第6話 燃える闘志

 結局、見えない視線に惑わされ、舞音まねは終始、緊張感に苛まれ続けた。しかしそんな彼女にも、この来店で唯一良かったと思えることがある。Cafe Boutiqueのタルトと紅茶は、彼女が生涯で味わってきたあらゆる食品の中でもトップクラスの絶品だったのだ。これほどの緊張の最中にいる人間に舌鼓を打たせるとは、さすが一流店。舞音は一人、感心していた。


 しかしせっかくの感動体験も、その他諸々の失態のせいで台無しである。やっとの思いで絶品スイーツを完食し、想像の二倍ほど高くついた会計を終える頃には、彼女はすっかり意気消沈していた。そんな彼女を店外まで見送るべく、出入口には一人の店員が待ち構えている。


 それは、最初に出会った執事風の銀髪男だった。


「本日はありがとうございました。またのご来店をお待ちしております」


 定型文を述べる彼の瞳からは、何の感情も読み取ることができない。

 それを見て、舞音はこう思った。


 きっとこの男は、ショーウィンドウ席を熱望したくせに、タルト一つ満足に味わえない舞音のことを、内心嘲笑しているに違いない。その嘲りの感情をを、お得意の営業スマイルの下に巧みに隠しているのだ。


 そう思った途端、沈んでいたはずの彼女の心に、急激な怒りが湧き上がってきた。煮えたぎるマグマのように体の中から突き上げてくるこの激情は、やがて彼女の脳内で結集し、一つの目標を形作る。


 こうなったら、何がなんでも、ショーウィンドウ席に座ってやる。

 そして、この店員のことを見返してやる!


 慇懃無礼な店員の態度が、満身創痍だった舞音に、烈火の如き闘志を注ぎ込んだ瞬間である。


 扉をくぐりかけていた彼女は、突如、仮面のような笑みを浮かべる男を振り返った。その急激な行動に、彼は少し面食らった。


「あの、すみません」

「は、はい。どうされましたか」

「あなたのお名前を教えていただいても?」


 舞音としては、因縁の相手の名前を知っておきたかっただけなのだが、この男がそんな事情を知る由もない。彼は唐突な質問に心底驚いた。貼り付けていた微笑が、一瞬その顔から消え失せる。


 舞音はさすがに不躾すぎる質問だったかと、ほんの少し後悔した。


 しかし彼女にとっては幸運なことに、その男はそれ以上、特に不快感を表す様子もなかった。それどころか彼は、ふっと笑い声をもらしたのである。その声は、嘲笑でもなければ、愛想笑いでもなかった。


 この状況を、心から喜んでいるように聞こえる声だった。


 想像の斜め上をゆく反応に、舞音は唖然とその場に立ち尽くした。店員は舞音の困惑した視線に気づくと、咳払いを一つ挟んで、また元の恭しい口調に戻った。


「失礼いたしました。思いがけないご質問でしたので、つい動揺してしまいました。私は、柘植つげと申します」


 彼は柔らかに言って、頭を下げる。舞音は男の名を復唱した。


「柘植さん。覚えました。私は駒井舞音と言います。急な質問をしてしまって、すみませんでした。では、


 彼女は最後にそう言い残すと、勢いよく踵を返して、Cafe Boutiqueをあとにする。


 そんな彼女の後ろ姿を、柘植は他の客に対してするより、少し長い時間、見守っていた。

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