第15話 すれ違いの指輪(6)
現地に着くと、前と同じようにコインパーキングに車を停めた。二人とも緊張しているのか、マンションに向かう途中で会話はない。
「部屋の電気が点いています。妻は居るようです」
「良かった。無駄足にならなくて」
俺たちはマンションのエントランスに入り、エレベーターで部屋に向かう。
三〇八号室の前に来ると、桜田さんは緊張した面持ちで、ドアを見つめて立ち止まった。
桜田さんが顔を見てきたので、俺は思いを込めて力強く頷いた。
桜田さんがインターフォンを押した時、俺は表札に名前が無くなっているのに気付いた。その意味を考える間もなく、インターフォンから返事がないままに、ドアがガチャリと開いた。
「あれ? ピザ屋さんじゃないんだ?」
二十代半ば程の、デニムにパーカー姿の男がドアの向こうで、少し意外そうに呟いた。
俺たちは男の姿を見て驚き、何も言えずに立ちすくむ。
「どうしたの? ピザ屋さんじゃ無かったの?」
奥から女性の声が聞こえる。前に聞いた奥さんの声だ。
「あ、いや、お客さんみたいだよ」
男は玄関に向かい歩いてきた奥さんに返事をする。
「ええっ……誰……」
奥さんは前とは違い、ニットとチノパンと言うラフな姿で玄関に現れた。彼女は俺たち二人の姿を見ると、驚き動きが止まり、顔が見る見る青ざめてくる。
俺はようやくここで、桜田さんの顔を見た。彼は険しい顔つきで奥さんの顔をじっと睨みつけている。
「あなた……」
「えっ? もう離婚したんじゃないの?」
男が奥さんを見て、驚いたようにそう言った。
「そう、もう一年前に離婚しているから元夫です。今日は忘れ物を持ってきただけですから、すぐに帰ります」
ようやく口を開いた桜田さんは、男を押し退けるように、奥へと入って行く。俺も桜田さんが暴力を振るったりしないように後ろに続いた。
「どうして、ここに来たの?」
「これを渡す為だ」
桜田さんは手のひらに乗せた金の指輪を、奥さんに差し出す。その指輪が元々奥さんがはめていた物なのか、桜田さんの物なのか俺には分からなかった。
「これは……」
奥さんは震える手で指輪を受け取る。そしてすぐに内側の刻印を確認していた。
「君から俺に贈ってくれた指輪だ。この前受け取った指輪は俺が処分した。この指輪は君が処分してくれ。それで俺たちは本当に終わることが出来る」
桜田さんは嘘を吐いた。奥さんから預かった指輪は、今もまだ持っているのだ。だが俺は、口出しすることが出来ずに見守った。
真っ青だった奥さんの顔が見る見る赤く染まっていく。
「わざわざご苦労さま。こんな物持って来なくても、もう私達はとっくの昔に終わっているのに」
こちらも嘘だ。箱を取りに行った時の奥さんは絶対に桜田さんを待っていた。
「けじめは必要だからな。お楽しみのところ、悪かった」
奥さんは「あああー」と叫び、しゃがみ込んで泣き出した。
「さあ、帰りましょう」
桜田さんは泣き崩れる奥さんと、オロオロする男に背を向け、エレベーターに向かい歩き出した。俺は何も出来ずに、その後ろに付いて行く。
マンションから出た後も、桜田さんは無言でパーキングに向かう。俺も話し掛けることが出来ずに並んで歩いた。
精算を済ませてパーキングを出てからも、桜田さんは険しい顔で前を向いたまま一言もしゃべらない。
当たり前だ。あんなことがあった後に、何も話す気にはなれないだろう。
無言の重苦しい雰囲気のまま、俺は桜田さんの気配を意識しながら、車を走らせていく。
「すみませんでした」
もうあと十分程で桜田さんのマンションに着くというところで、俺はそう呟いた。やはり一言謝っておかないと、俺自身の気持ちが収まらない。
「謝る必要はありませんよ」
桜田さんは冷静な口調で、そう返してきた。
「でも、私が余計なことを言わなければ、あんなことにはならなかったのに」
「あんなことになって良かったんですよ」
「でも……」
そう言われても、とても良かったとは思えない。俺の余計な口出しで、二人の心を深く傷つけてしまったんだ。
「行きの車であなたが話した通り、私はまだ妻のことを愛していたんですよ。もし、あなたが何も言わずに一人で指輪を届けてくれていたら、私はずっと未練を残したまま引きずり続けていたでしょう」
桜田さんの声は冷静で感情がこもってはいないが、強がりを言っている訳ではなさそうだ。
「妻が話した通り、私達はずっと前に終わっていたんだ。もし、今回復縁できていたとしても、また同じことの繰り返しで別れていたでしょう」
「吹っ切れたんですか?」
「ええ、もう未練はありません」
「そうですか……」
それが本心なら結果的には良かった。
「実はね、俺も昔結婚まで考えていた彼女を他の男に取られたんですよ」
なぜか俺は自分の過去を、桜田さんに聞いて欲しくなった。
「ええっ、そうなんですか」
「しかも、奪っていった男は親友と思っていた奴でね。今でもたまに悔しくなる時がありますよ」
「ひどい話だ……小室さんは今でもその彼女を想っているんですか?」
そう聞かれて、改めて考える。俺は今でも凛子のことが好きなんだろうか?
「あれだけ、桜田さんに偉そうなこと言っていたけど、今でも好きなのかよく分からないんです。思い出すのもたまにですしね……」
「自分のこととなるとそんなものですよ。どうです? 一度その彼女に想いをぶつけてみては?」
「そういう訳にもいかないんですよ。もうそいつと結婚しましたからね。今更修羅場にしようとは思いません……」
そうだ。やるなら、別れ話になったあの時にすべきだった。あの時、悔しさと情けなさが入り混じった気持ちで、強がって何も言わずに別れてしまったんだ。引き留めれば、戻って来たかも知れないのに。
話をしている間に、車は桜田さんのマンションに着いた。
「これは、今回の代金です。領収書は結構ですから」
車の降り際に桜田さんは財布から四万円を取り出して俺に差し出した。
「いや、これは頂けません。今回は俺が余計なことをしたんだから」
「だから、それで良かったんです。むしろ感謝しているくらいなんですから。お礼を込めて多目にしているんだし」
「それでも受け取れません。俺は何もしていませんから」
「これは、私の気持ちなんだから」
そう言って桜田さんは俺にお金を突き出す。
「困ったな……よし、それならこれから飲みに行きましょう。まだ飯もたべてないでしょう? 駅前商店街の中に遅くまでやっている店を知っているんですよ。そこでの飲みましょう」
そうだ。お互いに譲らないなら、一緒に使ってしまえば良い。
「分かりました。その店なら私も知っていますよ。行きましょう。とことんまで飲みましょう」
その夜は、桜田さんの奢りで遅くまで飲み食いし、楽しい憂さ晴らしとなった。
俺達に奇妙な連帯感が生まれた。独り者同士の寂しい連帯感だが。
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