にゃにゃ


「しかしあれだね、お猫様の香箱座りっていうのはなんて愛らしくって崇高な趣を感じるんだろうね」

「にゃーたちもそう思うな。こうやってより安全で窮屈な空間で香箱座りをしながら、まるで夢を見るかのようにこの現実世界を生きているのにゃ」

「なんだろうねそれは。胡蝶の夢みたいなお話だね」

 トワイライトとロマンチックな横文字で着飾るよりかは希釈した段々畑のように緋色の層を厚くする空とどこからか夕餉の香りを感じる夕風の中を揺蕩う一枚の葉っぱ、そんなレトリックにどっぷりとつかりたい倦怠感は空腹の証とばかりに腹の中からぐーーー、と大きな音を感じる今日この頃――世界は誰にとっても優しいものであり、灯火が軒を連ねて夜は怖いよと、そっと耳元で囁かれるようなそんな柔らかい夕暮れ時だった。

「朝早く、どこかへ行ったと思ったら泥だらけで帰ってくる。きみなんか生臭いよ」

「にゃーは狩りに行くって言ったにゃ!」

 然り。

「それってこの前行ったばかりだよね? ……それは本能ってやつなのかな?」

「狩りは伝統にゃ。たまに山に入らないと肉球が疼くにゃ」

「そうかそうか。レガシーというより生活の一部なんだね、狩りとは――」

 たっはっはー、と黒髪のロングな美魔女然とした背の高い女は紫色に変色し始めた空に向かって紫煙を吐き出した。妙齢というには些か幼い眼差しを有する女で、肌艶は奇妙なほど――白粉など不要な――張りと潤いに満ち、あまりに白い。骨格全体を通して一本の屈強な柱と梁を通したかのような長身は他を寄せ付けない威圧感とともに何ものをも受け止める包容力が見える。白シャツに紺のベスト、縦線のスラックスに身を固めた女は縁なし眼鏡に指を添えると煙草をもみ消し灰皿へと放った。

 名前を小鳥遊夕陽(たかなし ゆうひ)と呼ぶ。日本国民を再起させた小鳥遊准教授の娘にあたる。齢は五十をとうに過ぎ、それでいてこの美しさを保ち続けているのだから魔女と渾名されて当然だとマタタビは言う。マタタビのことを小鳥遊はあるいは猫又と言う。

「まずは身体を清めて、服装を清潔にしろ。それから……今晩の飯について考えよう」

「今日はぼたん鍋にゃ先生!」

「先生ではない教授だ」

 ずんぐり眼に緩んだ瞳孔から何か見えないキラキラを発する。緩慢でありながら急速に日の落ちていく暮時に閉じていた瞳孔が開いて猫族特有の狩猟的本能は鳴りを潜める。両肩が露わになったキャミソールに僅かに女の子らしいラインを膨らませ、裾の解けたショートパンツにハイカットのブーツ姿。茶トラのショートヘアーが風流な夕風に前髪を揺らす――そこにはどこからどうみても人間にしか見えないボーイッシュな少女がシルエットの中から現れる。

「先生は先生。みんなの先生。世界の先生。何か不満でもあるかにゃ?」

「不満か……、父を置いて教授になった身だ。それに誇りを持ちたいんだろうね。マタタビにはそういう微妙な乙女心が解らないか?」

「にゃー……ゆうて先生は早寿にゃ。青い青春って今さらにゃ」

 このマタタビと呼ばれる少女は第六世代型人型有猫ロボット/通称:にゃボットに搭乗している一匹の猫である。准教授小鳥遊博士ら研究チームによって作り出された人型有猫ロボットは娘である夕陽博士によって魔改造が施されて現在ではほぼ七、八頭身にまで人間に酷似しているものが主流だった。不気味の谷現象に悩まされていた小鳥遊博士は人語を解する猫――博士の家猫がそうであった――と出会うことによって旧来の合理的判断を下すAIにまさる頭脳系統としてこの人語を話す猫たちに協力を仰いだ。もとより、そんな猫たちは人間のような手足を持つことを強く望んでいた。

 なにより猫たちは働きものであった。一日十二時間もの睡眠時間に目をつむれば、能率のいい三時間程度の労働でも、衰退した人間社会を再起するには十分な労力といえた。最隆盛期の総人口の八割以上を失った人類社会ではあったが、着々と発展と純粋性を高めていく猫社会に寄り添うような形で融和していき、それぞれの種の境界線も曖昧に、細々とした終末をまんじりとしながら迎えることができた。

 人は確実にその数を減らし続けている。『にゃボット』に適合した猫たちはその体積を少しずつ減少させていき、現在のような人と見紛うまでの外骨格の『にゃボット』の中に搭乗できるように進化したのだろう。パンデミックがもたらした功罪は淘汰の構造を覆すことはなかったものの、現在生き残っている人間に何の不満があるだろうか? 種としての猫を愛でていた心というのはたとえ本来ある形を失ったからと言って損なわれるような柔なものではなかった。マインドとはそういうものだ、とこれは小鳥遊夕陽教授の言葉である。

「全く自由奔放なことは大いに構わないが、すり傷だらけで私は少し心配だよ」

「にゃー、にゃーたちの身体は先生の考案したにゃボットのバイオ構造を簡単には破壊しないはずにゃー」

 猫訛りの抜けないマタタビはまだまだ猫本来の本能が抜けきれず、しばしば狩りと称する伝統行事に出かけていく。彼女はそこで多くの生傷を作ってくるが、このように――半日も経れば傷はほとんど消えてなくなる。

「べつに私が作った訳でもない。にゃボットの基礎構造は父の残した遺産だ。私がそう易々とその構造をいじくりまわすわけにはいかない。つまり、父の功績であることに留意してもらいたいね」

「屁理屈こねてもよくわからないにゃー」

 晩ご飯ば~んごはん~♪ と口ずさみながら手早くシャワーを終えたマタタビはさっさと台所へ向かい勝手口から入ってきた近所のゴンゾウさんから笹に包んだ生肉を頂いていた。

「ありがとーにゃ」

「そりゃあこっちのセリフさ。こんな上等な奴は滅多に狩れない。マタタビの嬢ちゃんの処には一番上等なところを持ってきたから、これで精つけな!」

 がっはっは、と豪快に笑いマタタビに猪肉を渡す。太い丸太ほどの腕は毛深く、ねじり鉢巻きを巻いた角刈りは妙な趣があり時代錯誤だった。『にゃボット』の外見はその猫それぞれのカスタマイズが十分に可能だ。猫たちの美意識がどういった方面に指向されているかは疑問だが、日本においては概ねこのような古き良き時代を人間に思い出させるノスタルジーな形式を猫たちは選択する。

 鞣した皮を今度持ってくるからカバンとかベルトにしてやってくれ、と言い残しゴンゾウ猫は小鳥遊邸を後にした。

「精肉所のおっちゃんか? 猪を余すことなく解体して、ご近所にそのおすそ分けに回るってご苦労なことだ」

 しめしめとほくそ笑んでいる夕陽を余所にマタタビはいそいそとお台所で下準備を始める。この小鳥遊夕陽教授、自身の研究に向かう際の集中力は目を見張る非凡をみせるのに対して、インスタントコーヒーすら満足に淹れることのできない不器用である(というより、その他を蔑ろにする傾向にある)。

「隠し剣、猫の爪!」

 意味の解らないことを叫びながらマタタビは食材を切り分けていく。実にてきぱきとした無駄のない調理工程である。

 マタタビの料理。これは猫の食に対する強い興味――個体によって何に強く関心を持つかはランダムだろう――のたまものだと言える。

 土鍋に鰹出汁をとった汁に赤と白の合わせみそ。味付けはシンプルだろうが、猪肉の独特の味わいを愉しむのならこれ以上の正解はなかったのだろう。しいたけ、えのき、こんにゃく、ねぎ、焼き豆腐、さといも、ごぼう、にんじん、白菜、ぐるりと鍋を一周する統一の取れた盛り付けにどことなく猫鍋を思い出してほくそ笑む。

「まるで丸くなった猫みたいだね。ところでマタタビ? 猪肉って結構臭いって聞くけど、これは大丈夫なの?」

「にゃー、この時期はそんなに臭いはきつくないはずにゃ。それに、ゴンゾウさんの解体技術を舐めるにゃ。下処理なんて必要ないんだにゃ」

 と、マタタビはしてやったりの顔を浮かべて牡丹の花びら様に盛り付けられた大皿に鼻を近づける。すると、ぐにゃりと表情が歪んで、えー、としている。

「いやいや、フレーメン反応起こしてるじゃない⁉」

「これは、生理反応にゃ。べつに嫌いだからフレーメンするわけじゃないのにゃ」

 赤面しながら言い訳するマタタビは「そんなことよりはやくはやく」と席に着くよう夕陽を促す。とっておきの十年物のウィスキーでハイボールを用意して、いただきます。

 少し早い夕食が始まった。

 鼻をひくつかせて恐る恐るといった態で夕陽は味噌の香る汁に猪肉を湯がく。確かに少し独特のにおいを感じながらも口に含むとぷりぷりとした意外な感触に思わず破顔した。

「おお、これは美味いね! 旨味が凝縮して……それにハイボールが良く馴染む」

「猫酒造さんのところの特別にゃ」

「ああ、以前、酒酵母がどうとかで手伝った時の?」

「そうだにゃ。すごく感謝してることをどう伝えればいいか訊かれたから、特別なお酒を! って。にゃーはお酒はよく解らないけど先生が満足でなによりにゃ」

 バイオ機構のにゃボットには酒を程よく分解する酵素が存在する。そのため、猫は酒にあまり酔わない(もちろんそれを嗜好する個体は十分存在する)。現在の社会構造は大幅な機能低下に伴い過去に敷いていた税制もその大部分を縮小している。それゆえ、ある種の嗜好品に対する制限――にゃボットにかかわるバイオ技術の成果も大いに助けとなって――誰もが自由に酒を造れる。それでも酒造などが多く存在するのは、やはりそこは専門的な職人が不可欠であり、それは猫社会以前から変わらない。

 ぐつぐつと煮える具材の踊りに唾液が溢れ、その手が止まらない。ほろ酔い気分の夕陽の眼に、空っぽになった土鍋に丸くなった猫などを想像して、猫を突いているようなジョークがひらめき出したのを頃合いにマタタビから奇妙な質問を受ける。

「先生は幽霊って信じるのかにゃ?」

 少しの間、黙っていた夕陽は灰汁をすくって艶りとした赤身の猪肉を鍋に沈める。そうする間に赤かった肉に熱が通り薄い臙脂を経て茶褐色の食欲をそそる色合いを見てそれを口に含んだ。

「んー……突然猫たちが辺りをきょろきょろし始めたかと思うとある一点でぴたりと視線が止まる、あれってそういうことなの?」

「〝幽霊〟っていうのはヒトの言葉だから上手く説明できにゃいのだけど……それってつまり幽霊なのかなって」

 マタタビにしてはむつかしい顔をして頭を抱える。知的好奇心が芽生えたのだろうか? とは冗談半分に夕陽にとってなにか興味をそそる展開がこの後に続く気配に思わず身震いした。

「そこには確かに居て、それはとても遠いところで、だけどすごく温かなもの。にゃーたちはそういう感覚にときどき晒されるにゃ」

 超感覚という質感が猫族に具わっているのなら、その感覚を人間が感じることは叶わないだろう。集合知という概念をどこか遠い研究の先に見出している夕陽にとって、マタタビたちの感じる感覚というものはある種の猫的集合意識ではなかろうかと仮設はいくつか立ててはいる。が、それはあくまで本来猫に具わったセンスであり、人間にそれを感覚し立証することは恐らくあり得ない。

 ゆえに、そこはかとない閉塞感をも感じるのだろうが、

「わたしは幽霊それ自体を信じてはいないけど、恐らくそう言った共通する性質をもつなにかしらは存在すると考えている。マタタビはどうしてそう思ったんだい?」

「にゃー、この前大きく山が削られたことは知ってるかにゃ?」

「ああ、たしか二週間ほど以前の大雨の話だったかな。近所で小耳にはさんだように思う」

「そこは、まあ普段誰も寄り付かない処だからにゃーたちや先生たちに直接の被害はなかったにゃ。ただ、やっぱりその山崩れの規模は把握する必要があるにゃ」

「それは狩りゆえにかな?」

「そうだにゃ。にゃーたちは今日ただ狩りに出ただけではないにゃ。そこの調査も兼ねた出航だったにゃ」

 ジョッキに溢れた泡を唇に感じながら、夕陽は話の先を促す。マタタビは居住まいも正してしかつめらしい猫らしからぬ趣で話を続ける。

 山の崩れた辺りに小さな洞穴が空いていることに気が付いて、一同は土木道具一式を用いて穴を広げていった。もともとその洞穴はぽっかりと穴を空けていたのだろう。一度粘土質の土に塞がれた洞穴はその更に数えきれない年月を経てまたそこに大きな口を広げたに違いない。土砂をどける作業が終わると、洞穴の奥から轟轟とした唸りが響いてくる。その響きは重層的で耳朶の内側から低音を打ちつけるような重みのある音だった。多くの猫たちはそれに畏れにも似た神妙な雰囲気を知覚した。好奇心は猫をも殺すとは人間の言葉だが、この時ばかりは好奇心で成長してきた現代猫社会の住民たちに理由の知れない霊的な力を知覚したのだという。

「それは確かに知覚だったんだな?」

「にゃ、はっきりと解ったにゃ。みんな怖がって中には入らなかったけど、あそこには確かに何かが居るのにゃ」

 猪鍋で程よく赤らんだ頬が思わず赤面するほどに夕陽はその話に興奮を覚えた。研究者故の性か。あるいは、種として存続する最後の一ピースを夢想したか。

 未だ人類の進む道を切り開いていきたい彼女にとってマタタビたち猫族の好奇心が思いもよらない可能性の一端を掴んだに相違ない感触はアルコールの度数を越えて夕陽を酔わせた。

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