の色

穴田丘呼

第1話

 太陽が落ちていっているのは見れなかった。外は断続的に雨が降り、それはほとんど丸一日に及んだ。今は夕刻を刻む時計が日本中にこだましていることだろう。ただしぼくの住む地域では雨のため落日の太陽も拝むことができず、夕映を重ねた雲の帯も見ることはなかった。


 一日が終わろうとしていた。ぼくは虚しくて何もこの世界にいうことはない。好きなように世界が変転し、そうしてそれらに人々は翻弄され、それらがまるで苦行か何かみたいにせわしなく、もしくはだんまんに過ぎ去り、生命というある種の輝きを傷つける。置き去りにされたこころの中の1行は誰にも語ることなく、誰にも知られることはなく、やはりだんまんに軽快に消えてゆく。


 ぼくがここに居るわけはそう簡単な話じゃない。けれどもそれらは単純明快でもある。誰しも望んだようには生きてはいないように、ぼくもあらゆる障害がぼくを邪魔だてしてきた。それはぼく自身でさえある。その障害の張本人が自分自身だったこともあるのだ。ぼくの道行を語るには無理がある。ぼくは多重人格者みたいに自分が自分であることを忌み嫌う。それは念の為にいっておくが、狂気といってみてもおかしくないぼくの道行だったのだ。


 それらはぼくはここで語るまい。語るとするなら自己自身がひとつの人格で収まった時だろう。そうでないとぼくは何も語れないのだ。また語ったとしたらそれらは豊かに見えるがそれはこころが導いたものではなく、誰か他人の物語を拝借したようなそんな語りで終始し、ぼく自身を語るには本意ではないのだ。語りそのものがバラエティーに富んでいるかもしれないが、それはある本質を欠いた自己自身の物語になってしまうことも考えられる。


 だからぼくは書いた物は寝かすしそれで第三者として読むことのできる空間を待ち望む。そうして書かれた物だけが、静かに現在の自分に語りかけるまで待つつもりだ。ぼくはそうして年をとったのだ。中年と呼ばれる年まで。周りがやはり年齢を重ねた連中でいっぱいになってくる。自分の身の丈を考えれば自分と近しい人物はやはり年をとった連中と限られる。そうした色なのだ。


 ぼくの母は80を超えた。衰えた肉体が、見かけ上でも老婆という言葉にほど近くある。彼女はもう年なのだ。生きている間はそう長くはない。10年も生きたとしたら記録更新だ。そんな比喩が成り立つ年齢だ。街も老いた。ぼくが引っ越してきたニュータウンはもう老タウンになってしまった。象徴的なのはそこにあったイオンが取り壊しになったことだ。集客が年々落ちてしまったためかその店舗はもうなくなりつつある。解体にかかっているのだ。


 そこかしこに歩く老体。足を引きずる人。杖をついた人。車椅子の人。障害者。目の不自由な人。腰を曲げて乳母車を押す婦人。誰かがどこかがおかしい。誰しもかもしれない。病院にゆけば老人たちが椅子を占拠している。そんな色。不滅ではなく朽ち果てる色。死へ向かって徐々に蝕まれてゆく色。少しずつどこかが歯車が狂ったようにおかしくなる。そこにはまだ命があった。


 首を傾げた乳幼児。その額には無数のできものがあった。母親が苦にして皮膚科にお世話になったのだ。新しい生命が皮膚を脅かす。自然の脅威。生き物の反応。朽ちる者の中で生命の力を発揮する者がいる。しかしながら死の色はだんだん深く色付いて来る。生命誕生のその刹那、死が入り込んでくる。約束された死へと生命の誕生がリンクしている。


 ぼくはそんな色を見ている。暮色。暮れゆく色。このオレンジ色はなんて悲しい色なんだろう。暗闇にすべて吸い込まれるまでその色は輝く。優しい色と一見思えても、それは非情な色なんだ。申し遅れたが、ぼくの母は恐らく膀胱がんだろう。切除手術は内視鏡で行う。彼女はどんな色だろう。苦難の人生を歩んだ彼女。日本人ならわかる戦争体験だ。とはいえ彼女は、ぼくの母は夕方の色には違いない。そして待つべき闇に飲み込まれることだろう。ぼくにできることは涙を流すことだけだ。

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夕方の色 穴田丘呼 @paranoia

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