甘き風に蕩ける

景岡佳

甘き風に蕩ける



淡い薔薇色にゆらめく夕陽の光を背にした叢雲の向こうから、物心つかない幼い子どもの騒がしい声が聞こえてくる。この頃はすっかり日の出る時間も長くなり、闇夜の始まりは次第に遠ざかっていく。お陰様で人々の生き生きとした声が夕方の終わり頃まで聞こえるようになった。いよいよ春を迎える準備を始める時期だ。


2月に入り、聖燭祭を迎えたマリアの聖域にはスノードロップの花がその純白の美を一層輝かせていた。教会の庭を埋め尽くすように咲き乱れる花々は雪景色の如く、自然の女神が生み出すその白が冬の終わりを神秘的に彩る。異国の伝説では、最初は色を持たなかった冬が、色を分けてもらおうと花々の元を訪れたが断られ、唯一自分の色を分け与えたのがスノードロップだった、というものがある。純潔を司るその花は、淑女のドレスの如き涙滴型の花びらを優雅に纏い、今年も厳しい冬の終わりを耐え忍びながら春を告げた。

太陽が姿を消した暗がりの世界。人々の温かな気配も徐々に消え失せていく頃、聖母の花園に不自然にもひとつの小さな影が近づいてくる。教会に繋がる石甃を、時折片足の踵を擦るようにしながら覚束無い足取りで歩き、片手には小さな蝋燭が灯されたランタンを握って。ゆらゆらと柔らかく揺れる金色の炎に照らされたその肌は、まるで悪夢の眠りに落ちた白雪姫のように白く冷たく透き通っていた。少女は忍び足で雪色の乙女達の園に侵入すると、暫く石甃の道を歩きながら花畑を見回した後、とりわけ小さな花の乙女に向かって淑女のお辞儀をした。


「こんばんは。」


子どもらしい短く小さな指の先で、ピンクのフリルスカートの裾を僅かに吊り上げる。少女が想像しうる最大限の‘大人’を模した仕草を披露してみせた。

 

「ご機嫌よう、貴方は誰 ?」


小さなスノードロップは静寂の園に甘い声を響かせる。少女はその歌うような心地の良い音色に、薄桃の両頬を僅かに火照らせる。

 

「私は春の妖精だよ。」


少女は両手を後ろで組み得意気に前屈みになってみせる。ゆらゆらと波うつブランドの髪が、逢魔が時の生温い風に優雅にたなびく。 スノードロップの「そう…」という気の抜けた返事を聞いた少女は、この子ったら咲いたばかりで何も知らないんだわと一種の安堵にも似た呆れ混じりの心境を浮かべた。

 

「貴方、他の花のお友達を知っていて ?」


小さなスノードロップはやや寂しげに答える。

 

「私たち以外の花を見たことがないの。

冬は花が咲かないから。」


少女は改めて冷たく淑やかに咲き誇る花畑を見渡す。春の花々はお互いのドレスの色を見せつけ合うかのように、華やかな春の景色の中で共存し、彩りを分かち合う。けれど、冬の終わりに咲く雪の花は、冬の純白の世界を称えるかのように、孤独な白一色の世界を作り出す。少女はそんな花の運命に、神々しささえ感じられるような美の意識を見出していた。だから、憐れむどころか、寧ろそれで良いのだと、口にすることも無くただ自分だけが納得するのだった。

ふーん、というどこか興醒めしたような声を出すも、その瞳は尚も興奮を表す輝きを見せている。


「つまんないね。」


少女は白い雫の乙女に向き直ると、ぱっと花開いたような笑顔を見せて言った。

 

「でも、もうすぐ春になるよ。春になると色んな花が咲くし、賑やかになる。

冬なんかよりもずっと楽しいよ。」


少女の溌剌とした声色とは裏腹に、それを聞いたスノードロップは、どこか憂いを帯びた溜息を漏らす。その花の吐息は香り高い匂いとして少女に伝わり、花の乙女の憂鬱は、蕩けるように甘く苦い春の香りとして少女の心を踊らせた。

 

「そうね。」


スノードロップは幼くも上品な声色で少女に語りかける。


「貴方と会えて光栄だったわ、春の妖精さん。貴方がもたらす春の季節を、私も一度見てみたかったわ。

きっと、とても素敵なんでしょうね。

暖かくて、動物も花もとても賑やかで……」


そうして、花は口を紡ぐ。少女の顔から微笑みが消えていた。

沈黙の中で少女は何か言いたげな顔をしていたが、すぐに何かを諦めるように目を閉じて、その円な瞳を闇夜の空に移した。刹那の出逢いを惜しむこともなく、それじゃあまたね、という声を置き去りにするようにして、少女はいつの間にか教会の庭から消えていた。小さな白雪の花は、また一歩、春の気配を誘いゆく月夜の景色のなかで、再び意識を閉ざした。

春の妖精は噴水に沿った石甃の道を駆ける。

「貴方を摘んでいってもいい ?」

そんな悪戯で残酷な気まぐれじみた願いを、きゅっと小さく塞がれたほおずき色の唇で閉じ込めて。



 

知っているかい、ソレンヌ。

冬の終わりには、教会の庭にスノードロップという花が沢山咲くんだ。春になる頃には枯れてしまうけど、楽しい春のはじまりを告げてくれる花だから、僕は好きなんだ。


 

「もう少しお話したかったなあ。」


人気の無い静けさに包まれた公園で、錆を着込んだブランコの吊り金具がキイキイと不気味に音を立てている。白のタイツに愛らしい赤のパンプスを履いた細い脚を、退屈そうに空中で踊らせながら。

 

「騙してごめんなさい。 私、春の精霊なんかじゃないの。

春なんてちっとも楽しくない。」


柳の葉のように垂れ下げられたブロンド、その俯いた少女の表情は、湿った大地で息を潜める雑草でさえ、見ることができない。

 

「春になるとここに来れるってだけ。」


その小さな背中の後ろへと真っ直ぐに視線を逸らし、背後にある景色を確かめることができるなら、全てに誰かの名前が刻まれた、やたらと形の整った石の大列を目にすることができる。灰色に染められた午前の空の下、どこからともなく鴉のひと鳴きが響き、寂しげに虚無に溶けていく。

ふたつの赤いパンプスの間に、ぽつり、ぽつりと花びらの小雨がひらひらと舞い降りて、地面に浮かぶ小さな薄紅色の舟を作る。誰のものかも分からない墓石から少しの悪意もなくくすねてきたそれで、少女は何度も何度も繰り返すのだ。

花の季節で町が彩られる頃になると、毎年の様に。

 


「やっぱり、春なんて大嫌いよ。」



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