04-猫の山

エイミーの追跡によって先導された"狼狩り"一行がやってきたのは、放蕩胡同から徒歩で1時間もかからない場所、エルシノアの南西部ニュー・オスロにある寂れた街であった。遺伝子操作によって大気汚染の害を受けることがない、化け物じみた大きさの猫たちが我が物顔で闊歩するこの街は、通称"猫の山"と呼ばれる。「ここにいるのか? そのディーラーの女は」足にすり寄ってくる巨大猫の顎を撫でながら、チャンプが問う。「ああ、この辺のはずだ。猫臭くてちょっと自信がないんだけど」言いながらもエイミーは一つのビルの入り口で足を留めた。その建物はかなり荒廃した様子だが、窓からは電気の明かりが漏れている。きっと人がいるはずだ。半地下に至る素っ気ないドアの上に打ち込まれた色褪せた看板には"オールセン・クリニック"の文字がかすかに読み取れた。「念のため、チャンプ、お前が先行しろ」エイミーはチャンプの肩を押して中へ入るのを促す。チャンプがドアを開くと、エタノール消毒液の臭いがほのかに鼻先が掠めた。部屋の奥には可愛らしく腹を膨らませたの中年の男がボロボロのオフィス・チェアにその巨体を据えていた。白衣を着ていることから、彼は医師なのだとチャンプは思った。「お、患者かい? もうベッドがないから入院はできないが、診てやることはできるよ」「ベルテル、久しぶりだな。エイミーだよ」チャンプの背後からエイミーが顔を出すと、ベルテルと呼ばれた男はぱっと表情を明るくする。「エイミー! 元気そうでよかったよ。"アシッズ"を抜けてからどうだい? トリスタンが死んだって聞いたけど」「まあ……、元気だし、なんとかやっていけると思う。新しい相棒もいるしな」少女とこのゴム鞠のように太った男は面識があるようだった。アシッズ――それはこのエルシノアに数多と存在する典型的なギャング組織の一つである。主なシノギ稼業はクラブなどの経営とドラッグの販売。エイミーはトリスタンに誘われ、一時期この組織に属していたが、突然脱退を希望した。彼女の嗅覚に大いに助けられていたアシッズは必死に彼女を留めたが、今後も彼女にしか頼めない仕事はなくならないだろうと予想し、結局ペナルティなしで彼女の脱退を許した。エイミーとしてはアシッズから給料を貰い続けるよりも、個人でスニッファー麻薬探知人として多くの仕事を受けるほうが早く金が貯まるだろうと考えていた。トリスタンはアシッズの一員でありながら、彼女の脱退後もよき相棒として一緒に仕事をしていた。そんな二人に回ってきた大口の依頼が、件の"狼狩り"というわけである。この"オールセン・クリニック"もアシッズの庇護下にあり、ベルテルは悪漢どもにみかじめ料を支払うことでこの街での商売を許されている。ゆえにエイミーとベルテルは古くからの顔見知りであった。「あたしら、リッシュを探してんの。ここにいると思うんだけど」クリニックにまで侵入してきた巨大な猫の顎を撫でながら、エイミーが言う。対してベルテルは、殻を剥いたゆで卵のようにつるりとした顔に険しく皺を刻み、小声で話し出す。「ああ、それなんだが、彼女、客に襲われたとかで大怪我をしていてね。人を怖がっているようなんだ。治療するときも、かなり暴れられたよ」ベルテルは白衣の上から自らの肩を撫でさする。それでテレパシーのリクエストがすべて拒否されていたわけか――エイミーは得心し、同時に、友人の心配をする。人を怖がるようになるほど恐ろしい出来事が、彼女の身に降りかかったのだから。「彼女はどこにいる?」エイミーが毅然と問う。「その廊下の一番手前の部屋だ」ベルテルは鍵の束をエイミーに渡すと、診察室の奥へ伸びる廊下を顎で指し示し、「気をつけてくれよ。君が相手でも、彼女が暴れないとは限らない」「わかった。ありがとう」エイミーの後に続こうとしたチャンプを制し、彼女が言う。「一人で大丈夫だ」「でも、暴れられたら……」食い下がるチャンプの背中を軽く叩き、ジェリコが言う。「わかった。ヤバそうだったら、すぐ呼んでね」その言葉に首肯で応え、エイミーは廊下へ向かう。ひんやりとした空気が彼女の首筋を撫でた。リッシュがいるという部屋の前に立つ。ベルテルから受け取った鍵束の中から一つを選んで鍵を開ける。ゆっくりと中へ入るとそこには、殺風景な室内に、こちらへ背を向けて力なくベッドに横たわる女――リッシュがいた。彼女はドアの軋む音に驚いて振り向くが、相手の顔を確認すると思いのほか柔らかな表情を見せた。「エイミー、来てくれたの?」リッシュはそう言いながら徐に上体を起こし、両脚をベッドのふちから垂らした。その顔はエイミーの記憶の中にある彼女よりも幾分か青ざめていて、落ち窪んだ眼窩の中で琥珀色の瞳が弱々しく光を放っていた。そして何より大きな変化が、左肩から先がなくなっていることだった。ベルテルによって施された適切な処置のおかげかその傷跡はさほど痛々しいものではなかったが、思わずエイミーは言葉を飲み込んでしまった。「リッシュ。客にやられたのって、それ?」エイミーはリッシュの隣に腰を下ろすと、もう存在しない彼女の左腕を見つめながら、おずおずと問いかけた。「そう。初めて会った客だったんだけど、普通に話してるうちにいきなり暴れ出して、私の左腕を……その、食い、ちぎったの」そう語るリッシュから、エイミーは強い恐怖のにおいを嗅いだ。失った左腕の代わりとなる高性能な義肢ならば、このエルシノアでいくらでも手に入るだろう。しかし、生身を失ったときの心的外傷(トラウマ)は一生癒えない。エイミーがしばらくリッシュの右手を握り、リッシュの恐慌がある程度落ち着いた後、再び口を開く。「お前はムーングロウを売ってたのか?」「ああ……、それは例の客にも聞かれた。でも、私はムーングロウなんて売ったことない。そう言ってやったら、客が急に暴れ出したの」エイミーは、リッシュの肩がふるふると小刻みに震えていることに気づく。思わずその身体をすっぽりと腕の中に抱くと、エイミーは子どもをあやすように髪を掻き撫でる。突然の行動に驚いたリッシュは目を丸くしながらも、安心感に全身の筋肉の緊張を緩めた。「少しは落ち着いた?」「うん、ありがと。ちょっとは、ましになった」エイミーはリッシュの頭を抱えたまま、彼女に問う。「なあ、グルマンって男に会ったことはあるのか?」エイミーの腕の中で、リッシュが少し身じろぐ。エイミーは彼女の動揺を言外から察知した。「グルマンを知っているのね。店にももう行ったんでしょ」「ああ、そこからお前のにおいを辿ってここに来た」「はあ、嫌な予感が当たった」リッシュは押し退けるようにエイミーから離れると、深く深く溜息を吐く。「お前は、グルマンとは知り合いなのか?」エイミーは再び尋ねながら、意識を嗅覚に集中させた。人間は嘘を吐いた時、特定の神経伝達物質が分泌される。そのにおいによって、リッシュの返答が信じるに値するものかが決まる。そして、リッシュもエイミーの嗅覚の鋭敏さを知っていた。リッシュは黙り込み、エイミーの尋問を躱す。「あの店が人狼の溜まり場だったって、知らなかったのか?」「知ってた」嘘ではない。「ただ食事のためだけに行っていたのか?」「仕事のためよ」これも嘘ではない。エイミーが続ける。「グルマンはどんなやつだ? アジア系か、アフリカ系か? それとも白人か?」「白人、背が高くて、多分イタリア系」リッシュは諦めたように呟き、ゆっくりと両脚をベッドにのせて横たわると、再び溜息を吐いた。「でも、グルマンを追っているなら絶対に気をつけて。あの男の、護衛に。絶対よ」そう言ったきり、リッシュは身体を壁に向け、毛布に包まると黙ってしまった。その姿はエイミーに、もう出ていけと言っているようだった。「ありがとう。リッシュ、お大事にね」エイミーは立ち上がると、部屋を出た。

 "狼狩り"の三人は、オールセン・クリニックを出てホテル・オフィーリアの57階スイートへ戻った。ジェリコが持つ薄型の端末デバイスを青年と少女が後ろから覗き込んだ。「ぼくはEPPOエルシノア私立警察の監視対象データベースを持っている。イタリア系の男というと……、ざっと2000人はいるね」言いながら、サイボーグ男は強化義手の太い人差し指の先で多くの顔と情報が並ぶ端末の画面をスクロールしていく。「でも、臭いが分からないとエイミーでは追えないんだろ? 2000人を片っ端から捕まえて尋問でもするのか?」怪訝そうにチャンプが洩らす、と同時に彼は気付いた。青年がそれを口走るのを、少女は刺し留めるように告げる。「バカかお前。奴の臭いならさっき嫌というほど嗅いできただろうが」「行けるんだね? エイミー」ジェリコは彼女の嗅覚を誰よりも信頼していた。その信頼に応えるように、エイミーは笑って見せる。間もなく夜更けという時間だったが、"狼狩り"の三人は再びの仕事にかかる。

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