第26話 したたかな裏切者(4)

「文也君……」

 紗耶香が俺を見つめる。普段のしっかり者の紗耶香とは思えないくらい、儚げで幼く見えた。その顔を見て逆に俺は冷静になってしまう。

 今、俺の腕の中にいる紗耶香を愛おしいと感じている。でもこれ以上先には進めない。

 俺は紗耶香を守るように強く抱き締めた。


「文也君起きて、お願い、家まで送ってくれない?」

 俺は肩を軽く揺さぶられて目を覚ました。目の前には昨晩の服を着た紗耶香が立っている。

「えっ? どうして紗耶香が……」

 寝惚けて状況がよく理解出来ない俺が紗耶香に訊ねる。

「もう、文也君起きてよ。一旦家に帰らないと、このままじゃ仕事に行けないの」

 もう一度肩を揺さぶられて、昨晩のことを思い出した。あのまま寝てしまって、紗耶香を家に帰さなかったんだった。

「今なん時?」

「六時よ。今から帰れば、仕事に間に合うからお願い」

 紗耶香は顔の前で手を合わす。

「わ、分かった、家から駅にも送るよ」

 焦る紗耶香に押し切られて、俺はすぐ準備して軽トラで事務所を出発した。

「ありがとう」

 助手席の紗耶香が、ホッとしたようにお礼を言う。

「時間は間に合うのか?」

「うん、この時間なら、帰ってシャワーを浴びても大丈夫よ」

「そうか、それなら良かった……」

 俺は横目でチラリと紗耶香の様子を窺う。特にいつもと変わらない感じがする。でも、起きたら下着姿で抱き合ってたのだから、驚いただろう。なにもしていないのは分かっていると思うが……。

「あ、あのさ……」

「はい?」

 俺は続きの言葉を考えずに、思わず話し掛けてしまった。

「あーいや、何でもない」

 紗耶香は昨晩のことをどう思っているのだろうか。手を出さなかったことが良かったのか? それとも傷付いているのだろうか?

「えーっ、なに? 言ってよ」

「いや、紗耶香のいびきがうるさかったなって……」

 俺は冗談で誤魔化した。

「嘘! 私いびきなんてかかないよ。私の方が文也君のいびきがうるさくて目を覚ましたのに」

 怒る紗耶香はいつもと変わりなかった。

「でも、それで早く起きれたから良かったけどね」

「じゃあ、感謝しろよ」

「そうね、本当にありがとうございます」

 紗耶香はそう言って、俺の左肩にそっと手を置いた。

 その後も紗耶香は鼻歌を歌ったりして、機嫌よさそうだった。

「ごめんね、すぐに用意して来るから」

「俺は時間大丈夫だから、慌てなくて良いぞ」

 相川家に着くと、紗耶香はすぐに二階にある自分の部屋に向かった。

 俺がリビングでソファに座り、テレビを観ながら待っていると、不機嫌そうな拓斗が入って来た。拓斗は何も言わずに俺の横に座る。

 二人とも何も言わないまま、微妙な空気が流れる。テレビの音声だけが、不自然な二人の間に流れていた。

「ちゃんと責任取るんだろうな」

 急に拓斗が口を開く。

「いや、責任ってなんだよ。俺は何もしていないぞ」

「そういう問題じゃないだろ。年頃の娘を家に泊めた意味を考えろよ。しかも姉さんはお見合いまでしたのに」

 確かに拓斗の言う通りだ。でも、責任を取れと言われてもどう取れと言うんだ? 紗耶香と結婚しろと言うのか? 相手は、その日暮らしのなんでも屋である俺なんだぞ。

 俺は何も言い返せず、二人とも無言のまま時間が過ぎて行く。

「お待たせしました。まだ少し時間があるから、何か食べる?」

 用意を終えた紗耶香がリビングに入って来て、俺達の空気を変えてくれた。

「いや、良いよ。駅まで送るよ」

 拓斗は何か言いたそうな顔をしていたが、無視して紗耶香と家を出た。

 車の中でも紗耶香はいつもと変わらず、にこやかに世間話を始める。

 紗耶香も俺に責任を取って欲しいと思っているんだろうか? いや、何もしていないんだし、責任取れとは思ってないよな……。

「二日酔いは大丈夫なのか?」

「えっ?」

 俺がそう聞くと、紗耶香は意外そうな声を漏らした。

「だって、結構酔ってただろ。お酒が残ってるかと思って」

 俺がそう言っても紗耶香はすぐに返事をしない。

「……酔ってなかったから……私、こう見えてもお酒が強いの」

「ええっ! 酔ってないって、お前……」

 驚いた俺は運転中にも関わらず紗耶香を見る。紗耶香は俺じゃなく前を見ているが、耳まで赤くなっていた。

「文也君、危ないよ!」

 俺は慌てて前を見て、運転に注意を向ける。

 酔ってなかったって……じゃあ昨晩の言動は……。

 いろいろ考えているうちに、駅に着いた。

「ありがとうございます! じゃあ、行ってきます」

 ロータリーに車を停めると、紗耶香は笑顔で降りて行った。

 あれが酔っていたんじゃないなら、どういうつもりで俺に抱き着いてきたんだろうか? それに、手を出さなかった俺のことをどう思ってるんだ? ただ抱きしめていただけで、あんなに機嫌が良くなる程嬉しかったんだろうか?

 俺は紗耶香の後姿を目で追いながら、彼女の気持ちを考えあぐねた。

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