第5話 マナーの迷宮
やっとのことで注文を終えると、テーブルには紅茶を暖かく保つためのティーポットスタンドや、値段を考えて恐ろしくなるほど美麗なティーカップなど、見慣れないものが続々と運ばれてきた。最後の仕上げと言わんばかりに、先ほど注文をとった店員がケーキ皿を置く。
そこに載っているのは、フルーツタルトだ。苺、ブルーベリー、桃、シャインマスカットなど、みずみずしい果物がこんがり焼けた生地の上にてんこ盛りになっている。羞恥心で打ちひしがれていた
「ポットの茶葉は抜いておりますので、お好きなタイミングでお召し上がりいただけます。それでは、どうぞごゆっくり」
柔らかな声を残して、店員はバックヤードへと下がる。
舞音は密かに気合いを入れ直した。
注文はうまくいかなかったが、まだ挽回できるチャンスは大いにある。いやむしろ、ショーウィンドウ席に座る者の資質として重要視とされるのは、華麗な注文テクニックではなく、美しい食事の所作だろう。注文をする声なんて、どうせ店外には聞こえない。
そんなわけで、彼女は気を取り直し、意気揚々とフォークを手に取った。
しかし余裕があったのは束の間。
彼女は再び、途方に暮れることになる。
というのも、次のような疑念がふと脳裏を掠めたからだ。
タルトって、どこからどう食べるのが正しいマナーなのだろうか?
つまり三角形の先端部分から攻めればいいのか、それとも反対側からなのか、という問題である。
普段の彼女なら、どちらでも良いと思っただろう。しかし、今日だけは違う。この些細な動作には、ショーウィンドウ席へのチャンスが掛かっているのだ。二択を外せば、チャンスはまた一歩、遠のいていく。
ただでさえ、注文は散々たる
この二択、外すわけにはいかない。
そう意気込めば意気込むほど、彼女はおいそれとタルトにフォークを入れられなくなった。その銀の先端が思案げに揺れる。その隙に、舞音には次なる疑念が湧き上がった。
そもそもタルトを切り分けるとき、フォークを上から突き刺してしまって良いのだろうか。それとも先端を横に倒して、ナイフのように切るべきなのだろうか。
こちらも普段の彼女にとっては、心底どうでもいい心配事である。実際、彼女は今まで、そんなことを考えたこともなかった。しかし一度でも疑念が頭をよぎってしまうと、それは脳内でむくむくと膨れ上がり、無視することができないほどに肥大化するのである。
こうして舞音はマナーの迷宮にハマった。彼女はフォークをテーブルに戻し、軽く深呼吸をする。一旦、気持ちを落ち着かせて、タルトをどのように食すか考えようとしたのだ。しかしマナーとは所詮、他人が勝手に決めたルール。落ち着いて考えたところで、正解が分かるものではない。
彼女は今すぐにでもスマートフォンを取り出して、タルトの正しい食べ方を調べたい衝動に駆られたが、寸前で思いとどまった。食事中にスマートフォンを開くという行動に、良いイメージはない。
つまり、万事休す。
完全なるお手上げ状態である。
舞音は静かに天を仰いだ。
こうなってしまったからには、彼女にできることは一つだけ。
ただ本能の赴くまま、己の考える最上のマナーで、このケーキセットを完食すること。
それだけだ。
「よし」
彼女は小さく呟くと、再びフォークを手に取った。
つまり、舞音は開き直ったのである。
そこからは、もうがむしゃらだ。彼女は自分なりに細心の注意を払いながら、タルトを口に運び、紅茶を味わった。しかし硬いクッキー生地の底部分を切ろうとして、フォークと皿がカチャンと派手な衝突音を立てたり、その影響で載っていたフルーツが崩れ落ちてしまったりと、アクシデントは絶えない。
その間、店内のあらゆる場所から注がれる審査員たちの視線は、片時たりとも彼女に安らぎを感じさせなかった。
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