第3話 第一章、三『森のくまさん』
三
森中に響き渡った女性の悲鳴。
周囲を見回し、即座に悲鳴が聞こえてくる方向を特定する。
突然の危機的状況に、まだ混乱の最中にあった脳内は生存のためにフル回転を始める。
(退くべきか、向かうべきか……?)
イギリスの古典文学の王子のような疑問が浮かぶが、さほど考えている時間もない。
何より悲鳴に紛れて聞こえていなかったが、よく耳を澄ますと、大型動物の足音のようなものまで聞こえてくる。
(絶対逃げた方がいいに決まってる……。)
前方から来る猛獣らしき敵と道すらわからぬ森を当てもなく逃げ惑うリスク。
沢崎直は、後者を選択し即座に回避行動に移ろうとした。
だが、現実はやはりそんなに甘くはない。
そもそも生まれてこの方、平和で安心安全が売りの国で暮らして二十五年。交通事故に遭って死にはしたものの、危険に対処して生きる必要のない暮らしを送ってきたのだ。どれだけ即座に決断して実行に移したところで、たかが知れている。
……それに、女性の切羽詰った悲鳴に後ろ髪を曳かれなかったと言えば嘘になる。
逃げ始めてすぐ、猛獣の足音は彼女の近くまで迫ってきていた。
既に大きな影が木々の間からこちらに向かってきているのが視界にちらちら映っていた。
(これ、もう、絶対詰みじゃん。詰んでんじゃん。)
心の中では喚きながら、森の中を逃げ惑う。
(えっ?私また死ぬの?死ぬの?ついさっき死んだばっかなのに?)
(えっ?っていうか、生きてるの?今、生きてるの?夢?夢じゃないの?)
結局、頭の中が疑問符の洪水でパニックになる。
そんな状況が長く続くわけもなく……。
大きな木の前に追い詰められる。
近くで見ると、ソレは思っていたよりも三倍近くの大きさがあった。
(……く、くまさん?)
目の前のソレは、彼女が知っているクマと分類される動物より明らかに凶暴だった。
大きさもさることながら、手から生えている爪が武器のバグナクっぽいし、ホラー映画でしか見たことのないような牙が大きく開けた口からは覗いており、瞳にいたってはアニメ表現かというように赤く禍々しく輝いている。
(……終わった。)
ソレと対峙した途端、彼女の心には諦めが広がった。
諦めが広がると同時に、パニックは静まり、心は凪いでいく。
一度、死んだせいか、達観するのは早かった。
どんなに足掻いても、死ぬのは所詮一瞬なのだ。
交通事故の時は一瞬過ぎて感じられなかったが、今回は走馬灯のようなものを感じ始める。
ソレがこちらに向かって振り上げる凶暴な腕が、ゆっくりとしたスピードで視界を通っていく。逃げ惑っていたせいで乱れた自分の呼吸が、やけにゆっくりと耳に響き、体内を駆け巡る血液を感じられるほどに鼓動を強く感じる。
覆い被さる影のようなソレを見上げながら、彼女の脳内には二十五年の人生の思い出が去来していた。
良い思い出ばかりが過ぎ去っていくが、その隙を突いて、死ぬ直前に味わった屈辱が過りそうになり、そこは慌てて脳内から締め出した。
過ぎ去る思い出の最中、懐かしい声が虚空から響いてくる。
『いいか?強大な敵と対峙する時はな……。』
(……師匠?)
それは、長年通い続けた空手道場の師匠の声だった。
半ば義務のような気持ちで、芽も出ないのに鍛錬を続けた記憶も今はもう懐かしい。
『相手の目をしっかりと見つめ……、いいか?目で殺すくらいの気持ちでだぞ?』
(いや、師匠。目からビームでも出るか、石化でもさせるバケモノじゃない限り目で殺すのは無理ですってば……。)
『丹田に力を込めて、裂帛の気合いで突きを打ち出すんだ。いくぞ!』
「きぃええええええええええええ!!!!」
気づくと身体は無意識に動いていた。
師匠の教え通り、相手を見据え、裂帛の気合いで掛け声とともに繰り出される正拳突き。
それは、かつてないほどの威力を伴い、目の前の敵の腹部へと吸い込まれていった。
ゴフンッ
確かな手ごたえを感じ、敵が怯む気配がする。
『いいか?どんな時でも、油断はするな。仕留めるときは確実に、だぞ?』
畳み掛けるように、無意識で師匠の声が導くままに身体を動かす。
正拳突きの後は、敵を見据えたまま、足を高く蹴り上げる。
「せぇぃぃぃぃぃ!!!」
ガスンッ
蹴りを受けた敵は、僅かによろけ後ずさる。
追撃のチャンスとばかりに、彼女はその場で飛び上がると、数メートルはある敵の頭部目掛けて必殺の踵落としを繰り出した。
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