第30話 したたかな裏切者(8)

 三人が帰った後、俺は残りの仕事が手につかず、足をテーブルに投げ出してソファでぼうっと考えごとをしていた。なんでも屋の将来のこと、紗耶香のこと、いくら考えてもなにも結論が出ず、いつの間にか眠ってしまった。

 俺はスマホの電話の呼び出し音で目覚めた。相手は紗耶香からだった。

「はい」

(こんばんは、今は事務所ですか?)

「ああ、そうだよ」

 俺は事務所の壁掛け時計を見た。もう午後九時を回っていた。結構な時間寝ていたんだな。

(友達と駅前で食事をしていたんだけど、解散したから行って良いかな?)

「ああ、俺は全然構わないけど……」

(じゃあ、すぐに行くね)

 そう言うと、電話が切れた。紗耶香はなんの用で来るのだろうか?

 言葉通り、紗耶香はすぐに現れた。

「こんばんは、遅くにごめんね」

「全然構わんよ。コーヒーでも飲むか?」

「あっ、じゃあ私が淹れるよ」

「良いから座ってなよ」

 俺は紗耶香をソファに座らせ、二人分のコーヒーを淹れた。

「美紅ちゃん達が来たそうね。拓斗がいろいろ言ったみたいで、ごめんなさい」

「紗耶香が謝ることじゃないよ。しかし、紗耶香はみんなに愛されてるんだな。あんなに心配してもらって……」

「えっ?」

 俺がしみじみそう言うと、紗耶香は不思議そうな表情を浮かべる。

「えっ? 俺、なにか変なこと言った?」

「私が愛されてるんじゃないよ。文也君がみんなに愛されているのよ」

「ええっ、俺が?」

「そうよ。もし私が結婚したら、文也君がまともな食事を取らなくなるって心配してるのよ」

「ああっ、そう言えばみんな俺を心配しているような口振りだったな……」

「もう、文也君らしいね」

 紗耶香は呆れたように笑った。

「明日の晩にね……」

「うん」

 紗耶香は急に深刻そうな表情になる。

「お見合いの相手の方から食事に誘われてるの」

「そうなのか」

 何回かデートもしているみたいだし、相手は紗耶香のことを気に入っているんだろうな。

「その前のデートで、結婚を前提に交際を考えて欲しいって言われていたんだけど、明日、その返事を聞かせて欲しいって言われたの」

「えっ、まだお見合いして一か月ぐらいだろ?」

「そもそもお見合いは結婚が前提だから、引き延ばすのは相手に失礼になるわ。これでも相手に待って貰っているのよ」

 紗耶香は少し寂し気にそう言った。

「そうなのか……」

 俺は心の奥に鉛のような重い物が溜まっていく気がした。

「で、返事はどうするんだ?」

 俺は気持ちを落ち着かせようと、ポケットから煙草を取り出しながらそう聞いた。

「そうね……今のままなら、受けることになるかな……」

 紗耶香はどこか他人事のように返事をする。

「相手は良い奴なのか?」

 煙草を取り出したものの、火も点けずに質問を続ける。

「うん、優しい、大人の男性よ。会話していても楽しいし、学歴やお仕事を考えても、結婚相手としては申し分ないわ。むしろ、私が相手で良いのかと申し訳ないぐらい」

「そうか、それは良かったな……」

 俺は火を点けていない煙草を灰皿に置き、そのタイミングで会話が途切れた。空いた間を持たせる為に、二人ともコーヒーを口に運ぶ。

「相手の方に、あの時のことを打ち明けたの。お見合いして次のデートの時に。それで愛想を尽かされるならそれで良いと思って。でも、その方は、騙した相手が悪い、紗耶香さんは少しも悪くない被害者だって庇ってくれたの」

 一呼吸置いて紗耶香が話す。

 相手の男は、理解のある懐の大きい奴なんだな。

「本当に良い人だと思う。まあ、既婚者に騙された私が言っても説得力ないかな」

 紗耶香はそう言って自嘲的に笑う。

「そんなこと無いさ。誰だって恋愛の失敗は経験するもんだよ」

「ありがとう」

 みんなは紗耶香のお見合いを止めろと言うが、話を聞くとますます止める理由が無くなる。誰だって文句なく、相手との結婚を勧めるだろう。

「私は子供の頃からずっと、文也君のことが好きだった」

「えっ……」

 突然、寂し気な笑顔で告白されて俺は戸惑う。

「でもその気持ちが家族のような親しみなのか、男性としての恋心なのか、自分でもよく分からなかったの。

 文也君が凛子さんと付き合いだして、心に穴が開いたような気持ちになってしまった。そんな心の隙を突かれて酷い男に騙されたりしたけど、結局文也君に助けて貰った。

 その後も文也君は見守り続けてくれて、ずっと私達の関係は変わらなかった。

 でもお見合いをして、相手の方が文句なく良い人で、私はこのまま結婚するのかなってリアルに感じたの。もしそうなってしまったら、文也君との関係はどうなるんだろう。私達はもう他人になってしまうんじゃないか。そうなってしまったら後悔するんじゃないかって……。

 もし文也君に抱かれたら何かが分かるかもって……」

 この前の酔った振りをしての行動はそんな理由からだったのか。

「朝起きたら、文也君が優しく抱き締めてくれてて……。

 昔を思い出したの。まだ父と母が生きていた頃を……」

 紗耶香は不意に涙を零す。

「ごめんなさい」

 紗耶香は慌ててハンカチを取り出して涙を拭う。

 俺が手を出さなかったのは、責任を取る自信が無かっただけだ。両親のような深く大きな愛じゃない。

「結局何も変わらなかったけど、でも逆に、なにが有っても変わらないのかなって思ったの」

 紗耶香は笑顔を作ってそう話した。

「ああ、俺達はどんなことになっても変わらないよ。これからもずっと見守って行くし、困っていれば必ず助けに行く」

「はい、ありがとう。……本当にありがとう」

 紗耶香はスッキリとした表情で返事をした。

「今日は突然ごめんね。もう帰ります」

 紗耶香はそう言って立ち上がる。

「車で送るよ」

「ありがとう。でもタクシーで帰るから大丈夫」

「そうか……」

 有無を言わせぬ紗耶香の口調に、俺はそれ以上は言わなかった。

 事務所のドアで紗耶香を送り出した後、俺はまたテーブルに足を投げ出して、ソファに座る。

 紗耶香は明日、相手との結婚話を受けるのだろう。紗耶香の幸せを考えるのなら、そうするのが一番だ。俺はあいつを見守る立場で良い。今までもそうして来たんだから。

 俺は自分を納得させようと、そう考え続けた。

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