第4節 春

ただそれだけのことが、私にとっての

 バレンタインデーが終わってからしばらくの間、翔太は悶々とした日々を過ごした。藤井から手作りチョコを貰ったことについて、たまには自分の頭でちゃんと考えてみようと思い、誰にも話さずにいた。藤井の様子も変わらず、バレンタインデー以来特別なことは起きていない。また二人きりになる機会もなかったので、あのチョコについて話してもいない。


 結局どうすればいいのか分からず、クロと矢島に相談することにした。いつも通り休み時間に外階段の踊り場で集まっているとき、その話を切り出した。


「思ったんだけどさぁ」


 すると矢島が興味津々な顔で翔太の方を向いた。


「どうしました?」


「藤井ってやっぱり僕のこと好きなんじゃないのか?」


「何ですか、モテ男気取りですか。殺しますよ」


「そうじゃないって」


 翔太はバレンタインデーに藤井と一緒に帰ったとき、チョコを貰ったという話を二人に打ち明けた。


「てなことがあったんだ」


 話を聞いたクロが腕を組んで唸った。


「うーん」


「これはどうしたらいいんだろう」


「どうしたらって、好きなのかどうか本人に訊いてみればいいだろ」


「でも僕、僕のことは好きにならなくていいって、もう言っちゃったんだよな。切なげな笑みをたたえながら」


「たたえちゃったかぁ」


「それなのに、僕のこと好きになったのかって訊いてもいいのかな。それに、チョコが義理か本命か訊いてもはぐらかされたわけだし……」


 クロと矢島は無表情になり数秒間目を合わせる。そして頷き合ったあと、クロが翔太の肩をバンバン叩いた。


「ギャハハハ、ビビッてんのか! しょーがねーなー、俺たちが付いてってやるよ!」


「えっ」


 矢島もノリノリで話に乗っかる。


「今日の放課後、藤井さんを呼び出しましょう!」


「えっ、そんな急に言われても……」


 翔太は尻込みしているが、クロと矢島の勢いは止まらず、発破を掛けてきた。


「女子なんかこう……ガッといって、グイッとして、バーンっていけばいいんだよ」


「卒業まであとちょっとしかないんですよ!」


「お、おう……」


 結局二人に気圧され、放課後藤井に訊いてみることになってしまった。



 帰りの会が終わったあと、藤井の席にクロがやって来て、彼女に凄んだ。


「藤井、ちょっと体育館裏までツラ貸せや」


「決闘でもするの? 受けて立つけど」


 もう既にノリがおかしい。隣の席にいる翔太はいたたまれない気持ちになる。だがいつもの場所にいつものメンバーなので、藤井は平然とした様子で連れて来られた。


 体育館裏で、藤井の前に並ぶ三バカ。彼女は既視感を覚えた。


「なんかこの状況、前にもあったような気がするんだけど、気のせいかしら?」


 するとクロが藤井を指差した。


「やい、藤井!」


「何よ」


「これより翔太様より大事なお話がある。心して聞くがよい」


「何なのそのキャラ」


「司会進行の黒田だ。さあ、やっちまえ! 翔太!」


 クロに背中を押され、藤井の前に立つ翔太。彼女も翔太のことをじっと見ている。翔太の心臓はもうバクバクだ。だが、なんとかして声を絞り出す。


「あ、あの……この前はチョコありがとう」


「ああ、うん」


「美味しい……かどうかは分からないけど、めっちゃピーマンの味がしたよ」


「うん、これからもちゃんとピーマン食べてね」


「うん。それで……」


 藤井があまりにもいつも通りなので、翔太は口籠ってしまった。


 藤井とは友達としてはかなり仲良くなったが、恋愛という観点においては高嶺どころか雲の上に咲く花のようであった。だがそんな彼女がもしかしたら翔太のことを好きなのかもしれないという可能性が、目の前にぶら下がっている。その幻のようなものに手を伸ばしてしまってもいいのだろうか。


 OKだったらどうなる? 藤井と付き合う? 付き合うって何だっけ? OKじゃなかったらどうなる? 僕は藤井が笑顔でいてくれれば、それだけでいいはずだったのに。


 翔太には分からない。どうしてこんなに胸が苦しくなるのだろう。どうしてこんなに彼女のことが好きなんだろう。でも、そんなことは分からなくてもいい。だって、これが初めての恋なのだから。


 やがて翔太は意を決して、重々しい声色でその質問を口にした。


 僕は、ちゃんと確かめなきゃいけない――。


「藤井は、僕のことが好きなのか?」


「そうだけど?」


 藤井はあっけらかんとした様子で答えた。思わず拍子抜けしてしまうほどに。


「えっ」


「えっ」


「えっ」


 予想外の反応に面食らう三人。緊張感のある空気が霧散してしまった。クロが引き気味な様子で確認する。


「えぇ……マジで好きなの?」


「うん」


「なんでそういうこと、そんな普通のテンションで言っちゃうんだよ!」


「そっちが訊いたからでしょ!」


 続いて矢島も援護する。


「ここは頬を赤らめながら言葉を濁すくらいにとどめて、卒業式の日まで引っ張りつつ、最後に桜の花びらが舞う中で満を持して胸に秘めた想いをそっと告げるところじゃないですか!」


「注文が細かいのよ! 何の青春映画よそれ!」


 そもそもこの地域では、卒業式の頃に桜は咲かない。


「もう卒業式までやることなくなるじゃないですか! 僕たちは一体学校で何をすればいいんですか!」


「勉強しろ!」


 翔太はついていけなくなり、慌てふためいている。


「あわわわわ……」


 見かねたクロが藤井に吠える。


「見ろ、翔太が白目剥いてるぞ! どうしてくれる!」


「なんでそうなるのよ!」


 クロは咳払いをして、真剣な顔つきになって言った。


「よし、分かった。みんな一旦落ち着こう」


「アンタが一番落ち着きなさいよ」


「まあ、とりあえずそこに座りたまえ」


 クロが偉そうに指示すると藤井は言われるがまま、いつものシャトルドア前にある短い階段に座った。


「それで?」


「お前、翔太のことが恋愛的な意味で好きなのか?」


「さっきそう言ったでしょ」


「なら、好きになった理由教えてくれないか」


「なんか前にもこんなことがあった気がするけど、立場が逆転しているわね」


「歴史は繰り返すものなのだ」


「そうね、ダーリンのいいところは……」


「ちょっと待て」


 クロは反射的に話を止めてしまった。


「何」


「聞き捨てならないぞ。ダーリンとは何だ」


「ダーリンはダーリンよ。好きな人のことはそう呼ぶと本に書いてあったわ」


「呼ばねーよ! もう捨てろよ、その奇怪な本!」


 藤井は恋愛に関する話をするとき、「本に書いてあった」と度々口にしていた。どうやらその本には、偏った恋愛観が載っているようだ。


「ダーリンは、道路でさりげなく車道側を歩いてくれたり、レストランでお手洗いに行っている間にさっとお会計を済ませてくれるところも素敵ね」


「なんか本で読んだことをそのまま言ってないか?」


 話が進まないので、今度は藤井の方が痺れを切らした。


「ていうか、用が済んだなら黒田と矢島は先に帰れば? ダーリンと二人きりにしないさいよ、空気読めないわね」


 翔太のために良かれと思ってやっているのに、こっちが文句を言われるなんて。クロと矢島はショックを受けた。


「何ー! 畜生、覚えてろよー!」


「いつかギャフンと言わせてやりますからねー!」


 二人は捨て台詞を吐きながら、走って逃げ出した。


「小悪党みたいに去って行ったわね。さて……」


 藤井は立ち上がり、翔太の方を振り返った。放課後の体育館裏で、他には誰もいない。彼女の言う通り、本当に二人きり。世界中が息を潜めているかのように静かだ。風の音すら聞こえず、翔太は自分の鼓動だけが妙に大きく響いているのを感じていた。


 藤井は控えめに微笑んでいるが、そこから感情を読み取ることはできない。本当に翔太のことが好きなのか、嘘なのか、ただふざけているだけなのか。好きになってくれたのならこの上なく嬉しいが、今日の藤井はどこか芝居がかってもいた。


 自分から何か訊くべきなのだろうか。これは一体どういうつもりなのかと。でも上手く声が出せない。


 翔太が何も言えずにおろおろしていると、藤井は噴き出した。やっぱりおちょくられているだけなのだろうか。


「……ふふっ、うっふふ」


 かつての藤井だったら、いつもの調子で「バーカ」とか言ったのかもしれない。でも彼女の口をついて出たのは、そんな言葉ではなかった。


「前にも話したけど、私、山田のことを好きにならなくちゃって焦ってた。でも山田の方から、好きにならなくてもいいって言ってくれたんだよね」


「あ、ああ……」


「それで、無理して好きにならなくていいんだって思ってから、難しく考えなくなったの。そしたら一緒にいるのが安心できるようになってきて、それで……今は……」


「今は……?」


 藤井は一呼吸置いてから、その言葉を口にした。


「楽しいね」


 そう言って、微笑んだ。その笑顔は飾り気がなく自然なのに、だけど特別で、恋をしている人だけが浮かべることのできる表情だ。自分の口からはっきりと好きだと伝えるのは恥ずかしいのだろうけど、その笑顔と「楽しいね」の一言だけで、好意を向けられていることが分かる。翔太も照れながら、でも満面の笑みで彼女の想いを受け止めた。


「うん、楽しいな」


 甘い沈黙が下りる。お互いに気持ちが通じ合ったような気がして、ドキドキしてしまう。藤井はそれに耐え切れなくなってしまい、また口を開いた。


「それじゃあ、私たちも帰ろっか。ダー……」


 藤井は翔太の顔から目を逸らし、顔を赤くして言った。


「山田……」


 うっかりダーリンと呼びそうになってしまい、言い直した。三バカが揃っていたときは気が強くなって大胆になれたが、二人きりになるのはまだ恥ずかしい。クロと矢島から勇気を貰っていたのは藤井も同じだったようだ。


 そんな様子を見て、今度は翔太の方が笑いを堪えきれなくなった。藤井はちょっとむすっとする。


「何よ」


「別に」


 そんな簡潔な言葉だけを交わし合い、藤井はまた笑顔に戻る。まだ二月だけど、二人の間には一足先に暖かな春が訪れていた。

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