第30話終着点



 三人の生活に苦慮する点はなかった。

 家事の一切合切を私が担い、稽古としてククルと一度きり立ち合う。それは、必ずヴェスレイも見学した。


 私の剣に関しても、ククルの剣に関しても、何も言うことなく穏やかな表情で見守った。庭が見渡せるそこは、ヴェスレイの特等席のようになり、見学するときは必ずそこに腰を下ろした。


「おじいちゃん、まだかな」


 木剣で肩を叩くククルが、特等席にやってくるヴェスレイを待っている。

 一度家の中を見て、私はククルと向かい合った。


「今来ますよ」


 のんびりとやってくるヴェスレイの到着を待って、私たちは今日の稽古をはじめた。


「おい、オッドマン」


 ヴェスレイが誰かに話しかけた。

 ん、と私とククルも目をやると、ヴェスレイは私を見ていた。


「先生」

「おじいちゃん、オッドマンって誰?」


「剣の手入れはしておけよ。折れてもそこらじゅうに転がってる死体から盗ればいいってか?」


 低い声でクックと笑うヴェスレイは、屋敷にやってきたころの獰猛な笑顔を浮かべていた。


「おじい、ちゃん……?」


 それきり何も言わなくなったヴェスレイは、胡乱な眼差しで宙を眺めていた。

 ドラスト領にいた頃、畑に出なくなった老人が、こういった状態になることがあった。何かの間違いかと思ったが、はっきりと私を見て誰かの名前を口にした。記憶が混濁しているのだろうか。


「……ククル、はじめましょう」」


 動揺を隠すように私はククルに言った。


「え。でも……」

「やりましょう」

「あ、うん……」


 心配そうに何度かヴェスレイを見やったククル。立ち合いにまるで身が入っておらず、構えた瞬間に私は木剣を弾き飛ばした。


 気がかりなことがあっても目の前の剣に集中しろ、とは言わなかった。その優しさがククルの美徳であることを私は知っている。


「おじいちゃん、終わったから中に入ろう」

「おぉ。そうだな……」


 呼びかけに反応したヴェスレイは、ククルに付き添われて家に入った。


「ねえねえ、オッドマンって誰?」

「んあ? オッドマンは……戦場で死んだ戦友だなぁ。どうして知ってる?」


 ククルの戸惑いが顔に出ていた。


「え……? いや……。ううん……なんでもない」


 ククルは首を力なく振って、ヴェスレイにぎゅっと抱き着いた。


「おじいちゃんも、どこか行っちゃうの?」

「どこって……帰るだけだろうが」


「うん……そうなんだけど……。明日、釣りに行こうよ。僕が舟を漕ぐからさ」

「釣りって気分じゃあねえな」

「じゃあチェス。僕、おじいちゃんに全然勝てないから」


「……犬ガキ」

「僕はククル。……で、何?」

「ワシの剣と釣り竿が、あの家にある。ほしけりゃ使え」

「え、いいの……?」

「ああ」


 ククルは確認するように私に視線を投げかける。私がうなずいてあげると、喜んだように表情がほころんだ。




 翌日、ククルが出かけるのを待ち、私は馬と荷車を借り、隣町の治療院までヴェスレイを連れていった。

 まず言われたのは、大病を患っていること、もう長くないということだった。そして、病により認知機能が著しく低下していると言われた。


 覚悟はしていた。だが面と向かって言われると、なかなかどうして、受け止めきれないものである。

 病は昨日今日のものではなく、もう長く患っているはずだとも言われた。


 ヴェスレイは自分の体の急変を察して、ククルの稽古を私に任せるようにしたのだろう。あの家から出ていけと言ったのも、私たちに面倒をかけまいとするのが真意だったに違いない。


 私はまた荷台にヴェスレイを乗せ、馬をゆっくりと走らせる。

 医者の話をククルにするか迷っていた。

 事実を知ると、あの子は心配し、付きっきりで寄り添うようになるだろう。


 ……ヴェスレイがそれを喜ぶだろうか。

 考えているうちに家に着いてしまった。


 庭でヴェスレイの剣を振っているククルに目撃されて、どこに行っていたのか聞かれると私は思わず誤魔化した。

 もちろん怪訝な顔をされたが。


 ……それから、ヴェスレイは過去に行ってしまうことが多くなった。

 私を過去の友人に間違えることが茶飯事になり、ククルのことも誰かに間違うことが増えた。


「おじいちゃん、どうしちゃったんだろう」

「人間、年を取るとそういうことがあります」


 そういうものだと説明するしかできず、ククルは間違えられるたびに不満げだった。

 どれだけ私とククルを間違えても、今どこにいるのかわかっていなくても……私とククルが稽古する時間帯になると、ゆっくりゆっくり歩いて、必ず特等席までやってきた。


 庭まで来る足取りも日増しに遅くなったが、私たちはヴェスレイが来るまで稽古をはじめなかった。

 ヴェスレイは柔和に微笑んでいるだけで、かつての厳しく苛烈な元傭兵の姿はもうどこになかった。

 庭に出て陽に当たると、かつての人格が溶け出しているかのようだ。


 夜、肩を貸しながらヴェスレイを寝室に連れていく。歩幅もずいぶん狭くなり、家の中を移動するのも一苦労といった様子だった。


「ロクな人生じゃあねえと、思ってたが」


 寝台にそっと寝かせると、ぽつりと口にした。


「はい……?」

「死ぬために戦ってんだ……どうせ死ぬから、心配すんな。……数が数だ。オレぁ、もし生きて帰ったらこの金で……」


 傭兵時代の過去に戻っているのだろう。


「獣や鳥に食われて、人間の成れの果てみたいな姿でよ、土に還るんだぜきっと」


 ヴェスレイが、笑った。

 最近見るような柔和な笑みではなく、私が知っている獰猛な笑顔だった。

 ぱちりと目が開いた。生気のこもった瞳だ。


「小僧」

「はい」


「戦場で、二〇〇人は斬ったな、たぶん。お館様も、なんでワシみたいなやつを騎士として迎えてくれたんだか。ははは……」



 かすれた笑い声に、私は答えた。



「簡単です。傭兵だろうが騎士だろうが老人だろうが、先生、あなたが人に愛される人間だからです」



 聞こえたのか、いないのか、ぼそっとヴェスレイは言う。


「こんな終わり方だなんて、誰も予想しねえよなあ」

「終着点にはまだ早いですよ」


「夢だった」

「はい……?」


「家族を持つことが。だが怖くもあった。いつ死んでもおかしくねえ傭兵だったからな」

「あなたは私の剣の師であり剣の親です。ククルも同じです。怖いことなど何もありませんよ」


「叶ってたわけか」

「私たちをそう呼んでくれるのなら」


「……愛着ってやつは怖いもんだ。気づけば、離れがたくなってやがる」


「愛着を持つほど、あなたは情を注いだ。私に剣を教え、ククルにもそうした。不器用な人ですが、あなたは、そういう人なのです」


 ヴェスレイの目尻に涙が滲み、目をつむると眠ってしまった。



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