第13話 すれ違いの指輪(4)
相川家で夕飯を食べた一週間後、俺はもう桜田さんのことを忘れかけていた。このまま何もなければ過去になっていただろう。
しかし、その日の夕方、犬の散歩の仕事を終えて事務所に戻っていた俺に電話が入る。桜田さんからだった。
「はい、こちら『なんでもやります小室屋』です」
「こんばんは。この前はお世話になりました。桜田です」
「いえ、こちらこそありがとうございました。今日はどう言ったご用件ですか?」
俺は桜田さんがなぜ電話を掛けてきたか気になった。前の一件の続きだろうか? それとも全くの別件だろうか?
「はい、実はまた運んで貰いたい物があるんですが」
「また運んで貰いたい物? どのような物でしょうか?」
「詳しくはそちらに行って説明します。一時間後はご都合よろしいですか?」
今日はもう何も予定が入っていない。
「はい、大丈夫です。お待ちしています」
「それでは、伺います」
それだけで電話が切れた。
結局詳しいことは分からない。桜田さんの到着を待つしかないな。
約束通り、一時間後に桜田さんが事務所に来た。仕事帰りなのか、前回と同じようにスーツ姿だ。
「実は、これを妻に届けて欲しいのです」
桜田さんは奥さんから預かってきた物と同じ形の結婚指輪をテーブルの上に置いた。
一瞬、俺が預かってきた物かと思ったが、桜田さんの左手の薬指に指輪がないことに気付いた。奥さんの物か彼の物か判断がつかなかった。
「これは……」
「これは私がはめていた結婚指輪です」
俺が奥さんから預かってきた指輪ではなかった。
「どうしてこれを奥さんに届けるのですか?」
仕事をする上で必要は無かったが、俺は思わず疑問を口に出してしまった。
「結婚をする時にこの指輪を交換しました。離婚して妻も指輪を返してきたんだから、私も返すのが筋だと思って」
桜田さんは少し興奮気味にそう答えた。
「代金は前回と同じだけ払います。この時間なら妻は自宅に居ると思います。今から届けて頂けませんか」
俺は少し考えた。
何も余計なことを考えずに、仕事を引き受ければそれで丸く収まるだろう。だが、それで良いのだろうか?
「いえ、今回は料金は頂けません。前回、私が余計なことをしたから、桜田さんが指輪を返そうと思い立ったのだから」
「それは違う。指輪を預かってきてくれて私は感謝しています。だからこれを持って行って貰うのは別の仕事と考えてください」
「そう言って頂けるのはありがたいですが、どちらにせよ私が指輪を届けるのは引き受けられません」
「どうしてですか?」
俺に断られるとは考えていなかったようで、桜田さんは少し動揺した表情を浮かべている。
「私が持って行くことは出来ませんが、桜田さんを車で奥さんのマンションまで送ることは出来ます。あなたが自分で指輪を返すべきです」
「私が?」
桜田さんは少し驚いた表情を浮かべる。
「そうです。桜田さんはまだ奥さんに気持ちがあるんじゃないですか? それが怒りなのか、愛情なのかは私には分かりませんが」
「そんなことは無い。妻はもう過去の存在です」
「じゃあ、指輪なんて放って置けばいい。何もしなければ、もう赤の他人ですよ」
俺がそう言うと、桜田さんは反論できずに黙った。
「桜田さん。ご自分で返しに行って、奥さんに気持ちをぶつけてください。俺に行かせると、絶対に後悔しますよ」
桜田さんはテーブルの上の指輪をじっと見つめて考え込んでいる。
「私も自分自身の気持ちがよく分からないのです……」
指輪を見ながら、桜田さんはぽつりと呟いた。
「行けば分かるかも知れませんよ」
「一つお願いがあるんですが」
桜田さんは顔を上げて俺を見る。
「なんでしょうか?」
「横に居て私を見ていてくれませんか? 私がどんな表情で何を言ったか見ていて欲しいのです。私が今、妻に対して持っている気持ちが何なのか? 見ていてくれませんか?」
そういうことなら、お安い御用だ。
「分かりました。お引き受けします」
こうして俺は車に桜田さんを乗せ、もう一度奥さんのマンションまで行くことになった。
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