第9話 依頼者は死後に嗤う(9)
一ヵ月程が過ぎ、そろそろ、上着が必要になってきた十月のある日。事務所に竹下さんの父親から電話が入った。俺に渡したい物があるらしい。
約束の時間になり、事務所には父親だけでなく、母親と良美の三人で現れた。俺は三人と応接セットのソファで向かい合う。
「お通夜の席では感情的になり失礼しました。久美があなたに借金をしていたと遺言を残していましてね。このお金はその返済金百万円です」
父親はテーブルの上にそこそこの厚さの封筒を置いた。俺はすぐには手を出さず、ポーカーフェースで三人の顔を見つめた。三人もまた俺の表情を窺っている。三人は俺が舌なめずりして現金に手を出すのを待っているのだろう。それが分かっているから、俺もすぐには手を出さずに様子を見た。
「あなた、本当は恋人じゃないんでしょ? あなたは久美から依頼されて恋人の演技をしただけなんでしょ?」
俺のリアクションが無い事に痺れを切らしたのか、良美がヒステリックに問い質してくる。
「まあ、あなたも簡単には真実を話せないでしょうね」
父親はいやらしい愛想笑いを浮かべながら、もう一つ同じ厚さの封筒をテーブルの上に置く。どう見ても二つの封筒は同じ物に見える。俺は父親の意図を計りかねた。
「これは何ですか?」
「ここにもう百万あります。本当のことを話して頂けるのならこれも差し上げましょう。娘の最後の頼みを聞き入れてくれたあなたには感謝しています。だが、私達は真実が知りたいのです」
俺は呆れて声が出なかった。この家族はそうまでして竹下さんが幸せだったと言う事実が許せないのか。
俺は激しい怒りを覚えたと同時に、二百万円が手に入るという甘い誘惑に動けなくなる。
「安心して下さい。あなたから何かを聞いたということは決して他には漏らしませんから。あくまで私達は家族として本当の久美を知りたいのです。だからお願いします」
とうとう父親は頭まで下げた。確かに三人の要求はあくまで家族内で収まるだろう。だから俺にリスクはない筈だ。
俺は目をつぶって立ち上がり、デスクに行って写真立てを手に持ち、また三人の前に戻った。
手に持った写真立てをテーブルの上に置く。俺と竹下さんが笑顔で写っているデート写真だ。
大きく深呼吸し、俺は三人の顔を見つめた。
竹下さん、この三人の顔を天国から見ておけよ。そして大声で嗤え。
「このお金は受け取れません」
俺は封筒を二つ共父親に押し返しながら、そう言った。
「何故だ! 仕事で引き受けただけなんだろ? 何故お金を受け取らない」
「お願いします。私達は娘の本当の姿が知りたいだけなんです。どうぞ真実を教えてください」
母親が手を合わせて俺に頼むが、その姿は醜く映るだけで同情する気は起きない。
「興信所を使ったんですよね。周りの人間に聞いて俺と久美が付き合っていたことは分かっている筈ですが」
竹下さんの資料に、俺の周りの人間にも二人が付き合っていたように偽装して欲しいと要望が書いてあった。俺は加工したデート写真を利用して実行している。
竹下さんが予想したとおり、葬儀の後、周りの知り合いの元に聞き取り調査しに来た人間が居た。事情を知っている時田さんや拓斗はちゃんと証言してくれたし、その他の人間も俺の演技が上手かったのか、ちゃんと信じていたようだ。
「そ、それは……」
「すでに真実は話しているし、久美にお金を貸したことはありません。だからこのお金は受け取れません。たぶん俺に借金したと言う話は、俺の暮らしを心配してくれたのだと思います」
俺は写真立てを手に取り眺めた。
「久美と過ごした日々は幸せでしたし、彼女もいつも楽しそうでした。久美には感謝の気持ちでいっぱいです。一生忘れません。お金に代えられない物を彼女に貰ったんです」
俺は写真立てを抱き締めた。
「嘘よー! 久美が幸せになれる筈はない! あんなブスで根暗でコミュ症な女が男から愛される訳が無い! 嘘に決まってるわ!」
良美が目を吊り上げて叫んだ。彼女はもう常人の目をしていない。竹下さんに可哀想と見下されてから彼女の中で何かが壊れたのだろう。葬式にも出られない訳だ。
父親がもう百万円出した理由が分かった気がした。
「もう帰ってください」
俺の言葉を聞き、諦めた両親は暴れる良美を引きずるようにして帰って行った。
三人が帰った後、俺は今一人でソファに寝転び考えている。
なぜ俺は金を受け取らなかったのか? 二百万円と言えば大金だ。その金があれば今後の生活がどんなに楽になるか分からない。受け取らなかったことに後悔が無いと言えば嘘になる。本当のことを言えば良かっただけなのだ。だのになぜ俺はお金を突き返したのか?
仕事を完全にやり遂げたいと言う職業倫理観か?
いや、違う。
竹下さん、彼女の環境に同情したのか?
いや、少し違う。
たぶん俺は感動したんだ。
竹下さんのしたことは他人から見れば愚かな復讐だと思う。拓斗や時田さんの言う通り、余命が分かった時点でもっと前向きに生きれば良かった。それがベストの選択だと俺も思う。
でも全ての人がベストに生きられる訳じゃない。どうしようもなく辛い状況で、それを打開できずにモヤモヤした気持ちを抱えながら生きている人も数多く居るだろう。
竹下さんも家族に虐げられた状況を打開出来ずに生きてきた。そこから抜け出すには人生と言う時間も短かった。余命を告げられた時に一番成し遂げたかったことは、人から見れば小さく、くだらない復讐だった。でも彼女は残りの人生を掛けて一矢を報いたかったんだ。
ならその人生を掛けた復讐に手助けする奴がいても良いだろう。俺は彼女の最後の選択に心を動かされたんだ。それに二百万掛ける価値はある。
俺は起き上がり煙草に火を点けた。
「思う存分、あの世では笑顔で居ろよ」
明日の金にも困る状況だったが、心は爽快だった。
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