第12話 すれ違いの指輪(3)
桜田さんの住むマンションは事務所と同じ盛田市駅の近くで、奥さんのマンションから一時間ほどで着いた。
もう八時をまわっていたが、桜田さんからは何時になっても構わないから、その日のうちに持ってくるように指示を受けている。
桜田さんの住むマンションは五階建て。マンションと言うよりハイツと言った感じか。教えられていた五〇三号室のドアの前に立つ。空き部屋のように表札すら出ていない。生活臭が感じられない部屋だった。
俺は箱を抱えながらインターフォンを鳴らした。
「はい」
「あの『なんでもやります小室屋』の小室です。ご依頼の箱を預かり、持ってきました」
「ご苦労様です」
桜田さんは短くそう言うと、すぐにドアを開けて出てきた。部屋着なのか上下スウェット姿だ。
「こんばんは、これがご依頼の箱です」
「ありがとうございます」
俺は桜田さんに女性から預かった箱を手渡す。その時、彼の左手の薬指に預かってきた物と同じ結婚指輪がはめられているのに気付いた。
箱を受け取った桜田さんは、なにか迷っているかのような表情を浮かべて俺の顔を見ている。
「あの……妻は……」
「はい?」
桜田さんはなにかを言い掛け、それを途中で止めたので俺は聞き返した。
「あ、いや、なんでもない。じゃあ、残金をお渡しします」
桜田さんは後ろに箱を置いた後、財布を手にしてそう言った。
「あ、その前に、もう一つ相手の女性から預かってきた物があるんですが」
「預かってきた物?」
「はい、これです」
俺は女性から預かった指輪を手のひらに乗せて差し出した。
桜田さんはすぐに受け取らず、無言で指輪を見つめている。
「……もうこんな物必要ないってことですか……」
桜田さんはため息交じりにそう言って、俺の手から指輪を拾い上げる。彼の表情に失望が感じられた。
俺は言うべきか一瞬迷ったが、やはり伝えておこうと口を開いた。
「あの女性は奥さんですよね?」
「ええ、そうですが……あ、いや、もう一年前に離婚しているから元妻ですね」
俺の質問の意味が分からないのか、桜田さんは戸惑ったような顔をしている。
「奥さんはその指輪を、自分の薬指から外して俺に渡しました」
桜田さんは俺の言葉の意味を考えているかのように黙っている。
「それに奥さんは、高級レストランにでも出掛けるようなドレス姿で、あなたを待っていたようでした。俺が部屋のインターフォンを鳴らした時に、あなたが来たと思って凄く嬉しそうな声で出ましたから。逆に私の顔を見ると悲しそうな沈んだ顔になりましたよ」
桜田さんは「そうなんですか……」と言ったきり黙ってしまった。
「俺が行って良かったんですか? 今日の七時に約束していたんですよね?」
「それは余計なお世話ですよ。あなたに頼んだのは箱を取りに行って貰うだけです」
そう言われると、返す言葉も無かった。俺自身、自分でも説明がつかないくらい余計なことをしていると思う。でも、なぜか放っておけないのだ。
「残金は払います。それで引き上げてください」
「分かりました。これが明細書です。必要経費の端数はサービスしましたので、残り二万三千円です」
「ありがとうございます」
桜田さんは礼を言うと、財布からお金を取り出し残金を支払ってくれた。
「ありがとうございました。また御用がございましたら、携帯までご連絡ください」
俺は領収書と一緒に、もう一度、名刺を手渡した。「それでは失礼します」と挨拶して部屋を後にした。
思っていた以上に簡単な仕事だったが、俺の心の中に小さなモヤモヤが残った。
「そう言えば、あの箱を取りに行く仕事は上手く行ったの?」
箱を受け取りに行った日の三日後。俺は仕事を手伝ってもらった拓斗を家まで送ったついでに、紗耶香から夕飯に誘われた。三人でテーブルを囲んでいた時に、拓斗が急に思い出したかのようにそう聞いてきた。
「まあな……」
「で、箱の中身はなんだったの?」
「見てねえよ。仕事なのに勝手に見る訳ないだろ」
「ヤバい物だったらどうするんだよ。運んでいる途中で警察に停められたりしたら捕まるかも知れないだろ」
「それは大丈夫だと思う。相手は依頼人の奥さんだったんだよ」
「奥さん?」
予想外だったのか、拓斗はきょとんとしている。
「奥さんから箱を受け取るのに、どうして文也君に頼んだの?」
奥さんと聞いて、興味を覚えたのか、紗耶香も話に加わってくる。
「いや、もう一年前に別れたって言っていたから、元奥さんか。まあ、いろいろ事情があるみたいでさ……」
俺は奥さんがめかし込んで桜田さんを待っていたこととか、悲しそうに左手の薬指から指輪を外して渡してきたことを話した。
「あの日のあの時間、きっと二人は約束していたんだよ。でも桜田さんは気が変わって俺に頼んだんだろう。楽しみに待っていた奥さんが失望したのを見るとなんか可哀想になってな……」
「でも奥さんが原因で別れたかも知れないじゃん」
「それはそうかも知れない。でもあんな当てつけみたいに時間まで守らせて、俺を行かせることはなかったんじゃないか?」
「それだけ桜田さんは恨んでいたんだろ。きっと奥さんが浮気でもしたんだよ」
拓斗はもうそれが原因と確信しているように言い切った。
「私は逆に、まだ奥さんのことを愛しているんだと思うな」
「えっ? どういうこと?」
自分の言葉を否定された拓斗は、少し不満そうな顔をして姉に訊ねる。
「本当に恨んでいるのなら、きっと自分で行って奥さんの失望する顔を見るんじゃないかと思うの。その時、罵声の一つも浴びせるかも知れない。でも、文也君に頼んだのは……」
「俺に頼んだのは?」
言葉が続かない紗耶香に、俺は続きを促した。
「……うん……上手く言えないけど、怖かったんじゃないかな。もし自分で取りに行って、奥さんは忘れていたとしたら……まだ愛していて約束も覚えているのに、それは自分だけだとしたら……。もしそうなら凄く傷ついてしまう。まだ愛しているからこそ、桜田さんは怖かったんじゃないかな」
紗耶香はゆっくりと考えながら、そう言った。
「そんな、姉さんはドラマの観過ぎだよ」
「私ドラマなんかほとんど観ないわよ」
拓斗にからかわれて、紗耶香はムキになって言い返す。
「でも、考えてみろよ。文也君が取りに行ったら、もし奥さんが復縁するつもりでも台無しになっちゃうんだぜ。愛しているなら自分で取りに行って仲直りするだろ」
「それはそうかも知れないけど……」
「紗耶香の言う通りかも知れんな。実は桜田さんも結婚指輪をはめていたんだよ。憎んでいる相手と一年前に離婚しているのに、今でも指輪をはめ続けないだろ。でも、奥さんの様子を伝えても反応薄かったんだよな……」
俺は桜田さんに箱を渡した時のことを思い出していた。
「いや、無理でしょ。文也君だって、凛子(りんこ)さんが反省して謝ってきたら許すの? 出来ないでしょ?」
「ばっ」
拓斗の軽口を聞いて紗耶香は驚き、横に座る弟の顔を見たが、俺の反応が気になったのか、すぐに引きつった表情でこっちを向いた。
凛子は俺の元カノで、相川姉弟も何度か会ったことがある。別れた事情も知っているのだ。
「いや、凛子と桜田さんの奥さんが同じ状況かどうか分からないだろ……」
俺も拓斗の言葉に動揺していたが、紗耶香の顔を見ると怒るに怒れず、無理に笑顔を浮かべた。
「ごめん、そうだよね……」
拓斗も自分の失言に気付いたのか、珍しく素直に謝った。
「まあ、もう仕事は終わったんでしょ? 今更何を言っても確かめようがないよね」
紗耶香が場を取り繕うように話を終わらせようとする。
「そうだな。せっかく紗耶香が美味しい夕飯作ってくれたんだから、早く食べよう」
「今日は文也君が好きなから揚げがいっぱいあるし、どんどん食べてね」
俺は自分の許を去って行った凛子のことで、二人に気を使わせているのを申し訳なく思った。
桜田さんの件はしょせん他人事だし、もう二度と関わることも無いだろう。この話題は忘れよう。
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