第31話ヴェスレイ



 翌日、いつものように私はヴェスレイが起きるのを手伝い、食事をともにして、ぶつぶつと何かしゃべる彼の言葉を背に、食器の洗い物をこなしていく。


「……おまえは、こんなちっちゃな漁村でのんびり生活してていいタマじゃあねえ。ジジイみてえな暮らしで満足してんじゃねえぞ」

「ははは。そういうタマだから追い出されて今ここにいるのですよ」

「しょうがねえやつだなぁ」


 ヴェスレイは、ククク、と喉の奥で笑った。背を向けているが、苦笑している顔が目に浮かぶ。

 今日はこちらの世界にいてくれるらしい。

 庭では、私の家事が一段落するのを待っているククルが、ミロとリオンと遊んでいる。


「犬ガキ、静かにできねえのか」

「いい加減、ククルと呼んであげたらどうですか」


 ったくよぉ、と毒づくヴェスレイは、私の言うことは聞いてないようだ。

 家事もずいぶんと慣れ、どんどん効率が良くなっていった。今では、どうしたら早く終えられるのか試行錯誤するのが楽しいくらいだった。


「いい天気ですね。洗濯物がよく乾きそうです」


 バルコニーから外が抜けて見える。

 真っ青な海と小さな港。薄雲がかかっている青空。家の中に、そよそよ、と風が入り込んでくる。

 稽古の準備をしようと外に出ると、ヴェスレイもついてきた。しゃんと背をただし、歩幅も私が知っているものだった。


 いつもの特等席に腰かけて、ほほ杖をつく。今日はずいぶん機嫌がいいらしい。

 眼差しに温かなものを感じて、私はつい表情がゆるんだ。


「ククル、はじめましょう」

「うん!」


 テンションの高いミロを落ち着かせ、その背中にリオンが止まり、二匹も見学するかのように隅で待機する。

 木剣を持ち準備を終えたときだった。


「雨のにおいがするなぁ……」


 ヴェスレイがぽつりと言った。


「雨? におい?」


 ククルが首をかしげる。

 私も先ほど見たばかりの空を見上げて、眉根を寄せた。雲は見当たらず、雨が近づいているとは到底思えない。


 それ以上ヴェスレイが何も言わなかったので、気にしないことにして、私たちは稽古をはじめた。

 カン、コン、と木剣がぶつかり合う音が庭に響く。

 ククルが幼い気合を発し、また打ち込んでくる。


「アル様。もういっぺん言うが、返り咲け。おまえが尽くした何百何千の民が、そこで待っている」

「ははは。そうでしょうか?」


 会話で気が逸れた私に、ククルが木剣を振りかぶった。


「ククル。持って生まれた身体能力に頼るな。最後の最後に自分を救うのは積み重ねた技術だぞ」

「え? あ、うん!」


 気づけば、陽光が翳って周囲は薄墨を塗ったように暗くなっている。

 おや、と私が曇ったことに気を取られると、その隙を見逃すまいとククルが攻撃を焦った。逆にその隙を突き、今日の稽古が終わった。

 そのとき、頭にぼたっと大粒の雨が垂れてきた。


「わっ!? 本当に雨だ!?」

「洗濯物をしまいましょう」

「おじいちゃん、本当に降ったね! なんでわかったの!?」


 ヴェスレイは答えず、頬杖をついたまま動かない。

 雨が本格的に降りだしてしまった。


 ミロは大騒ぎして雨を喜んでいるようだが、リオンはすぐさま屋根のある場所まで飛んでいった。


 ぼたり、ぼたり。


 髪を濡らした雨が、体温を伴って首筋に流れる。雨音だけが存在感を増していき、白線を引いたような篠突く雨が空から落ちてくる。


「先生……――」


 雨でも微動だにしないヴェスレイは、私たちの稽古姿が良く見える場所で時を止めていた。

 私たちがよく見える特等席で、穏やかな笑顔だった。

 急いで二本の木剣をしまったククルが、やまない雨の中、足を止めた。


「おじいちゃん……? 風邪、ひくよ……?」


 話しかけてもやはり動かないヴェスレイに、ククルは傘を持ってきて差した。


「おじいちゃん?」


 昨日聞いた『叶ってたわけか』の言葉が耳の奥で蘇った。

 あなたが、私とククルのことをそう呼んでくれるのなら。


 それはもう叶っていた。


 ぐっと奥歯を噛みしめて、ヴェスレイの姿を目に焼きつける。

 ざあざあ、と降りしきる雨の中、ククルの大声が時折聞こえた。


「ねえ――おじいちゃん――なんで何も言わないんだよ!」

「ククル」


 自分の声がおかしいくらいに震えていた。


「先生は……」


 振り返ったククルは、目にいっぱい涙を溜めていた。私と同じだ。

 医者の話はククルにしないで正解だったと頭の隅で思った。稽古の時間になれば必ずやってくるヴェスレイを思って、ククルは無理をさせないために稽古はしばらくやめただろう。


 ヴェスレイの望みはそうではなかった。

 どれだけ歩みが遅くなっても、一歩一歩が辛くても、過去と現在で記憶がぐちゃぐちゃになっていても、必ず特等席で私たちの剣を見学した――教え子の様子を見るために。


 ククルが喉を震わせ泣きはじめた。心配になったのか、ミロがククルの足元までやってきてちょこんと座った。


 リオンも気づけば私の肩に乗っていた。

 私もこぼれだした涙を袖で拭う。


 愛着という表現をしたが、その言葉を借りるのであれば、私もククルも、これまであなたにかかわった人たちは、みなあなたに愛着を持っていた。それはあなたが、愛される人ではなく、まず愛を与える人だったからだ。


 私たちが亡くなったあなた前にして、こんなにも泣いてしまうのが、一番の証拠です。

 ククルの肩を抱き寄せると、私の服を掴んだ。ククルは泣き声を噛み殺しながら体を震わせている。


『おまえに剣なんか教えねえよ』


『明日からはもう小僧なんて呼べねえな、ハッハッハ。坊ちゃんって呼んでやろうか?』


『アル様、おまえに教えるこたぁ、もうねえよ』


 どうしてこんなときに。


 再会してからこれまで、こんなこと、一度も思い出さなかったのに。


『強くあれ。新しき領主アルベール・ドラストよ。ワシに剣を教わった以上、戦いで倒れることは許さん』



 私の剣の父。


 屋敷の去り際の表情はよく覚えている。


 今と同じ表情だった。




 厳しくも愛のある男だった。


 ヴェスレイの葬儀をすることにしたが、親族や仲の良かった友人などに心当たりがなく、近所付き合いもしていないようだった。


 葬儀は私とククル、ミロとリオンで行うことにし棺を掘った墓穴に収めた。

 そして、ヴェスレイをゆっくりと運んでそっと横たえる。


「おじいちゃん、笑ってるね」

「はい。あなたの成長が嬉しかったのだと思います」


「アルベールのこともだよ」

「え?」


「おじいちゃん、言ってた。すごいんだ、ってアルベールは。東部に知らない人はいない立派な領主なんだ、って。それが、自分の剣の弟子だから鼻が高いって言ってたよ」


 面と向かって褒められたことが少なく、不意にヴェスレイの言い草や表情が思い出され、また涙がこみ上げてくる。


「……そうですか」


 鼻をすすって、こみ上げてきた悲しみを喉の奥に押しやる。


 静かに棺を閉めて、私とククルで交互に土をかけて埋めた。


 墓標の替わりに、木剣を立てておく。


 天気は、絵に描いたような快晴。においをかいでみても、雨のにおいは私にはわからなかった。




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