第14話 すれ違いの指輪(5)

 軽トラックの助手席に桜田さんを乗せ、奥さんのマンションに向かっている。もう出発して十分ぐらいになるが、会話らしい会話は無い。ちらりと横目で見ると、桜田さんは何かを考えているように、じっと前を見ている。

 いろいろ訊ねてみたい気持ちはあるが、拒絶されているようで、俺は聞けずにいた。

「別れた原因はね、妻の浮気なんですよ」

 不意に桜田さんがそう呟く。

 沈黙に耐え切れなくなったのか、それとも知っていて欲しいと思ったのか、俺には分からないが、桜田さんの方から切り出してくれた。

「そうなんですか……」

 そう驚きは感じなかった。離婚の原因としては予想の範囲だ。

「相手はパート先のファミレス従業員、妻より五つ若い社員でね、私の出張中に会っていたようです」

「どうして分かったんですか?」

「出張が早く終わって、マンションに帰ったら鉢合わせですよ。いわゆる修羅場って奴ですね」

 内心はどうなのか分からないが、桜田さんは淡々と話し続ける。

「男を裸のままで叩き出し、妻からは土下座ですよ。『これが初めて、魔が差した、遊びだった』って。スマホ確認したら、初めてなんて大嘘でした。半年前から続いていたんです……」

「ひどい話ですね」

 俺は心から桜田さんに同情した。どんなに謝ったとしても、バレた後なら保身としか思えず、裏切った事実は変えられない。しかも嘘まで吐いていたのだから。

「まあ、遊びと言うのは本当だったみたいです。私は別れるつもりでしたが、『心を入れ替える。あなたが許してくれるまで、償い続ける』と言ってね、それで思い直して再構築することにしたんです。その後、妻は本当に献身的に尽くしてくれました……」

 不意に桜田さんの言葉が途切れる。嫌な記憶でも思い出したのだろうか? 俺もそのまま何も言わずに待ち続けた。

「裏切られても妻を愛していました。もう改心して裏切らないなら許してしまいたかった。でも無理だったんですよ……」

 桜田さんの言葉が途切れたと同時に、信号待ちで車が停まる。

 俺は横に座る桜田さんの顔を見た。彼は宙に浮かぶ何かを見ているように、ただ前を向いていた。

「……フラッシュバックと言うやつですよ。何かのきっかけで突然悔しさがよみがえり抑えきれなくなる。そんな時は妻に当たり散らしました。大声で怒鳴ったり、壁に物を投げつけたりして……」

 車が動き出したのがきっかけになったように、桜田さんはまた話し出す。

「妻はそんな私を見るたびに、土下座して謝りました。『ごめんなさい。あなたを苦しめて本当にごめんなさい』って。そんなことが続くと、逆に私の方が悪いんじゃないかと思えてきてね……。反省している人間を許してやれない、心の狭い奴だと。そんな器の小さな自分が嫌になってきたんですよ」

「それは違いますよ。誰だってそうなりますって」

 俺は桜田さんの言葉をキッパリと否定した。

「ありがとうございます。そう言ってもらえると気が楽になりますよ」

 その言葉に、安心したようなふっと緩んだ気配が含まれた。

「そうして、フラッシュバックを繰り返しながらも、いつか許せる日が来ると信じて一年間辛抱しました。でも変わりませんでした。いつまで経っても苦しいままでね。このままじゃお互い辛いだけだからと妻に話し、結局は離婚することになったんです」

「お気持ちは察します」

「浮気現場のマンションに住む気にはなれず、私が引っ越すことにしました。荷物をまとめていると妻が箱を一つだけ抱きしめて離さなかったんです『もう一年、もう一年だけ時間をください。私はずっとあなたを待っています。もし許す気になったのなら、今日のこの時間、この箱を取りに来てください。もし来なければ、この箱はあなたに送り返します』って」

「それが、指定された日のあの時間だったんですね」

 俺の言葉に桜田さんがうなずく気配がした。

「でもなぜ俺に依頼してまで箱を取りに行ったんですか? そのままほっといても奥さんが返してくれてたのに」

「どうしてでしょうね。私にもよく分からないのです。箱を返してもらえるか心配だった訳じゃない。そもそも、あの箱の中身はどうしても必要な物でもなく、ただの衣服でしたから、べつに返って来なくても良かったんです」

「自分で取りに行くのが怖かったからじゃないですか?」

 俺は紗耶香が言った言葉を思い出し、そう聞いてみた。

「怖かった?」

「そうです。もし自分で取りに行って、奥さんはすっかり忘れていたら、惨めで傷ついてしまう。それが怖かったんじゃないかと思って」

 桜田さんは俺の言葉を聞いて「ハハッ」と力なく笑った。

「すみません」

 俺は自分の勝手な想像で、失礼なことを言ったと思い謝った。

「あ、謝る必要はありませんよ。小室さんにそう言われて、なるほどその通りかも知れない、と思っていたんですから」

 気を悪くしたようでもなく、桜田さんはそう言った。

「私は怖かったのか……確かにそうかも知れない。約束の日が近づくにつれて、どうすれば良いかずっと悩んでいました。何もしなくて、箱が返って来なかったとしたら。自分で取りに行って妻が忘れていたとしたら。捨てたと思っていた妻に、実は捨てられていたんだと分かることが怖かったのかも知れないな……」

「桜田さんは、まだ奥さんを愛しているんじゃないですか?」

 俺は懲りずにまたストレートな質問を投げかけた。

 桜田さんは肯定も否定もせず黙っていた。

「桜田さん、今、奥さんから返ってきた指輪を持っていますか?」

「えっ? ああ、未練がましいがずっと持っていますよ」

「良かった。じゃあ、その指輪を奥さんに渡しましょうよ」

「えっ、どうして? いったい何をしろと言うんです?」

 俺の提案に桜田さんは驚いた声を出す。

「自分の指輪を奥さんに返すんじゃなく、もう一度奥さんに指輪を贈って復縁するんですよ。あの日、奥さんはあなたのことを待っていました。二人はまだ愛し合っています。きっと復縁できますよ」

 信号待ちで停まったこともあり、俺は桜田さんの目を見て訴えた。

「そんな上手く行くんでしょうか?」

「今別れたらきっと後悔しますよ。自分の気持ちに素直になってください」

 俺は桜田さんに過去の自分を重ねていた。

 凛子と別れた日、何もせずただ後姿を見送ったあの日の後悔が、桜田さんに対して過剰なくらいのお節介となっていた。

「後悔……か……」

 俺は続く言葉を待った。奥さんの様子から考えれば、桜田さんさえ前向きに行動すれば、きっと上手く行くと信じていた。

「分かりました、やってみます。もう一度プロポーズなんて照れますが、一年間待ってくれた妻の気持ちを無視する訳にもいきませんね」

 良かった。桜田さんがその気になってくれた。これできっと二人は上手く行く。

 俺は希望を持って、奥さんのマンションに軽トラを走らせる。他人事とは思えない程、テンションが上がっていた。

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