03-猟犬と美食家

 ――少女は川べりに胡坐をかき、水面に浮かぶ廃棄物やらなにやらをぼんやりと見つめていた。伸びっぱなしの薄青色の髪の毛先はむき出しの肩を刺し、ちくちくして不快だった。彼女はエルシノアの中流家庭に生まれ、物心ついてからは母と共に暮らしていた。裕福ではないが当たり前の家族愛で結ばれていた母娘は、エルシノアでも数少ない、普遍的な幸福を享受する人々だった。ある日突然、母は家に帰ってこなくなった。彼女は1か月ほど家で待っていたが、何日経っても母は帰らなかった。荷物をまとめて持って行った形跡はなく、準備をした上での失踪でないことは分かった。2か月後、少女は今まで暮らしていた部屋を追い出された。おそらく家賃の支払いが滞ったのだろう。少女は何も持たず、宛てもなくエルシノアの街を彷徨い歩いた。この街は、彼女にとっては刺激が多すぎる。思わずうっとりするような芳香も、低賃金労働者の垢や汗の臭いも、屋台で供される違法食肉のやたらに濃い味付けの料理の匂いも、母の"におい"を彼女の記憶の中から消し去るには充分だった。やがて少女は歩き疲れ、今いるのがどこかも分からないまま、川べりに座り込んだ。かちかちに悴んだ棒きれのような足をさすってみる。今の季節のデンマークは、日没が近くなると途端に寒くなる。どこか寒さをしのげる場所を探さなくては――そう考えた時、冷たくなった肩に厚い布が被せられた。「よう、おチビさん。寒ィだろ?」きついムスクの香りが鼻を突き、驚いて振り返る。少女の二倍は背丈がありそうな大男が、彼女の顔を覗き込んでいた。汚い歯を見せ、下卑た、しかし人懐っこい笑みを浮かべている。男は少女の背中をぽん、と軽く叩き、「それ、着とけ。おれのだから、ちっと臭ェかもしんねえけどよ」言われて、少女は薄手のキャミソール・ワンピースの上から、彼のものだというモッズ・コートに袖を通す。襟元に鼻を埋め、すん、と臭いを嗅ぐと、強烈なムスクの香りの中に、確かに汗や脂や、嗅いだことのない臭いが混じっているのが分かった。「ありがと」独り言のように少女が呟く。男は笑いながら、少女のぼさぼさの頭を掻き撫でる。「行くとこねェなら、おれらのとこ来るか? メシも食わせてやるぜ」ふと見ると、男は歯をかたかたと鳴らし、震えながら自らの身体を抱いて、両の上腕をさすっている。少女は久しぶりに、少しだけ笑った。「うん。一緒に行く」寒風に強ばった唇で、はっきりと答える。少女とは言え、彼女は何も知らないような年齢ではない。この男がただの善良な人間だとは思えなかったが、彼女はそれでも構わないと判断した。「おれはトリスタン。お前、名前は?」どこぞの王子のような名前のその男は、少女の手を取って歩き出す。彼女にとっては久しぶりの、他人の体温だった。「あたし、エマニュエル・フランソワーズ」自分を超える高貴な名乗りに、トリスタンは思わず笑う。「もしかしてお前、どこかのお嬢さんか?」男は少し考えて、「あー、エマ……、エイミーでいいんじゃないか? 呼びやすいだろ」「うん。エイミーでいいよ」小さな手で、男の大きな手を握り返す。モッズ・コートの襟の中、エイミーは自分の頬が熱を帯びていくのを感じた。

 エルシノアでもっとも安く娼婦、または娼夫を買いたければ、放蕩胡同ファンタン・フートンへ行けばいい。観光客向けには東洋迷宮オリエンタル・メイズとも呼ばれるこの小路は、数多の置屋が折り重なり合って構成されている。様々な"商品"がオランダ式の飾り窓から、あるいは日本式の見世から、そのほか多岐に渡る方法で今夜の客を捕まえるべく、行き交う人々へ秋波を送っていた。しかし、"狼狩り"の実働隊である三人は夜の相手を探しに来たわけではない。彼らの目的はこの猥雑な街に店を構える高級レストラン"フェスタン・ドゥ・ヴィヤンドゥ"にあった。観光客も多く訪れると評判の店で、チャンプは仕事のついでに軽く食事でもできればと考えていた。「この街の臭い、いつ来てもたまんねえな」チームの先頭を歩くエイミーは吐き捨てるようにそう言うと、顔を歪めてコートの襟に鼻を埋める。客を誘引する娼家の人々の匂い、"商品"を品定めする人々の臭い、飲食店から漂う匂い、路上で売買されるセックス・ドラッグの臭い。すべてが彼女の集中を乱すのに充分だった。青いビニール・ブーツの厚底がアスファルトの上を滑り、エイミーが体勢を崩す。あ、とチャンプが口にするより速くジェリコが彼女の腰を支えて起こす。熟練の執事のような仕事ぶりに感嘆しながらも、彼よりエイミーの近くにいた自分が何もできなかったことにチャンプは不甲斐なさを覚えた。ジェリコもエイミーも、何事もなかったのようにただ進む。東洋迷宮の異名に相応しく複雑に入り組んだ小路をしばらく歩いていると、迷いのなかったエイミーの足どりがふと留まる。「ここみたいだな」道行く人々を静かに俯瞰する"フェスタン・ドゥ・ヴィヤンドゥ"の看板を見上げ、チャンプが言った。電力が供給されていないのか、電飾は夕闇の中にひっそりと佇み、それに加え、店自体も長らく開かれていないような雰囲気があった。「チャンプ、先に入れ」エイミーが青年の背中を小突く。少女に命じられるがまま、チャンプは太腿のホルスターに収めた拳銃"モード"に手を掛けながら、おそるおそる扉を開け、店内に踏み入る。関係を始めたばかりのカップルにぴったりな洒落た内装の店内には、客はおろか従業員すらいないようだった。「クソ、やっぱり逃げられたか」後から入ってきたエイミーが苦々しそうに呟く。今日の"狼狩り"の仕事は、この店の主と接触することであった。高級レストラン"フェスタン・ドゥ・ヴィヤンドゥ"のオーナー兼シェフ――"グルマン美食家"と呼ばれる男は、数件の殺人に関与した疑いがかけられており、EPPOエルシノア私立警察の監視対象であった。そして、この店は不気味な噂で知られている。曰く、店主はこの放蕩胡同で手頃な人間を殺害しては、その肉を使った料理を客に振舞っている、と。人肉料理が提供されているのが事実だとしたら、"人狼"もこの店を訪れているのではないかと、オキナは考えていた。そして、少なくともエイミーは、その噂が真実だと確信した。人肉の臭いは特にキッチンのほうから強く漂っているが、幸い"現物"を目にすることはなさそうだった。「どうする? いなくなって結構経ってそうだけど」キッチンを調査していたチャンプは特に何も見つけることなく、エイミーの元へ戻ってくる。「エイミー、グルマンとは会ったことがあるのかい?」考え込んでいた様子のジェリコが問う。「いや、ない。だから、追跡のしようがないな……」決まり悪そうにエイミーが床に視線を落とす。彼女はその視線の先に、ごく少量の青い結晶状の粒が散らばっていることに気づいた。その場にしゃがみ込み、青い粒に顔を近づけてエイミーは呟く。「青砂糖ブルー・シュガーだ」青砂糖はエルシノアでは一般的なドラッグだ。ソフト・ドラッグに分類されるそれは、使用者に穏やかなオーガズムに近い陶酔感を連続的に与える。そして、その見た目の美しさから、特に女性からの人気が高い。アメリカで活躍するエルシノア出身の女優、ラナ・テイラーがこのドラッグの常用を公言してからはさらに人気となったが、それは悪質な模造品コピーの濫造にも繋がった。エイミーは床に散らばった青い粒に指先を押し当てる。わずかな圧力を加えただけでほろほろと崩れる青い粒の中に、同じ大きさ、同じ色の硬い破片が混入していた。「これ、キャンディが混ぜられてる」エイミーは勢いよく立ち上がり、ほとんど叫び声で、「青砂糖をキャンディでかさ増しカットするディーラーはリッシュしかいない」エイミーのスニッファーとしての経験が、彼女に確信を与える。その様子に驚いたチャンプは、困惑しながら語りかける。「そのディーラーとは、知り合いなのか?」「ああ、うん。一応、友達だけど……」青砂糖の中のキャンディに気づいてからエイミーは、何度かリッシュにテレパシー(超常能力の類ではない。多目的マイクロチップの標準モジュールである)による通信をリクエストしているが、すべて拒否されていた。「だめだ。全然繋がらねえ」いらついた様子のエイミーはブーツの爪先で床をこつ、こつ、とリズミカルに叩く。「リッシュはここに来ていたのか?」再び、チャンプが聞く。「そうみたいだ。かなり前らしいが」「じゃあ、彼女のことは追えるんだね」ジェリコのこの強い語勢からは、エイミーへの信頼が窺えた。彼女も首肯で応える。「ああ、やってみるしかないな……」三人はもはやもぬけの殻となった店を後にした。エイミーは目を瞑り、嗅覚を最大限に研ぎ澄ます。暗闇の世界では、より鮮明に人々の行動を追跡トレースできる。

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