不夜城に獣

崩山

01-歡迎來到埃爾西諾(エルシノアへようこそ)

 2032年に欧州諸国連盟が掲げたスローガン『Vers la belle Europe美しきヨーロッパへ』は、その耳触りのよさに反して、多くの人間の、強烈な特定人種への憎悪感情を喚起した。特にアジア系移民の住居、もしくは店舗は連日嫌がらせを受け、一部の地域では彼らへの直接的な破壊行為を行う者も存在した。翌年には、欧州主要都市から87%の移民が消えた。アジア系企業もまた、多くが欧州からの撤退を余儀なくされた。詰まるところ、欧州諸国連盟が取り戻さんとする美しいヨーロッパとは、ヨーロッパ人だけが生活する風景のことであった。移民の排除が終わると、連盟の次の目標は『悪しき文化』の放逐となった。それらはすなわち、暴力、麻薬、性産業、違法な身体改造などを意味する。連盟は加盟国国民に対し、前述の『悪しき文化』を完全に排除した、自然で健康的かつ清廉な暮らしを強いた。2050年代に入り、連盟の説く理想的なヨーロッパは現実のものになりつつある。そして、この理想郷を捨てた、あるいは追放された者たちが大抵流れ着くのは、デンマーク王国を構成する島嶼のうちの一つ、シェラン島の東端ヘルシンゲル――通称、"エルシノア"であった。狂気を装い、亡き父王の仇である叔父を討った王子の物語で知られるクロンボー城は、流入した大量の移民たちを住まわせるための巨大城砦に改造された。優美なルネサンス様式の面影もなく、違法建築が積み重なったその異容は、かつて香港に存在したという九龍城砦を思わせた。その周縁にあるエルシノアの街もまた、肥大化したクロンボー城に飲み込まれ、世界にも類を見ない巨大電脳都市となった。欧州メガロポリスの最果て、もしくは掃き溜めとも称されるこの都市まちには、移民、暴力、麻薬、性産業、違法な身体改造など、欧州諸国から忌避された凡そすべてのものが当たり前に存在する。

 ネオンの明かりがぎらぎらと絶えず街中を照らすエルシノアの夜にも、暗く静かな場所は存在した。チャンプ――親から与えられた名前は覚えていない、生粋のストリート・キッドである青年は、何を包んでいたかもわからない油臭くけば立った毛布に顔を埋め、死体のように眠り込んでいた。大通りから遠く外れた場所にある使われていない倉庫は、彼のような路上生活者にとって風雨を凌ぎ、睡眠をとれる安息の地だ。そのチャンプに、一人の少女が近づいていく。華奢な身体に薄い生地の黒いキャミソール・ドレスを纏い、軍からの放出品らしきモッズ・コートを羽織った姿は、かつての欧州に無数に存在した安い娼婦の姿に似ていた。青色のビニール製のブーツの分厚いヒールで、進路を阻むガラクタを蹴散らしつつ。「見つけた、こいつ……」毛布に包まれた青年の寝顔を覗き込み、彼女は小声で独り言ちながら、肩に担いでいた金属バットをぎゅっと握り締める。「起きろカス野郎!」倉庫内に響き渡る怒声を伴って、金属バットが青年の頭の横に振り下ろされた。強烈な眠気覚ましを食らったチャンプは飛び跳ねるように立ち上がる。すると今度はその肩に、ゆっくりと金属バットが載せられた。冷たい鋼鉄が首筋に触れ、チャンプは恐怖と驚きで全身を強張らせる。「お前だろ。昨日、ノモス通りで男を殺したのは」少女は冷ややかに、感情の乗っていない言葉で弾劾を始める。下手に口を開けばすぐにその金属バットで頭を叩き潰されるだろうとチャンプは考えた。相手は何らかの証拠を以っておれを犯人と断じているはずだ。むやみに嘘を吐くのは得策ではない。「……はい、おれがやりました」彼なりに冷静な判断を行った結果だった。絞り出すようなその言葉を受けても、変わらず少女に表情はないが、代わりに苛立ったようにブーツの爪先で床面をこつ、こつと規則的に叩く。「まあ、あいつはいつ死んでもいいようなクズ野郎だったけどさ」小気味のよい音が響いて、少女が言葉を繋ぐ。「あいつ――トリスタンはあたしの相棒だったんだぜ」敵討ちなどという美徳がおよそ似つかわしくないこの不義理と不道徳の蔓延る都市まちで、少女は殺された相棒の無念を晴らそうとでもいうのか。猟犬のごとき鋭い視線がチャンプを射抜く。しかし、チャンプだって理由もなく殺人を犯したわけではない。「あ、あの男は、おれの友人――71歳の爺さんを蹴り飛ばしやがったんだぞ、何度も何度も。そんなの、見て見ぬ振りができるわけがない……」チャンプは震える唇で、その夜のことを語り始めた。時として舌を縺れさせながらも、一息に捲し立てる。

 ――ノモス通りには飲食店が多い。昨夜、チャンプは路上生活の先輩であり友人でもある老人と一緒になって、飲食店の店員から店の余りものを貰いに回っていた。そこにあの大男――かなり酔っ払っていたらしいトリスタンが現れ、チャンプの隣を歩く老人を邪魔だと言って蹴り倒した。老人は貰ったばかりの飯を地面にぶち撒け、それを見た男はさらに激昂し、倒れ込んだ老体に馬乗りになって何度も殴りつける。チャンプもかつては不良少年だった。しかし、徹底して喧嘩などの荒事を避けることから、仲間からも"ハイエナ"とあだ名されて、本人もそれを気に入り、左上腕にその狡猾な獣のタトゥーを刻んだ。力なき者にとっては明日すら確かでないこのエルシノアにおいて、暴力に頼らない生き方こそ高潔なものと、チャンプは信じていた。しかし、目の前で行われる一方的な暴虐を看過できるほどの傍観主義者に、彼はなりきれていないのであった。チャンプは今日初めて、恐怖を凌駕した怒りが己の身体を突き動かすことを知った。やめろ――そう叫ぶ前にチャンプは、いつから持っていたかもわからない鉄製のフォークをトリスタンの首筋に突き立てた。思ったより深々と刺さったそれを引き抜くと、勢いよく血が噴き出した。トリスタンは老人を甚振るのをやめ、なんとかして出血を止めようとしてもがいた。チャンプはフォークによる一撃を、今度は無防備な脇腹に食らわせた。何度か突き刺すと、血に塗れたトリスタンは立つことすらできずその場に頽れた。アルコールを多量に含んだ吐息は徐々に弱くなり、代わりに大量の血を吐き出したのち、男は動かなくなった。「爺さん、逃げてくれ。死体はおれが隠すから」初めての殺人、初めての義憤による暴力の行使に、チャンプは訳も分からず興奮していた。ただ全身が汗ばんで妙に冷たい。老人は血を吐きながらも何度も感謝の言葉を述べて、ふらふらと立ち去った。いかに理由なき暴力が横行するこの都市"エルシノア"においても、誰もが殺人を許されるわけではない。警察――すなわちエルシノア私立警察、通称"EPPO"は殺人事件として捜査を行うだろうし、それにこの男(どうやらギャングのメンバーらしいことが、首筋に刻まれたタトゥーからわかった)が道端で犬死したと知ったら、ギャングの仲間はすぐに犯人を捕え、チャンプには理解できないメンツの回復とやらのために己が身が残酷な私刑に晒されることは想像に難くない。チャンプは意を決して、死体を担ぐ。幸い、目撃者はいない。夜のうちに"これ"をどうにか処理して、残骸は川にでも流せばいい。警察もこの都市で失踪者の、ましてやギャングの一員の捜索などしないだろう。こうして今までこれまでの人生の中で最も憂鬱な仕事を終えたチャンプは、暴漢の血に濡れた自らの衣服をすべてランドリーで洗い終えると、彼は定宿である空き倉庫の中で毛布に包まり、震える身体を泥濘のような眠りに預けていった。

 「なるほど。あのクズ野郎らしい最期だな」チャンプの話を聞き終えた少女は怒るでも呆れるでもなく、不思議と柔らかな微笑みを浮かべるが、それが何の感情に由来するものか、チャンプには理解できなかった。「お前の正義感は称賛に値するぜ。だけどな、こっちは一人減ったら一人増やさなきゃいけないんだよ」「何の話だ?」少女はチャンプの肩に載せていた金属バットをゆっくりと下ろし、その先端で倉庫の床に文字を書くように、ざりざりと擦り付ける。「あたしらは、とある大企業から大事な仕事をもらっててな、秘密のお仕事さ。トリスタンも一緒にその仕事をする予定だったんだぜ」「大企業が、あんたらみたいなチンピラに仕事を任せるのか?」チャンプは訝しげに少女を見上げると、少女は笑いながら答える。「チンピラだからいいのさ。いくらでも替えが効くし、金さえ手に入れば下手に詮索したりしないからな」徐に金属バットの先をチャンプの額に向け、少女が笑う。今度は年相応の、無邪気な笑みだった。「つまり、お前がトリスタンの代わりにあたしらの仲間になれってことさ! そしたらお前も、韓国人街コリアン・タウンに部屋くらい借りられるぜ」少女はさも名案を披露するかのように晴れ晴れとした面持ちで言い切る。「いくらでも替えがいるような仕事に、わざわざおれが加わる必要があるのか?」チャンプは独り言のように問う。先に述べた通り、彼は暴力に慣れていない。「でも、お前はあのトリスタンを一人で仕留めた」少女はどこか他人事のように呟く。彼女の言うところの、企業から秘密裏に請け負った、大金が手に入る仕事――可能な限り荒事を避けて生きていたチャンプにも、否、荒事を避けてきたからこそ、それが危険な仕事であることが容易に予想できた。しかし、この状況で彼女の申し出を断ることなど可能だろうか? チャンプは考える。少なくとも目の前の少女は、相棒を殺したおれを多少なりと怨んでいるだろうし、ここで今すぐおれの頭をかち割る動機は大いにある。それに、すでに残骸すら残っていない、あのギャングの男を殺したことが、どうしたわけかこの少女には知られている、その理由……。「不思議か? どうしてあたしがトリスタンを殺った犯人を追い詰めることができたのか」にやにやと得意げな表情を浮かべると、少女はその場で胡坐をかき、低い位置からチャンプの顔を覗き込む。「"におい"だよ。あたしの嗅覚は猟犬のおよそ1万倍、って言われてる。これを使って、スニッファー麻薬探知人をやってんのさ」少女はわざとらしく鼻を鳴らして見せ、「だから、どれだけうまく証拠隠滅がされてたって、その場で何が起きたか、誰がやったのかわかってしまうってわけ」そばかすの残る、子犬のように幼げな彼女の顔を前にしながら、チャンプはあたかも獰猛な獣に牙を剥かれたかのように身震いをした。「心配すんな、あたし以外は犯人がお前だと知らない。お前があたしたちに協力してくれる限りは」「する。協力する」少女が話し終えるのを待たず、チャンプは何度も頷いて承諾する。彼女が言う"仕事"がどれだけ危険だろうと、ピラニアのようなギャングどもに食い散らされるだけの結末は御免だった。満足そうに笑い、少女は徐に立ち上がる。チャンプも続く。「話がわかるやつでよかったぜ。あたしはエイミー。お前は?」エイミーは右手を差し出す。青年はそれをしっかりと握り返し、「チャンプって呼んでくれ」「チャンプ。お前たぶん、良いやつだろ?」握った手を放さずに、少女はチャンプの瞳を覗き込んでくる。「これは嗅覚じゃなくて、ただの勘だけどな」エイミーの手首の薄い皮膚が、青色の仄かな光を透かした。その光は緩やかに流れて、握った手を通じてチャンプの中へ入ってくる。彼は自身の神経ポートを一時開放し、彼女からの信号を受信する。「近いうちに情報を送る。いいか、シャワーは浴びてこいよ」それだけ言うと、エイミーは踵を返し、振り返ることもなく倉庫を出ていった。足音が遠ざかるにつれ、緊張が解け、忘れかけていた眠気がチャンプの意識を濁らせる。喋りすぎたためかやたらと喉が渇くが、今はとりあえず眠りたかった。そしてチャンプは再び、汚れた毛布に顔を埋めるのだった。

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