02-狼猎户(狼狩り)

 エイミー――人間離れした嗅覚を持つ、スニッファー麻薬探知人の少女に呼び出された場所は、エルシノアの郊外にあるホテル・オフィーリアの28階フューシャ・ラウンジだった。狂気に陥り、色とりどりの花とともに川を流れて死んでいった哀れな乙女の名を持つそのホテルはミドル・クラスの一般観光客向けホテルだが、そのラウンジはエルシノアで地虫の如く生きてきたチャンプにとって、天上の楽園のように思えた。衣類の洗濯は週に何度かしていたものの、久しく身を清めていなかったために染み付いた体臭はエイミーほどの嗅覚の持ち主でなくとも顔を顰めるだろうと、言われた通りに何か月ぶりかのシャワーを浴び、入念に身体を洗った。とは言え、自分の発する臭いには気づきにくいもので、チャンプは落ち着かない様子で、深く柔らかに臀を沈めるビロード張りのソファに体重を預けていた。愛想のいいウェイターが持ってきたソフト・ドリンクを飲みながら、巨大なガラス窓からエルシノアを上空から鳥瞰する。這いずり回って暮らしていた都市まちをこうして眼下に見るのは、彼を非常に不思議な気分にさせる。しばらく寛いでいると、ラウンジの入口にエイミーが現れた。ウェイターに尋ねるまでもなく、迷いのない足どりでチャンプの元へやって来ると、「おい、お前まだちょっと臭うぞ」チャンプの耳元でそう囁いたかと思うと、エイミーはテーブルを挟んで向かいのソファに腰を下ろし、右手を軽く上げてウェイターを呼んだ。「サファイア・デュウをくれ」注文を受けたウェイターは恭しく頭を下げたのちに去るが、すぐに別のウェイターが注文の品を持って現れる。優雅な身のこなしで、深い藍色の液体で満たされたロング・グラスをエイミーの前に置くと、また一礼して立ち去った。チャンプはその背中を見送る。自分の臭いが彼に不快感を与えていないか気になったのだ。「気にすんなよ。普通のやつにはわからんさ」エイミーは笑いながらストローでグラスの中の液体を掻き混ぜる。底に溜まっていた金粉が彼女によって作られた渦に巻き上げられ、藍色の中を踊る。「ほかの"仲間"も来るのか?」チャンプが尋ねる。「いや、今は部屋にいる。これ飲んだら行こう」エイミーは小ぶりな唇でストローを咥えて吸い上げる。星々が天へ昇っていくようなその様子に、チャンプはしばし見惚れた。そして青年は彼女が頼んだ飲み物が酒なのか尋ねようとしたが、やめた。デンマークに飲酒の年齢制限がないとはいえ、それを聞くのは彼女を子ども扱いしていると思われそうな気がしたからだ。それにアンチ・エイジング技術が確立されている現代では、見た目と実際の年齢が釣り合わないことは珍しくない。彼女は少女のように見えるが、実は自分よりずっと年上なのかもしれないのだ。「よし、んじゃ行くか」グラスを一気に干してしまうと、エイミーは立ち上がってラウンジの出口へ歩いていく。チャンプも続く。「1階から直通のエレベーターがなくてな、一旦、28階ここで降りる必要がある」エイミーは言いながら、チャンプが乗ってきたエレベーターの向かいにあるそれの前に立ち、57階のボタンを押す。ここで初めてチャンプは、このホテルが61階まであることを知った。エレベーターの上昇速度は思いのほか速く、28階から57階まで行くのに10分もかからない。

 目的の階に着くと格子状の扉が開き、その奥にさらに鉄製のドアがあった。どうやらこのフロアは一つの部屋となっているらしい。「あー、エイミーだ。新入りを連れてきたから開けてくれ」壁面に埋め込まれたマイクに向かってエイミーが言うと、ドアが独りでに開かれる。部屋の中に入っていく彼女に続いて三歩ほど進んだチャンプは、酷い頭痛、あるいは吐き気、とにかく例えようのない強烈な不快感を覚え、壁にもたれる。「くそ、何だ、これ……」頭を内側から引っ掻き回されるような感覚に呻く。「ごめん、ごめん。この部屋に君の情報を登録するために走査スキャンさせてもらったよ。次からは一人でも入れるようにね」部屋の奥から大柄の男性が現れて、鷹揚にそう言い、「ファームウェアのバージョンがかなり古いみたいだね。ついでに更新アップデートしておくよ」浅黒い肌に大きな目を持つ、端整な容貌の長身の男だが、首から下は衣服の上からでもわかるほど"改造"されていた。大きく開いたシャツの襟から覗く逞しい胸板には、金色に輝く侵襲性人工装具インプラントが埋め込まれている。いわゆる機械化強化人間サイボーグだ。欧州諸国で忌避される過度な身体改造が、エルシノアでは当然のように行われる。サイボーグも珍しい存在ではない。しかし、これほどあからさまに"改造"された肉体を、チャンプは今日、初めて見たのだった。やがて情報の登録とやらとファームウェアの更新が終わったらしく、不快感が収まったチャンプは、よろよろとサイボーグ男に近づくと、右手を差し出す。「よろしく。チャンプって呼んでくれ」その手を分厚い両の手のひら(どちらも冷たい人工皮膚で覆われている)で包み込むように握ると、男は白い歯を見せ、朗らかに笑って言う。「ぼくはジェリコ。君みたいな男前なら大歓迎だよ」体温のない手のひらに反して、その視線は明らかに熱を含んでいた。同性からこのような反応を受け取ることは初めてだったので、チャンプは少し困惑した。そしてジェリコは思い出したかのようにエイミーを一瞥し、気まずそうに表情を強張らせ、「トリスタンには悪いけどね」「なんであたしを見るんだよ」特に不機嫌そうにするでもなく、ぶっきらぼうに少女が返す。このやりとりにチャンプは思わず頬が緩んだ。どうやらこの少女とサイボーグの大男との関係は気安いもののようだった。「ジェリコはフローター何でも屋。戦闘のプロ、ついでに優秀な生体エンジニアでハッカーでもある。この"チーム"の要だな」エイミーが言う隣で、サイボーグ男は柔和な笑みを浮かべる。「そういえば、まだ仕事の内容を聞いてなかったな。メンバーはこれで全員なのか?」「それについてはまとめて説明する。オキナ」少女は誰に向けるわけでもなく、誰かの名前を呼ぶ。すると、部屋の奥の壁に埋め込まれた巨大なモニターが点灯した。画面には夜の砂漠の映像が浮かび上がるのみで、人の姿が現れたりはしない。「エイミー。彼がトリスタンの代わりか?」姿のないオキナの声が、部屋のどこかにあると思われるスピーカーから聴こえる。その声からチャンプが想像する姿は、狡猾そうな小柄の老人だった。それにオキナという名も、どこかの言葉で老人を意味していたはずだ。「そう、こいつがトリスタンを殺したやつ。しかもフォークでな」冗談めかして少女が答える。「そうは見えんが」おそらくどこかにあるカメラからこの部屋の様子を見ているであろうオキナが言った。「おれはチャンプだ。よろしく、オキナ」「よろしく頼む。ああ、仕事の内容について説明しなければ」「チャンプ、麻薬ドラッグに興味がある?」デスクの上に胡坐をかいたエイミーが問う。「いや、よく見るけど詳しくはない。興味もない」「珍しいやつだな」手元の端末デバイスでモニターを操作しながら、少女が続ける。「じゃあ、こいつは知ってる? "ムーングロウ"――最近エルシノアで流行ってるハード・ドラッグ。コカインの100倍とも言われる強烈な快楽をもたらす、悪魔のドラッグさ」モニターには件のドラッグのものと思しき情報が表示されるが、チャンプにはほとんど理解できなかった。「こいつがヤバいのは、使用すると文字通り人間を食う"人狼"になってしまうってこと。もちろん依存性もクソほど高い、あたしの知る限りじゃ最悪のドラッグだぜ」少女はわざとらしく身震いをしてみせる。続いてオキナが言う。「しかし、君たちがするべきことはとても単純だ。ムーングロウを回収すること、その使用者を始末すること。このチームはさしずめ、"狼狩り"と言ったところだ」人間を狼に変えるドラッグとは質の悪い魔法のような話だが、その仕事内容はオキナの言う通りこの上なくシンプルで現実的だった。無法地帯にも思えるこの都市においてもそれなりの秩序が機能している理由の一つとして、ギャングなどの犯罪組織によってドラッグの供給が制御されていることが挙げられる。時に組織へのロイヤリティーみかじめ料抜きでドラッグを売ろうとする者、または買おうとする者が現れる。その場合はどんな手段を使ってでも彼らを探し出し、徹底的に"制裁"を行う。そのためにエイミーのようなスニッファー麻薬探知人は存在する。「なるほど、確かにチンピラに相応しい仕事だな。でも、そんな仕事を寄越してくる企業ってのは一体」「"アル製薬"。ビックリだろ?」エイミーが口を挟んだ。阿露医薬集団公司――通称"アル製薬"は中国で創業された、世界で一二を争う医薬品メーカーだ。2030年代に欧州でアジア系企業の排除が行われたため、現在では欧州における拠点はエルシノアにしかない。しかし欧州以外では依然、医療業界の一番手である。物知らずのチャンプですら、その社名は幼いころから親しみのある存在だ。「確かにビックリだな。そのムーングロウとかいうドラッグは、アル製薬から流出したものなのか?」「いや、ムーングロウにわが社は関係していないと、アル製薬側は主張しているが……、だから極秘の依頼なのだろうな」オキナが言い終わってしばらく後、エイミーが口を開く。「お前、ニュースとか見ないの? アル製薬は、この件はぜんぶ欧州連盟の自作自演だって言い切ってんだよ。アジア企業を徹底的にヨーロッパから叩き出すためのな」確かにチャンプはニュースや新聞など見る余裕もない生活を送っていた。そもそも彼は、文字の読み書きすらまともにできないのだ。ジェリコはともかく、いかにもストリート育ちらしいエイミーも同じものだと思っていたチャンプは、なんだか急に文盲であることが恥ずかしく思えてきたが、隠していたのが後になってバレるほうがダメージが大きいと考え、さっさと白状しておくことにした。「あー……、あの、今さらなんだけど、おれ読み書きができなくて。もしかしたら役に立たない、かも」青年は視線を中空に泳がせながら、言葉を接ぐ。ジェリコとエイミーが顔を見合わせる。一瞬の、ほんの一瞬の静寂のあとにエイミーが、呵々と喉を鳴らして笑い出す。「心配すんなって! お前は戦闘員、もしくはあたしの護衛だ。頭使うのはジェリコに任せときゃいいんだよ」「あ、ああ、そうなのか。よかった」とは言いながらも、戦闘に関してもまったくの素人であるチャンプにまだ安堵できない。「君が荒事に慣れていないのはエイミーから聞いてる。大丈夫、ぼくが訓練に付き合うよ。もしよければ読み書きの促成学習ソフトも組んでおこう」青年の肩に触れながら、サイボーグの大男が優しげに言う。申し出はありがたく、彼が善良な人物なのもわかるが、この男の距離の近さが少し苦手だとチャンプは思った。「ありがとう、ジェリコ」彼からの熱気を帯びた視線には気づかない振りをして、素直に礼を述べる。「そうだ。じゃあ、これお前にやるよ。骨董品だけど、十分使えるはずだぜ」少女は手に取った拳銃をチャンプに渡した。彼は受け取ったものの重さを確かめながら、その細部ディテールに目を配る。エルシノアでは頻繁にお目にかかるような一般的なモデルだが、その銃身には"Maud"の刻印があった。それが以前の持ち主の名前なのか、この銃の名前なのかはわからない。「ありがとう。でも、エイミーは銃を使わないのか?」「あたしは硝煙臭いのは苦手だ。電撃銃テーザー・ガンならいいんだけどな」言いながら壁に掛けられたそれ"電撃銃"を手に取り、少女は構えて見せる。一朝一夕では身に付かないであろう、洗練された動作だった。「でも、あたしにこれを撃たせないのがお前の仕事だぜ」銃口をチャンプに向け、照準器サイト越しにエイミーが笑った。

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