第31話 したたかな裏切者(9)

 翌日、大川と凛子が事務所に来て、話し合いをする日になった。

 午後五時前になり、凛子が事務所にやって来た。大人の雰囲気が漂う落ち着いた服装で、リラックスした表情をしている。

「今日の話し合いを録音してくれる?」

 軽く挨拶した後、凛子は俺にそう頼んできた。

「ああ、良いよ。元からそのつもりだったから」

「ありがとう。今日は楽しみね」

 大川とヨリを戻したいと考えているなら、もう少し緊張感があって良いと思うのだが、凛子は待ち遠しいような、どこか浮かれた感じがある。

「コーヒーを淹れるから、座って待ってろよ」

 俺は凛子をソファに座らせ、コーヒーを二人分淹れた。

「もう何年になるのかな? あれからずっと頑張っているのね」

 少し前にも来たのに、凛子は久しぶりに来たように、事務所の中を見回して言う。

「別に頑張ってる訳じゃないさ。惰性だよ。独り身で気楽だから続けてるだけさ」

「紗耶香さんとは結婚しないの?」

「紗耶香は家族みたいなもんだよ」

「ふーん、そうなんだ。私とヨリを戻すのを断ったから、紗耶香さんと付き合っているのかと思ってた」

 なぜ凛子が紗耶香のことを持ち出してくるのか、意味が分からなかった。

「そう言えば、俺がなんでも屋を続けている理由が意地だけじゃないって言ってたの。あれはどういう意味なんだ?」

「自分のことなのに分からないの? 素直になって考えれば分かると思うけど」

 もったいぶった返事をされて、俺はイラっとした。追及するのも癪に触るので、それ以上は聞かない。

「今日はどうするつもりなんだ? 大川に戻って欲しいのか?」

 俺がそう聞くと、凛子は思わせぶりに笑顔を浮かべる。

「それは隆一君が来てからのお楽しみよ。今日はキッチリ決着をつけるから」

 最初に助けを求めてきた時とは別人のように落ち着いている。あれから凛子にどんな変化があったんだろうか?

「勝手にしろよ。俺はお前らの話を聞くだけで、一切関わらないからな」

 俺はソファの背もたれに体を預けて、コーヒーを一口飲んだ。

 その後はろくな会話も無く、時間が過ぎていく。もう五時二十分となった。

「遅いなあの野郎」

「まあ、予想はしてたけどね」

 大川に催促の電話やラインを送ったが無視されている。

「悪い、待たせたな!」

 突然事務所のドアが開き、大川が入って来た。謝りながら入って来るだけマシな方だが、表情を見れば全然悪いことをしたとは思って無さそうだ。

「俺はこの後用事が出来たから、チャッチャと話を終わらせよう」

 これから夫婦の大切な話し合いが始まると言ううのに、大川はまるで簡単な仕事の打ち合わせのような調子で俺の横に座った。

「まず、この話し合いは録音させて貰うから」

 俺は大川の軽いノリは無視して、話し合いの段取りを進める。手持ちのICレコーダーのスイッチを入れて録音を開始した。

「そんな堅苦しいことしなくても、話したことは守るよ」

「どうだかね。あなたは証拠が無いととぼけるに決まってるわ」

 凛子は軽蔑した眼差しを、大川に送る。

「久しぶりだな凛子。今日はずいぶん色っぽいな。文也とヨリを戻すのか?」

「馬鹿なこと言うなよ。話を始めるぞ」

 いい加減腹が立ったが、感情的になると大川のペースに巻き込まれるので、俺は話を進めた。

「まず、二人は今後どうしたいんだ? ヨリを戻すのか? 離婚協議を進めるのか?」

「それに関しては離婚しか無いだろ。もう別居して何か月か経っているし、婚姻関係は破綻しているだろ。後は離婚条件だけの問題だ」

 凛子の意思も確認せず、大川は手持ちの鞄から通帳を一冊取り出し、テーブルの上に置く。

「この通帳に二百万入っている。それと今住んでいるマンションの名義をお前の名前に変更するよ。結構頭金入れたので、すぐに売ったら残りのローンを返してもいくらか金は返ってくるだろう。もちろんローンを払う気ならそのまま住めば良い。

 離婚するのは俺が悪いと思っている。これで誠意は見せたつもりだ」

 大川は凛子の表情を窺う。凛子は薄笑いを浮かべて、大川の置いた通帳を見ている。だが、一向に手を出そうとはしない。

「どうだ? 十分満足してもらえる金額だと思うが」

 態度を示さない凛子に、大川が気持ちを確認する。

「慰謝料としては少ないわね」

 凛子は顔色を変えずに呟く。

「少ないだと? 婚姻期間はたったの一年半だ。これでも多いぐらいだろ」

「不倫の慰謝料としては少ないってことよ。それとも、相手の女から直接取れば良いのかしら?」

 凛子は持って来た鞄からA4の封筒を取り出し、大川が置いた通帳の上に投げ出した。

 大川は焦った表情で封筒を手に取る。中から数枚の写真と、その報告書が出てきた。写真には、大川が会社の受付嬢と二人でホテルに入るところが写っている。

 どういうことだ? 凛子は大川が不倫しているか分からない、興信所に頼むお金も無いって言っていたのに。

「いつの間に……」

「あとプラス三百万。不倫の慰謝料として追加してくれる?」

 凛子は平然と言い放つ。

「ちょっと待ってくれ。いくらなんでも、後三百万円はすぐに用意は出来ないよ」

 珍しく大川が弱気な表情を見せる。

「私は裁判しても構わないのよ」

「分かった。後二百万でどうだ? 二百万ならすぐに払うから」

 大川は凛子の目の前で、指でVのサインを作り説得する。

「そうね……」

 凛子は大して興味も無さそうな顔で大川の顔を見る。

「それでスッキリと縁が切れるならそれで良いかもね。文也君悪いけど、今の話し合いの条件を、すぐ書類にまとめてくれる?」

「ああ、分かった……」

 俺は了解して、席を立ち、机のパソコンで書類を作成する。

 凛子が不倫の証拠を握っていたのには驚いた。最初から大川とはヨリを戻す気が無かったんだろう。最初に弱り切った様子で事務所に助けを求めてきたのは何だったんだ。

 書類の作成が終わり、当事者の二人と立会人の俺がサインする。

「全く酷い女だな。お金目当てに結婚をせがんだんだろ」

「隆一君が他に目移りしなければ、こんなことをする必要は無かったわ。自業自得ね」

 大川は悔し気にチッと舌打ちした後、俺を見る。

「まあ、お金はまた稼げば良いさ。これでスッキリ出来るなら安いもんだ」

 大川らしいポジティブな考え方だ。

「それより俺の会社に来てくれる件。考えてくれたか? なんでも屋を続けるより絶対に後悔はさせないぞ」

 大川はまだ俺を会社に誘い込むことを諦めて無かったのか。

「そのことより、まず二人のうちどちらが嘘を吐いていたかハッキリさせようぜ。俺が凛子を振ったって、本当に聞いたのか?」

 俺がそう追及すると、大川はばつが悪そうに頭を掻く。

「聞いたか聞いて無いかと聞かれると、聞いて無いな」

「お前嘘を吐いたのか?」

 シレッと嘘だったと白状する大川に、俺は怒りを覚えた。

「聞いては無いが、嘘は言ってないぞ。お前は凛子を振っただろ」

「何を言ってるんだ。振られたのは俺の方だよ」

「その件に関しては隆一君の言葉が正しいわ。振られたのは私の方よ」

「なんだって……」

 凛子が意外なことに、大川の言葉を肯定しだした。

「お前なあ、彼氏が他の女に掛かりっ切りで何か月もろくに会おうとしないなんて、もう好きじゃ無くなったと判断されても仕方ないだろ。俺は凛子が失恋して寂しそうだったから口説いたんだ。悪いのは俺と凛子か?」

 俺が紗耶香を助けることに集中して、凛子をおざなりにしていたことが別れの原因だったのか。

「そうだったのか……ごめん、悪かったよ」

「そうやって素直に謝るのが文也君の良いところよね。誰かと違って」

「誰かって……あっ」

 何か連絡が入ったのか、大川は慌ててスマホを取り出す。

「すまん、すぐに戻らないと。文也、また連絡するから会社のことは考えておいてくれよ」

 大川はスマホを見て、慌てて立ち上がる。

「凛子、こんなことになって悪かったよ。俺は結婚に向かない人間だと思い知った。もう二度と結婚はしないから、許してくれ」

 大川は珍しいことに、凛子に向かって頭を下げた。

「そうね……あなたのことを嫌いになった訳じゃないわ。仕方なかったのよ。後は残った手続きだけ済ませて綺麗に別れましょう」

「ああ、そうだな」

 涙も怒りも無く、一組の夫婦が別れた。淡白なように見えるが、この二人なりに想いはあるのだろう。

 大川は挨拶を済ませると、慌てて出て行った。

 俺は話し合いが終わったことで気が抜け、倒れ込むようにソファに座った。

「大川が不倫していたことを知ってたんだな。あれだけ証拠があれば、俺が仲介する必要なかっただろ」

 凛子は返事もせず、俺の前に座る。

「私や隆一君はズルい人間なの。すぐ自分にメリットが有るか無いかで物事を判断してしまう。だからあなたみたいな損得考えず、他人の為に動ける人間のことが気に入らないのよ。偽善者だと否定したくなるの。

 でもね、やっぱり羨ましいんだな……。だって、あなたの周りには人が集まって来るじゃない。

 そんなあなただから、離れてもまた会いたくなる。一緒に居たくなるのよ」

 凛子と大川は似たもの同士で惹かれ合い、逆に反発し合ったんだな。二人とも根っからの悪人じゃ無いと思うのはお人好しか。

「まさか本気で俺とヨリを戻したかったのか?」

「そうね……。半々ぐらいだったかな。でも隆一君が駄目ならまたあなたって、虫が良すぎるよね。この前食事をした時に無理だって分かったわ」

 凛子は落胆した様子もなく、淡々と話す。

 と、その時、事務所のドアが、ドンと乱暴に開く。

「文也君!」

 入って来たのは拓斗だった。

「拓斗! どうしたんだよ、いきなり」

「どうして電話したのに出ないんだよ。もう姉さん行っちゃったよ」

「あっ……」

 そう言えば話し合いを邪魔されたくなくて、マナーモードにしてデスクの上に置いていたんだ。

「久しぶりね、拓斗君」

「あっ……あなたは凛子さん……」

 凛子に声を掛けられ、拓斗は驚く。

「そんな慌てて、なんの用だったんだよ」

「姉さんデートに行ったんだよ! お見合い相手との結婚の返事をしてしまうんだよ!」

「そのことか……知ってるよ。昨日紗耶香から直接聞いたからな」

「なんで止めなかったんだよ!」

 拓斗は興奮して、俺の両腕を両手で掴む。

「この人だな。凛子さんとヨリを戻すんで、姉さんはどうでも良くなったんだな」

 拓斗は俺の両腕を掴んだまま、凛子を睨む。

「お生憎さま。私は文也君に振られたわ」

 凛子は動揺した様子もなく平然と返した。

「お前、お見合いが上手く行くように願ってたんじゃないのか? どうして今更、俺に止めろって言ってくるんだ?」

「姉さんが断るって思ってたから……」

 拓斗が俺の腕を掴んでいた手を離す。

「姉さん、昨日泣いてたんだよ」

「まさか」

「ホントさ。文也君に止めて欲しかったんだよ……」

 昨日の紗耶香はスッキリした表情だった。俺とは兄妹のような関係だと納得した筈なのに。

「どうして止めなかったんだ? 姉さんのこと、大切じゃないのか?」

「大切だよ。大切だからこそ、いい加減な気持ちで止められなかったんだ。この事務所見てみろよ。こんなところで暮らす男が紗耶香を幸せに出来ると思ってんのか? 俺のやってるなんでも屋なんて、その程度のものなんだよ」

 言ってて情けない気持ちになった。だが、俺の素直な気持ちでもある。

「じゃあ、なんでも屋なんて辞めろよ。なんで辞めないんだよ」

「それは……」

 俺は言葉に詰まった。俺がなんでも屋を続ける理由。凛子は素直になれば分かると言っていたが……。

 助けを求めるように凛子を見る。だが凛子はただ微笑んでいるだけで、何も言ってはくれない。

「このなんでも屋をその程度とか言うなよ……」

「えっ?」

 拓斗は悲しそうな表情で俺を見る。

「儲からない癖に他人の為に一生懸命。そんな文也君をみんな好きなんだよ。俺も、一樹も勝巳も板垣さんも……。吉田さんだってそうだよ。文也君が好きだからこそ、あれだけ可愛がって仕事を頼んでくれるんだ……」

「拓斗、お前……」

 拓斗はこのなんでも屋をそんな風に見てくれていたのか……。

「なによりも、誰よりも、姉さんが一番文也君のことを気遣っていたんだよ。文也君が仕事の話をする度に嬉しそうで……お金が無くても頑張ってるからって、夕飯に誘えっていつでも言ってたんだ」

 拓斗の言葉の一言一言が俺の心に突き刺さる。

「そんな姉さんを、文也君が幸せに出来ない筈はないじゃないか」

「あーあ、答えを言っちゃったな」

「凛子」

 凛子は俺達を見て、楽しそうな顔をしている。

「あなたがなんでも屋を続けている理由が、もう分かったでしょ。お金には困っていても、あなたの周りには助ける人が集まって来る。だからあなたは頑張り続けるし、辞められないのよ」

 俺はただ一人で無意味に続けていると思っていた。だけどそれは間違いだった。みんなに支えられて、応援されているから続けていたんだ。

「俺が紗耶香を幸せに出来るのか……」

「文也君以外に、姉さんを幸せに出来る奴はいないよ」

 頭の中に、勝巳の言った「後悔しないように願ってます」の言葉が甦ってくる。

 俺はこのまま紗耶香を止めなければ、きっと一生後悔する。

「紗耶香の居場所は分かるか?」

「帝王ホテルの桐生って日本料理店。相手の名前は高田さんだよ」

「分かった。行って来る!」

 俺は言うが早いか、すぐに事務所を飛び出した。

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