第26話師匠が住む南の町


 私はバルコニーまで椅子を引っ張り出し、さわやかな日差しの下、届いた手紙を読んでいた。


 差出人はケインで、東部はもうそんな時期なのか、とかつての領地と近隣地方を思い浮かべる。


 北部ほどではないが、東部は比較的標高の高い山が多く、冬の寒さは厳しく、どっさり雪が積もった。


 冬支度は、薪作りをしたり、森で狩りをして保存食として肉を加工したり、売り物にするため皮をなめしたりする。他にもあるが、私が家人に許されたのはこの三つだった。


 まだ東部を離れてそれほど経っていないのに懐かしさを感じるのは、まったく気候が違う場所にいるからだろう。


 あれから、南下する道を選びいくつかの町や村を経由し、一か月ほどかけて王国南東部にあるブリーという漁村にやってきていた。


 滞在をはじめてもう一週間。のんびり過ごしている。


 雪とは無縁で、ほどよく温暖で雪どころか雨がほとんど降らない過ごしやすい地域だった。

 ブリーで獲れる海産物は、東部では見ない珍しいものばかりで、毎食出てくる食事が楽しみになるほどだ。


 しかし、私が今ブリーにいると、誰がどこでしゃべったのだろう。

 町を行き交う行商人が悪意なく話したのだろうが、それにしてもケインは耳が早い。

 滞在するなら手紙を送ってほしい、とケインに言われていたが、向こうから届くとは驚いた。


 今、寝起きは貸してもらっている一軒家でしている。

 家はなだらかな山の斜面の中腹に建てられており、バルコニーからは立ち並ぶ民家と小さな港が見える。


 絵具で塗りたくったような真っ青な海と空。

 ときどき風が磯の香りを運んでくる。透明な太陽の日差しは柔らかで、このまま眠るのも悪くない。

 小さな庭からは、ククルとミロが遊ぶ声が聞こえた。


 リオンは、背の高い棚の上で静かに眠っている。

 この旅ではじめての長期滞在を考えているくらいには、私はこの漁村が気に入っていた。

 気候が温暖で、それを反映するかのように、町の人も温和で穏やかだ。


 ブリーだけは時間がゆっくり流れていると錯覚してしまうほどだった。

 滞在者が珍しいのか、町の人が私たちに良くしてくれるのだ。見かける度に、食べ物などのお裾分けをいただくおかげで、買い物に行く必要がないくらいだ。


 いただいてばかりでは悪いので、お返しにご用聞きをしている。

 まあ、簡単にいえば雑用だ。

 庭の草抜きをしたり、子守りをしたり、お使いに行ったり、重い荷物を代わりに運んだり。


 いただきもののお礼をしているだけなのに、村の人たちはみんなとても感謝してくれる。

 なんとも気持ちのいい村だった。


「おぉーい、いるかー?」


 声がしたので、私は手紙をしまいバルコニーから外を覗く。ちょうどここからだと、家に通じる坂道が見えるのだ。


 そこには、赤胴色に日焼けした体格のいい老人が、釣り竿を持ったままこちらを見上げていた。

 この家を貸してくれているヴェスレイだった。


「釣れましたか?」


 私の質問にニカッと笑うと、腰にある魚籠をぺんぺん、と叩く。のしのし、と体を揺らしながら階段を上がり、家の正面に回った。

 私が玄関で出迎えようとすると、すでに中に入ってきていたヴェスレイは、釣った魚を魚籠から出して見せてくれる。


 手を目いっぱい広げたくらいの大きさの魚が五匹。


「ベリーフィッシュだ。ここいらじゃ、ベリンって呼ばれている白身魚で、こいつを三枚におろしてムニエルにすると、酒が進むぞ」

「ありがとうございます。……三枚おろしですか。できるでしょうか」

「三枚おろしくらい覚えたほうがいいぞ、アル様」

「また刃物の扱いは、あなたから教わらなければならないらしい」

「懐かしいな」


 カカカ、と軋んだ笑い声を上げるヴェスレイ。

 彼は、ドラスト家の当主が私に代わるのを機に隠居した騎士長だった。


 元は戦場を渡り歩くバリバリの傭兵で、連れてきた養父は騎士としてヴェスレイを迎え入れた。仕事は町の治安維持や屋敷の警備である。

 当時の私からすると、まだまだ現役の怖いオッサンであったが、本人の中ではずいぶん老いた感覚があったという。彼がそのまま私に仕えてくれるのであれば、警備治安のことは任せておける、と思っていた矢先に故郷のこの漁村で隠居生活をはじめた。


 私は元々養父に拾われた孤児で、屋敷で下働きをしていた私に剣を教えた先生でもある。

 庭からは、ククルとミロのきゃっきゃ、と楽しげな声が聞こえてくる。


「犬ガキと犬は、楽しそうでいいなぁ」

「犬ガキって……」


 私は苦笑して、もらった魚を調理場に運ぶ。


 傭兵出身の気質はまだ抜けておらず、相変わらず口が悪い。下働きしていた当初、私も小僧と呼ばれていた。ドラスト家の養子になったことで、ようやくアル様と呼ぶようになったが、それ以外の私に対する態度は昔のままだ。


 調理場で小さなナイフを使ってヴェスレイがベリンを三枚におろしてみせる。ワタをスススと切っ先で引っかけるようにして取り除き、横にしたナイフが滑らかに背骨に沿って進んでいく。


 切っているというよりも、いくつかの部位が合わさったものを外しているだけのような、そんな小気味よさで身が切り分けられていく。


 骨に身がまったくついておらず、眺めていても非常に気持ちいい。


「アル様も、釣りをしてみちゃどうだ? 永遠に楽しめるぞ」

「永遠ですか? それは言い過ぎでしょう」


「やったこともない小僧に何がわかるよ」

「いや、たしかにそうですが。先生、いまだに小僧呼ばわりはご遠慮願いたい。私とて、もう三五です」


 小僧呼ばわりされたので、私も昔の呼び方でヴェスレイを呼んだ。

 カカ、と笑ってヴェスレイは謝る。


「すまんな。つい昔の呼び方をしてしまう。……下働きでしかなかった孤児の小僧が、お館様に見出され養子になり、抜きんでた才覚で跡目を継ぐなんざぁ、滅多に見られない。見抜くお館様もそうだが、アル様はそれ以上の傑物ってこった」


「おだてるのはやめてください。最後は、追い出されるというオチがつくのですから」


 ヴェスレイは、大きな体を揺らして笑う。私は彼に教わりながら、残りのベリンを三枚におろしていった。背骨に身が少し残った。最初はこんなもんだろう、とヴェスレイは合格点をくれた。

 まだ陽が徐々にのぼりはじめた午前中。ヴェスレイは、相当朝早く海に出たようだ。


「ここは、本当にしばらく借りていてもいいのですか?」


 いただきものの茶菓子を出し、大きく開け放たれた窓の外を二人して眺める。


「前に言った通りだ。アル様が気に入ったんなら使ってくれて構わんよ。ワシは、自分の家があるしな」


 この家は、ヴェスレイの親族が管理していた家だったが、その親族が亡くなりしばらく空き家になっていたという。庭にある倉庫には漁具が置いてあった。モリや網、それらを修繕する砥石や針や糸。船を手入れするための松脂なども中にある。住んでいた人は漁師だったのだろう。


「それならよかった。では、しばらく借りさせていただきます」

「ああ。のんびりすればいい」


 ここに来た理由は、ククルが私に稽古をつけろとしつこくせがんだことに端を発する。


『いつになったら教えてくれるのさー』

『私は教えませんよ』

『そんなの聞いてないよ!』

『言ったもないし約束もしてません。言ったでしょう。私についてきても強くなれないと』

『えぇー!?』


 簡単にまとめると、このようなやりとりが日ごとに増えていったので、私はヴェスレイがこの漁村に住んでいるというのを思い出し、進路を南に取ったのである。


「先生、ククルは強くなりたいという目標があって私と旅をしているのです。強くなったら故郷の母親に家を建ててあげるのだと」

「犬ガキが? そいつは殊勝だな」

「なので、あの子に稽古をつけてあげてくれませんか? 私にそうしたように」

「……」


 何か考えているのか、遠くを見つめるその目を見ると、私の記憶にあるヴェスレイよりも目つきがずいぶん穏やかになった。


 当時は、生気が漲っており分厚い岩のような存在感があった。

 稽古は苛烈で厳しく、私はいつも怒声を浴びせられ続け、くじけそうになったことは数えきれない。

 そんなヴェスレイも、屋敷を離れてもう一二年経つ。

 今では、皺もシミも数が増え、分厚かった胸板や広背筋は薄くなり、体全体がしぼんでいるかのように映った。


 あの頃怖かった先生も、こうして老いていくのだと思うと、どこか物寂しくなる。

 何も言わずに黙り込んでいると似せて作った彫像のようだった。気候や風景に同化しているように見えるのは、本人が持つ空気感とこの村の空気が馴染んでいるからだろう。

 ややあって、ヴェスレイは口を開いた。


「……アル様が、教えてやりゃあいい」

「私は、まだ教えられるような腕ではありません」


「それで、ここに寄ったのかい」

「それもあるし、いい場所だと私にいつも言っていたのを思い出したからというのもあります」

「そうだったなぁ」


「お願いできませんか? 一端の剣士に育ててほしいというわけではなく、一通りのことを教えていただければ……」

「ワシなんかよりも、アル様のほうがずっと強い」

「そんな、ご冗談を」


 本心で返すと、ヴェスレイもまた本心で口にしたようだった。


「ククルは、私と一緒にいても強くはなれません。私ができるのは、世間や世界のことを教えてやれる程度です。剣を教えるなんて、そんなことは……」


 弱ったようにヴェスレイは頭をかいた。


「本人がどう思ってるかだわな」


 のっそり、と腰を上げたヴェスレイに私もついていく。庭に面している廊下までやってきて私は窓を開けた。


「ククル。ちょっと話があるのですが、いいですか?」


 ミロと追いかけっこをしていたククルが足を止める。すると、直後にミロが背中に飛びついた。


「わふわふっ」

「うわっ、ミロ、待って。アルベールが、話があるって」


 私は庭に出て興奮するミロを宥める。なかなか覚めないミロは、構ってほしそうに私の太ももに前足をかけて、ピカピカの表情で見つめてくる。仕方ない。お気に入りに骨をポイ、と投げると、足を二、三度空転させて骨に向かってものすごい勢いで走り出した。


「あ、おじいちゃんも来てたの?」

「ああ。釣った魚があったもんでな。あとで食うといい」

「ありがとう!」


 おじいちゃんと呼ばれるヴェスレイは、私からすると違和感しかないが、ククルにとってはしっくりくるのか、初めて会ったときからそう呼んでいた。


「ヴェスレイ先生は、私に剣を教えてくれた師匠なのです」

「え、おじいちゃんが、アルベールに?」


「昔な。もう二〇年以上前か」

「はい。私がククルと同じ年頃のときに。……それで、ククルがいいなら、先生にご指導いただきませんか?」


 ククルは期待に表情を輝かせている。話を持ち出したらどうなるか予想はついたが、思った通りの反応になった。


 私がこの手の提案をするのははじめてだ。


 旅の道中、私に剣が扱えることを知ったククルは、枝を使って何度も私に攻撃を仕掛けてきた。まったく相手にしなかったので不満が爆発するのだが、教えられる技量がないことを、私は枝で斬りかかられる度に説明した。最後の最後、拗ねたように枝で私の脛を打った。


 すごくすごく、痛かった。


「いいけどさ、おじいちゃん、剣使えるの?」

「ククル」


 そんなことを言ったら吹っ飛ばされてしまう。即座にヴェスレイに謝ろうとすると、私の心配を笑い声がかき消した。


「ハッハッハ。ワシはこれでも、元は幾多の戦場を渡り歩いた傭兵で、アル様の屋敷で何年も騎士長を務めておったぞ」

「えええええ!? すげええええええ!?」

「ハッハッハ」


 ……私が知っているヴェスレイは、一体どこに行ってしまったのだろう。

 かつては目つきも悪く、失礼があれば数メートル投げ飛ばされていたというのに、今となっては、好々爺になり失礼を笑い飛ばしている。


「僕、釣りしてるだけのおじいちゃんだと思ってた」

「ここに帰ってきてからはずっとそうだ。間違ってはおらんぞ」

「教えてくれるなら、ぜひ、よろしくお願いします」


 ぺこり、とククルが頭を下げると、ヴェスレイが私に一度視線を投げかけた。私がうなずくと、ヴェスレイはククルの前でしゃがみ、目線の高さを合わせた。


「よいか、犬ガキ」

「犬ガキって。僕はククル。ちゃんと覚えてよね、おじいちゃん」

「ハハ。忘れたわけではない。名を呼んでほしければ、強くなれ」

「……はい」


「剣を覚え、持つということは、いずれ斬られる可能性もあるということだ」

「……」

「それでも、剣の道に進もうと言うのだな?」

「うん。それでも僕は、強くなりたい」


 まっすぐな願いに、私もヴェスレイもククルの目に釘付けだった。

 純粋で若い輝きを持つ瞳からは、揺るがない覚悟が見て取れた。


「アルベールみたいに、スマートに悪いやつを懲らしめられるくらいになりたい」

「それは、ずいぶん鍛錬を積む必要があるぞ」

「やっぱりアルベールってすごいんだ……」


 ククルから尊敬の眼差しが向けられる。私が何か言おうとすると、戻ってきたミロが骨を私の足元に置いた。


「はっはっはっは……」


 じっと私を見つめて「構ってくれ」と圧をかけてくる。また骨を投げると、ミロは大喜びで走っていった。

 和むなぁ。


「では、明日、この時間にまた来よう」


 ヴェスレイは、わしわし、とククルを撫でた。



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