不夜城に獣
崩山
01-歡迎來到埃爾西諾(エルシノアへようこそ)
2032年に欧州諸国連盟が掲げたスローガン『
ネオンの明かりがぎらぎらと絶えず街中を照らすエルシノアの夜にも、暗く静かな場所は存在した。チャンプ――親から与えられた名前は覚えていない、生粋のストリート・キッドである青年は、何を包んでいたかもわからない油臭くけば立った毛布に顔を埋め、死体のように眠り込んでいた。大通りから遠く外れた場所にある使われていない倉庫は、彼のような路上生活者にとって風雨を凌ぎ、睡眠をとれる安息の地だ。そのチャンプに、一人の少女が近づいていく。華奢な身体に薄い生地の黒いキャミソール・ドレスを纏い、軍からの放出品らしきモッズ・コートを羽織った姿は、かつての欧州に無数に存在した安い娼婦の姿に似ていた。青色のビニール製のブーツの分厚いヒールで、進路を阻むガラクタを蹴散らしつつ。「見つけた、こいつ……」毛布に包まれた青年の寝顔を覗き込み、彼女は小声で独り言ちながら、肩に担いでいた金属バットをぎゅっと握り締める。「起きろカス野郎!」倉庫内に響き渡る怒声を伴って、金属バットが青年の頭の横に振り下ろされた。強烈な眠気覚ましを食らったチャンプは飛び跳ねるように立ち上がる。すると今度はその肩に、ゆっくりと金属バットが載せられた。冷たい鋼鉄が首筋に触れ、チャンプは恐怖と驚きで全身を強張らせる。「お前だろ。昨日、ノモス通りで男を殺したのは」少女は冷ややかに、感情の乗っていない言葉で弾劾を始める。下手に口を開けばすぐにその金属バットで頭を叩き潰されるだろうとチャンプは考えた。相手は何らかの証拠を以っておれを犯人と断じているはずだ。むやみに嘘を吐くのは得策ではない。「……はい、おれがやりました」彼なりに冷静な判断を行った結果だった。絞り出すようなその言葉を受けても、変わらず少女に表情はないが、代わりに苛立ったようにブーツの爪先で床面をこつ、こつと規則的に叩く。「まあ、あいつはいつ死んでもいいようなクズ野郎だったけどさ」小気味のよい音が響いて、少女が言葉を繋ぐ。「あいつ――トリスタンはあたしの相棒だったんだぜ」敵討ちなどという美徳がおよそ似つかわしくないこの不義理と不道徳の蔓延る
――ノモス通りには飲食店が多い。昨夜、チャンプは路上生活の先輩であり友人でもある老人と一緒になって、飲食店の店員から店の余りものを貰いに回っていた。そこにあの大男――かなり酔っ払っていたらしいトリスタンが現れ、チャンプの隣を歩く老人を邪魔だと言って蹴り倒した。老人は貰ったばかりの飯を地面にぶち撒け、それを見た男はさらに激昂し、倒れ込んだ老体に馬乗りになって何度も殴りつける。チャンプもかつては不良少年だった。しかし、徹底して喧嘩などの荒事を避けることから、仲間からも"ハイエナ"とあだ名されて、本人もそれを気に入り、左上腕にその狡猾な獣のタトゥーを刻んだ。力なき者にとっては明日すら確かでないこのエルシノアにおいて、暴力に頼らない生き方こそ高潔なものと、チャンプは信じていた。しかし、目の前で行われる一方的な暴虐を看過できるほどの傍観主義者に、彼はなりきれていないのであった。チャンプは今日初めて、恐怖を凌駕した怒りが己の身体を突き動かすことを知った。やめろ――そう叫ぶ前にチャンプは、いつから持っていたかもわからない鉄製のフォークをトリスタンの首筋に突き立てた。思ったより深々と刺さったそれを引き抜くと、勢いよく血が噴き出した。トリスタンは老人を甚振るのをやめ、なんとかして出血を止めようとしてもがいた。チャンプはフォークによる一撃を、今度は無防備な脇腹に食らわせた。何度か突き刺すと、血に塗れたトリスタンは立つことすらできずその場に頽れた。アルコールを多量に含んだ吐息は徐々に弱くなり、代わりに大量の血を吐き出したのち、男は動かなくなった。「爺さん、逃げてくれ。死体はおれが隠すから」初めての殺人、初めての義憤による暴力の行使に、チャンプは訳も分からず興奮していた。ただ全身が汗ばんで妙に冷たい。老人は血を吐きながらも何度も感謝の言葉を述べて、ふらふらと立ち去った。いかに理由なき暴力が横行するこの都市"エルシノア"においても、誰もが殺人を許されるわけではない。警察――すなわちエルシノア私立警察、通称"EPPO"は殺人事件として捜査を行うだろうし、それにこの男(どうやらギャングのメンバーらしいことが、首筋に刻まれたタトゥーからわかった)が道端で犬死したと知ったら、ギャングの仲間はすぐに犯人を捕え、チャンプには理解できないメンツの回復とやらのために己が身が残酷な私刑に晒されることは想像に難くない。チャンプは意を決して、死体を担ぐ。幸い、目撃者はいない。夜のうちに"これ"をどうにか処理して、残骸は川にでも流せばいい。警察もこの都市で失踪者の、ましてやギャングの一員の捜索などしないだろう。こうして今までこれまでの人生の中で最も憂鬱な仕事を終えたチャンプは、暴漢の血に濡れた自らの衣服をすべてランドリーで洗い終えると、彼は定宿である空き倉庫の中で毛布に包まり、震える身体を泥濘のような眠りに預けていった。
「なるほど。あのクズ野郎らしい最期だな」チャンプの話を聞き終えた少女は怒るでも呆れるでもなく、不思議と柔らかな微笑みを浮かべるが、それが何の感情に由来するものか、チャンプには理解できなかった。「お前の正義感は称賛に値するぜ。だけどな、こっちは一人減ったら一人増やさなきゃいけないんだよ」「何の話だ?」少女はチャンプの肩に載せていた金属バットをゆっくりと下ろし、その先端で倉庫の床に文字を書くように、ざりざりと擦り付ける。「あたしらは、とある大企業から大事な仕事をもらっててな、秘密のお仕事さ。トリスタンも一緒にその仕事をする予定だったんだぜ」「大企業が、あんたらみたいなチンピラに仕事を任せるのか?」チャンプは訝しげに少女を見上げると、少女は笑いながら答える。「チンピラだからいいのさ。いくらでも替えが効くし、金さえ手に入れば下手に詮索したりしないからな」徐に金属バットの先をチャンプの額に向け、少女が笑う。今度は年相応の、無邪気な笑みだった。「つまり、お前がトリスタンの代わりにあたしらの仲間になれってことさ! そしたらお前も、
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます