にゃにゃにゃにゃにゃにゃ


 パンデミックを引き起こしたウィルス、それに感染したヒトの体内でトキソプラズマが突然変異したという説がある。

 その説を裏付ける要因かどうかは判然としないが――なにせこの分野で活躍した研究者たちのその多くは災禍の中で命を落としている――ヒトに感染したウィルスとトキソプラズマによって生合成された生体分子(タンパク質だとか)が偶然にも二つの微生物を繋げる何らかの要因となったのではないか。ウィルスに感染したことで獲得した抗体がトキソプラズマにも有効であり、適合するために変異、あるいは突然変異したのではないかなど幾つかの説はあるが有力な答えは出ていない。さもありなん、絶望の淵にあった人の社会に突如として人語を解する猫が現れ、それを端に猫ロジカルな活動が活発化したのだ。『にゃボット』の量産に明け暮れていた人類にその他の研究を継続する余力は残されてはいなかった。結果的に現在に至っても、なぜ猫が話し始めたのかを説明する有力な論文などは発表されていないのが現実だ。

 しかし、ここではトキソプラズマの突然変異論を真として考えることにしよう。すると、猫を終宿主とするトキソプラズマ――人の体内で突然変異した――と呼ばれる寄生虫が猫→ヒト→猫のサイクルを幾らか経る内に両者間で高度なコミュニケーションを可能とするチャンネルを開いたのではないか? この考え方は一つの解答として小鳥遊教授は半ば認めている。

 では、なぜヒトは猫が人語を話したかのように錯覚するのか? そう、小鳥遊教授が考える猫とのコミュニケーションはある意味で錯覚なのだと断定している。

 クオリアの変質――新種のトキソプラズマに感染した人間の猫に対する質感変化。つまり、猫が人語を話す様に感じるのは人間のクオリアであって、猫の主観から視れば在りのままの振る舞いであり、人間の主観的には猫の振る舞いが人語を話すように感じているに過ぎない。

 以上が事実だとすると、人間が猫の気持ちを理解した瞬間だったと浮かれている場合ではなかったのかもしれない。なぜなら、冷静に視点を変えてみると、この変質が起こった時点で猫社会は人間社会を支配して発展することが決定的になるわけだ。猫を終宿主とするトキソプラズマの思いもよらない進化は結果的に猫と人間にとってより良いものを与えた、猫が無邪気であり結果ヒトは楽天的になれたとはいえ。

「猫による支配か……そんな風に考えたことはなかったな」

 アーサーの笑みは皮肉なものとは言えず、やはり猫に対する愛情、我々は共存している、という意思から出てきているように感じられる。

 トキソプラズマに感染したラットの研究では天敵であるはずの猫に対する危機感が著しく低下すると考えられている。これは人にも言えたことで、トキソプラズマに侵された人間の脳は恐怖心や不安感を感じにくくなる。

「それが生存戦略ですから。無常の愛情を抱くのも単にトキソプラズマによる洗脳に近い。適者生存を謳うならその勝者は間違いなくトキソプラズマになるわけですが……(寄生生物に感情を支配されている、とは生理的に受け入れられない)。まあ、つまりすでに史実上の覇権というものはすでに猫たちに移り変わっているのは確からしい」

 とはいえ、些かシニカルになりすぎるにはまだ早い。人類の歴史を大きく塗り替える結果になろうとも――あるいは純粋なるヒトという種が途絶えたとしても、まだ道は残されている。

「その可能性。その在り得そうもない未来をそれをもってして示してくれたのが、ケットシーあなたの存在なのです」

「わたくしですか。ここに私たちのゆく道がしめされている、ということですね」

 ケットシーは髪をいじり続けるマタタビ――ポニーテールならツインテールは当たり前、三つ編み四つ編みフィッシュボーン、順繰りに試してはリラックスした顔で蕩けている。果ては島田に結って……どうなってるの? ああ、ここは電子空間そんなことはお茶の子さいさい――その手をそっと取り、自身の頭、厳密にはその奥を指差す。

「父が残したブラックボックスは、思いもよらない処に着地しようとしている」

 もとをたどれば、『ブラックボックス』とは念写を基に考え出された機構である。猫たちはそこに温かな存在が居ることを知っている。きょろきょろ、と忙しなく辺りを見渡したかと思えば、ふとした拍子にその視線は一点に注がれる。

 それは最もピュアであり、根源的な温かさなのだという。念写はその箱の中にある乾板に思い描いた文字を入力あるいは透視する。では、そこにある絶対的な存在を捕まえてそこに納めてしまう事だって可能ではないか? ある一つの猫たちに共通する観念がそれを可能にするのではなかろうか?

 それがあの祭りで証明された一つの事実。これを夕陽は『集合的猫意識』と名付けた。

 それは人類が辿り着くことの叶わなかった集合知のことを指し、魂の問題を解いたと視てまず間違いない。

「思想的に多岐に分かたれた人間という種には、この集合知を獲得するには心、精神は余りに濁りすぎていたと私は考える」

「種としての純粋性という点で猫には及びもつかなかった、というわけか。それは言語的な壁を有さない――ああ、つまり教授が仰られたことが正しければ、クオリアの変質で猫たちを認識しているというなら、様々な言語を使っているように見えてその実たった一つの猫語を都合よく変換している、ともいえるのか?」

「そうでしょうね。我々にとっての猫はそういう生き物だとクオリアが都合のいいように捉えてくれる。変異種のトキソプラズマの生存戦略といってしまうと少々身の毛のよだつような思いですが、まあ、その恩恵で私たちヒトは種としてぎりぎりのところで淘汰されずにすんだ」

 アーサーの眼は些か揺らいで、やがてケットシーを捉えて止まる。

「なるほど。集合的猫意識か。それは面白。言語の問題もそうだが、常に衝突を余儀なくされてきた人間には確かに集合的意識など知覚することはできなかったのだろう」

 薄々はアーサーにも夕陽が持ち込んだ議案の青写真が見えてきたように感触される。

「にゃー、集合的猫意識。なんだか不思議とわくわくする響きにゃ」

 手をよけられて少々しょんぼりとしていたマタタビの見えないネコ耳がぴくぴくと反応している。

「魂の問題とは大きく出ましたね。しかし、確かにわたくしの存在を証明するとなればもはや夕陽教授の唱える集合知と呼ばれる新概念でも持ち出さない限り難しいでしょう。わたくしが私自身を疑うわけにもゆきませんからね」

 ケットシー理知的な眼が遠くを見、それはそこにある温かな純粋を認めてる、そんな様子と錯覚する。これから先、彼女を皮切りに多くの猫的な形而上世界から同一の神話が訪れる可能性を視て。夕陽は大きく頷いた。

「私は『にゃボット』に本来あるべきだった機能の解放……その許可を頂きたいと思います」

 ここから先は人間にとって根源的な倫理の問題である。しかし、現状を加味する限りあまり頑なになる問題ではないのかもしれない。猫にとっての手足、『にゃボット』なんてものを造り出してしまった時点ですでに人間には知覚できない運命の糸がそこに繋がっていたのかもしれないのだから。悪い言い方をすれば、緻密に見えて包括的な支配。優しさを以てして受け入れようとすれば、種としての持続を可能にし、猫たちに包み込まれるがままの共存。だからつまり、この辺りでヒトは前に立つことを辞め、次代の担い手たちにバトンを繋ぐことでヒトネコ賛歌と嘯いても良いのではないか。小鳥遊夕陽はそんな風にこの現実を受け止めている。

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