第29話 したたかな裏切者(7)
開業直後で忙しい日々を送る中、ある日拓斗から切羽詰まった声で電話が掛かって来た。
「文也君、姉さんが大変なんだ。助けて!」
拓斗の緊迫した様子に驚き、俺はすぐに相川家に向かった。
俺と相川姉弟は実の兄弟のように育ってきた。だが、俺が大学に入学したころから、少し距離ができていた。特に何か関係が悪くなる出来事があった訳じゃない。俺が大学と言う自由な世界に入って、外に目を向け始めたからだ。
紗耶香が親の居ない生活を支える為に高校を卒業して就職し、俺が凛子と付き合いだしたことも有って、大学四回生の頃からはたまに会う程度の関係になっていた。拓斗から連絡があったのは、その一年後だった。
俺が相川家に着くと、二人は暗い表情である書類を差し出してきた。それは弁護士から紗耶香へ、慰謝料三百万円を請求する内容証明書だった。慰謝料請求の理由は、紗耶香が請求者の配偶者と不倫していたと言うのだ。
「姉さんは騙されてたんだ。既婚者だなんて知らなかったんだよ」
拓斗が姉を庇うが、紗耶香は何も言わずに、真っ青な表情で下を向いている。
「俺は紗耶香を信じるよ」
俺は紗耶香の小刻みに震える肩を抱いた。
俺には確信があった。紗耶香は正義感が強く、高い倫理観を持った女性だ。どんなに口説かれたとしても、既婚者を相手にするとは思えなかったからだ。
「文也君……」
紗耶香が涙目で顔を上げる。
「心配するな。紗耶香は絶対に悪くない。今までのことを話してくれ」
紗耶香の話を聞くと、内容証明書に書かれている男と交際していたのは事実だった。だが紗耶香は既婚者とは知らなかったのだ。
相手は会社の取引先の社員で、結婚指輪もはめていなかったそうだ。仕事関係で知り合い、告白されて付き合い、結婚も仄めかされていたらしい。
「そいつとやり取りしたラインとかはないのか?」
運よく、紗耶香は男とのライン履歴を残していたので、俺はダイニングテーブルに座り、それを遡って読んでいく。
初めは仕事関係の話ばかりだったが、いろいろ相手からアドバイスを受けていくうちに、徐々に紗耶香の心に隙が出来て行った。
俺は読んでいて動悸が止まらなかった。まだ子供だと思っていた紗耶香が、女の姿を見せ始める様子が手に取って分かったから。ショックだったのだ。だが今はそれを気にしている暇はない。紗耶香は男に騙された被害者だと証明しないといけないのだ。
読み進めて行くと、確かに男は既婚者と告白していないし、それを感じさせる発言も無い。むしろ紗耶香を落とす為に、結婚や将来のことまで話している。
「姉さん、不倫したことになるの?」
向かいに座る拓斗が、心配そうに訊ねてくる。
「紗耶香はそんなことが出来る人間じゃない。騙されていたんだ。必ず証明して見せるから安心しろ」
俺は絶対に、紗耶香に不倫の汚名を被せてはいけないと思っていた。
「文也君……」
「大丈夫だ」
心配そうに見つめる紗耶香の肩に、俺は優しく手を置いた。
全て読み終えた俺は、ちゃんと説明すれば証明できると確信した。証拠のラインのスクリーンショットを印刷し、弁護士と連絡を取り面会する。
忙しい仕事の合間を縫って、俺は必ず紗耶香に付き添った。
弁護士と話し合いを重ね、相手の奥さんとも面会して話すことが出来た。最後には奥さんも紗耶香を被害者と認めてくれるまで通じ合えた。しかも旦那との離婚交渉の際に、付帯事項として紗耶香への謝罪文と僅かだが慰謝料の支払いまで入れてくれたのだ。
「文也君、本当にありがとう」
何か月も掛かって話し合い、なんでも屋の仕事と並行していて大変だったが、紗耶香の笑顔で全て報われた。
あれからもう五年が過ぎた。その後、紗耶香は転職し、今の会社にずっと務めている。今ではあの時のことは忘れてしまったように、元の明るく朗らかな紗耶香を取り戻していた。
もうあんな紗耶香は見たくない。紗耶香には幸せになって欲しいと心から願っている。この俺の願いが、拓斗の言う「思わせぶりなこと」になっているのか。
「思わせぶりか……」
思わせぶりじゃなく、俺が紗耶香を受け止めれば拓斗は納得するんだろうか。
俺はまた昔のことを思い出していた。
紗耶香を不倫騒動から救った直後、俺は衝撃的な出来事に直面する。大川がなんでも屋に見切りを付けて、ブランド品買取会社に就職すると言うのだ。しかも凛子まで俺の元を去り、大川に付いて行った。
俺は余りにも衝撃的過ぎて、二人に理由を問い詰めることなどしなかった。去る者追わずと考え、俺は意地になって働いた。なんでも屋を成功させて二人を見返そうと頑張り続けたのだ。だが、現状を見ると奴らを見返すどころか、大川の方が正しかったと証明された結果になってしまった。
自分の生活すらままならない今の俺に、紗耶香を幸せにすることなど出来ない。思わせぶりじゃなく、距離を取って見守るべきなのかもな。きっと拓斗の言いたかったのは、そう言うことなんだろう。
俺は自分の不甲斐なさに気持ちが重くなった。
大川達との話し合いを明日に控えた、十九日の午後。仕事の入っていない俺が事務所で領収書の整理をしていると、板垣さんを先頭に一樹と勝己の三人がやって来た。
物言いたげで少し怒ったような表情の板垣さんの後ろを、気まずそうな顔した男二人が付いて来る。
仕事の前には一度事務所に顔を出す決まりになっているので、今日のジョンの散歩の担当者である一樹が来るのは分かる。それに最近はデートがてらに、ジョンを散歩させているようなので、板垣さんが来るのも分かる。勝己まで来たのは何の用なんだろう。
「どうしたんだ三人して事務所に来るなんて」
「今日のジョンの散歩は俺の担当なんで……」
一樹が申し訳なさそうに答える。
「それは分かってるよ。板垣さんと行くんだろ? 勝己までどうして来てるんだ?」
本来ならデートがてらの仕事なんて、公私混同でやめさせるべきなのかも知れんが、礼儀正しい二人は吉田さんにも気に入られているので、いろいろ緩い俺は特に問題にしていない。
「俺はやめとけって止めたんですけどね」
勝己が困ったように頭を掻き、イマイチよく分からないことを言う。
「私が二人を連れてきたんです! 一緒に抗議しようって」
先頭の板垣さんが、二人を遮るように俺の前に立つ。
「抗議って?」
「社長さん、元カノの相談に乗って、紗耶香さんのお見合いを止めないんですよね。どうしてですか? このままじゃ紗耶香さん他の人に取られちゃいますよ。元カノとヨリを戻すつもりなんですか?」
板垣さんが一気にまくし立てながら迫って来るので、俺はたじろいでしまった。
「いや、ちょっと待ってよ。元カノの相談に乗ってるのと紗耶香のお見合いを止めないのは全く別問題だ。偶然同じタイミングになっただけだよ」
「じゃあ、紗耶香さんのお見合いを止めるんですか?」
「ちょっと、落ち着こう。そこに座って、ね」
俺は三人をソファに座らせ、俺も板垣さんの前に座る。
「一体誰にこの話を聞いたんだよ」
「拓斗さんです。凄く怒ってましたよ」
「拓斗か……」
あの決闘の日以来、板垣さんは紗耶香と親しくなったらしい。一樹と一緒に何度か相川家にも招待されたと聞いている。一人っ子の板垣さんは紗耶香のことを姉のように慕っているようだ。だから今回のことを聞いて、黙っていられなかったのだろう。
「まあいい、誤解が有るようなので、説明するから聞いてくれ」
俺が三人の顔を見回してそう言うと、みんな黙って頷く。
「まず、元カノの凛子の相談に乗ってはいるが、それは仕事で引き受けているだけだよ。ヨリを戻すとかそんな気持ちは一切ない」
「でも、夫の相談を元カレにするって、有りがちな浮気のパターンじゃないですか」
板垣さんの言葉に、他の二人も頷く。
「これは仕事なんだ。そうじゃなきゃ断ってる。そこら辺のくっ付いたり離れたりのカップルと一緒にしないでくれ」
俺がそう言い切ると、三人はあれこれ話し合いを始める。
「じゃあ、元カノとヨリを戻さないんなら、紗耶香さんのお見合いは止めてくれるんですよね」
三人の結論が出たようで、代表して板垣さんが俺に訊ねてくる。
「どうしてそうなるんだよ」
「だって紗耶香さんは絶対に社長さんのことを好きですよ。良いんですか? 他の人に取られても。もうあんな素敵な人は社長さんの前に現れないですよ」
「紗耶香が俺のことを好きって言ったのか?」
「言ってないですけど、分かります。だって社長さんの話をする時の紗耶香さんは本当に幸せそうなんですよ。誰が見たって分かりますよ。ねえ」
板垣さんは横に座る一樹に同意を求める。
「俺もそう思いました。社長は紗耶香さんのことをどう思っているんですか?」
紗耶香は大切な人だ。幸せになって欲しいと心から思う。二度と不倫騒動のような悲しい思いはして欲しくない。
「紗耶香は俺に取って家族のように大切な人だ。幸せになって欲しいと願っているよ」
「じゃあ……」
「紗耶香のお見合い相手は一流企業に務めるエリートなんだよ。生活するのも大変な、なんでも屋の俺とは違うんだ。
紗耶香から見て相手の人間性に問題なければ、その人の方が幸せに出来るんだよ」
言葉にして初めて分かった。そうだ、俺は自分に自信が無かったんだ。
「社長、俺、来年卒業したらここで働きます。人数が増えれば出来る仕事も増えるでしょ。仕事もドンドン取ってきますよ。この会社はもっと大きく出来ます」
「馬鹿なことを言うなよ。せっかく工業高校に行ったのに、ここで働く必要無いだろ。宿工は良い就職先があるって聞いてるよ」
「馬鹿なことって何なんですか? みんな社長さんのことが好きで心配してるんですよ! それなのに馬鹿なことって……」
板垣さんが涙を浮かべながら怒る。
「いや、ごめん。言い方が悪かったけど、俺も一樹の将来を心配してるんだよ……」
「じゃあ、私達の気持ちも分かってくださいよ!」
俺がなだめようとしても、板垣さんの気持ちは治まらないようだ。
「ちょっと一樹、美紅を外に連れて行け。こう感情的になったら話も出来ねえよ」
「ああ、そうだな……美紅、少し席を外そうか」
一樹に肩を抱かれて、板垣さんは事務所を出て行った。もう話は済んだ筈なのに、勝巳だけはまだここに残っている。
「なあ、社長」
「お前敬語は?」
「いや、真面目な話なんだよ」
何故真面目に話すと、敬語じゃなくなるのか分からんが、勝巳の表情は真剣そのものだった。
「もし紗耶香さんが他の男と結婚して幸せになったとして、社長は後悔しないと思ってんの?」
「俺は紗耶香に幸せになって欲しいと心から思っているよ。もしお見合い相手と結婚して幸せになれるなら、祝福するさ」
「そうか……社長は人間が大きいんだな」
「ど、どういう意味だよ」
勝巳が言わんとしていることがよく分からず、俺は訊ねた。
「一樹は良い奴だよ。一生信頼してダチとして付き合っていけると思う。美紅も幸せになれるだろう……」
勝巳は俺を見ず、視線を宙に漂わせる。
「でも、俺はずっと後悔してるよ。……多分これからもずっとね」
「勝巳……」
勝巳は俺の方を見ないまま、スッと立ち上がる。
「社長が俺みたいに後悔しないよう願ってます」
勝巳は俺を見て寂しい笑顔を浮かべた。
「じゃあ、帰ります」
俺は何も声を掛けることが出来ずに、去って行く勝巳の背中を見送った。
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