第18話お願いっ、じまずっ……
新居で寝起きするようになったミロを連れて、バンドール家まで散歩をさせていた。
これが最後の散歩だ。
飼い主の家は、今頃大きなハンマーを持った大工たちに壊されているところだろう。
昨日泣いたせいでまだククルは目元を腫らしており、朝から元気がない。気持ちの整理をつけようとしてか口数は少なく、複雑な表情のままミロのリードをしっかり握っていた。
「わふん?」
いつもの道と違うことに気づいたミロだったが、それもまた良しと無邪気に地面を蹴っている。
やがて大きな屋敷が見えるようになると、ククルが圧倒されるように口をぽかんと開けた。
想像を絶するお金持ちというのがこの世にはいるが、バンドール家はククルにとってのまさにそれだろう。
私たちは外門で門兵二人に誰何され、身分を示すように通行証を見せ、用件を伝えた。
前回私は馬車に乗っていたので、二人が私の顔を知らないのも無理はない。
門兵はジロジロと怪しみ、もう一人は確認すると言って馬に乗り屋敷のほうへ駆けていき、しばらくすると、門兵が血相を変えて戻ってきた。
「たっ、大変失礼いたしましたァァッ!」
シュバっと頭を下げると、わけがわからないといった様子の相棒に理由を説明した。
「このお方は、ドラスト家のご当主アルベール様で、カテリナ様と近々ご婚姻なさるお方だ」
おや。今の情報、名前以外全部間違ってますね……。
「たっ、大変失礼いたしましたァァッ!」
もう一人が同じように頭を下げて、私に謝った。
「いえいえ。お構いなく」
失礼というのは、ジロジロ見たり怪しんだことを言っているのだろう。私はもう貴族ではないし、貴族だったとして、犬を散歩させながら徒歩でここまでやってくる人間は、やっぱり怪しんで当然だと思う。
「お嬢様並びに旦那様には、なにとぞ……この件はご内密に……!」
「あなた方の仕事ぶりは、きちんと報告させていただきます」
「ひ、ひぃぃ……!? そ、それは、どっ、どういう……?」
勘違いされたことがすぐにわかり、私は表情を和らげた。
「言葉通りです。『不審者をきちんと止めて身元を確認する優秀な門兵だ』と」
ほっと二人がため息をついた。
私の情報が違うのは、きっとカテリナに確認をとったせいだ。
まったくあの子は。
「名前以外の情報はすべて誤りですからね」
そう言い残して私は外門を通してもらった。中庭にやってくると、ミロの尻尾が大きく振られはじめ、「ワン」とウィニーの鳴き声が聞こえる。
駆けだそうとするミロは、ぐいぐい、とククルを引っ張っていった。
「ちょっと、ミロ、待て、待てってば」
ミロがここが気に入ったのを目の当たりにしてしまうと、晴れやかな表情はできないが、ミロが喜んでいるのもたしかなので、どうしても寂しさは募る。
「私は、ここのご令嬢にご挨拶をしますが、ククルはどうします?」
「……僕も行く」
ミロをぎゅっと抱きしめて、ククルはリードを手放した。それとウィニーが姿を見せるのは同時で、ついこの間会ったばかりだというのに、ミロは数年ぶりの再会かのように猛然と走りはじめた。
「僕、あんなにミロが目いっぱい走ってるの見るのはじめてだよ」
そうですね、と私も同意した。
細まったククルの目を見ていられなくなる。
もう遊ぶことや散歩にいくことはないのだと思うと、胸の奥が詰まったようになり、じんわりと瞳に涙が溜まってしまう。
内門を通ろうとすると、すでに話がついているらしく素通りすることができた。屋敷にやってくると、カテリナの部屋に案内された。
「用件はもう聞いていますか?」
カテリナに尋ねると、小さくうなずいた。
ククルは、中に入ってからずっと不躾に室内をきょろきょろしているので、やめさせるため肩を小突いた。
「ミロちゃんを預けるということは、ここを発つのですね」
「ええ」
目線でこの子は? と訊かれた気がしたので、私は紹介した。
「こっちは、旅の供をしているククルです」
「でっ、です……」
ちら、とカテリナを見て、慌てて目をそらした。
「アルベール様と一緒に旅だなんて、なんてうらやましい……」
「でも、ご飯、ちゃんと食べれない日も、ある……あります。果物しか食べられない日も……」
私に甲斐性がないせいなので、それは本当に申し訳ない。
「カテリナは、さっきのウィニーの飼い主で、私とは旧知の仲なのです」
「そう、なんだ」
ククルは屋敷に緊張しているのか、本調子ではなさそうだった。
窓から庭が見え、ちょうどミロとウィニーが追いかけっこをしているのが見える。
三人でそれを眺めていると、カテリナはくすっと笑った。
「ウィニーもすごく楽しそうで何よりです」
「あの、カテリナさん」
「はい?」
ククルは、ずっとずっと、切り出すタイミングを見計らっていたようだった。
「ミロだけ、差別して、ご飯をあげないとかしませんか?」
カテリナには、ククルの気持ちがわかったのか、心外な質問だっただろうが真摯に答えた。
「しません。ウィニーのお友達にそんな真似、絶対にしません」
「ミロは、ご飯、いっぱい食べられますか?」
「もちろんです。ワンちゃんはあげればあげるほど食べてしまいますので、太らないように管理もいたします」
「ウィニーとケンカしても、ミロだけ怒りませんか?」
「時と場合によります」
「さっ、散歩は、一日に、二回で……っ」
こみあげてくる感情が抑えきれず、ククルは洟をすすった。
「骨を、噛むのが、好きで……」
「はい」
カテリナがハンカチを差し出す。受け取ったはいいが、使っていいかわからず、ククルはぎゅっと握るだけだった。
「ミロは、疲れていると、一歩も動きません。もしかすると、二回しなくても、いいかもしれません」
「大きな庭を駆けまわっていたら、そういう日もあるでしょう」
ククルが、どうにかミロを手放そうとしているのがわかる。
苦渋の決断は、ミロを思えばこそ。
私自身、もちろん寂しいし、ククルの気持ちも痛いほどわかった。
「ミロは楽しく暮らせますか? 幸せになれますか?」
「そうなるように、最善を尽くすことをお約束いたします」
カテリナがかがんで小指を差し出す。
ククルの涙腺が崩壊し、ぶわぁ、と涙を流しはじめた。
指切りすれば、後戻りできない。
それを理解しているからか、手が震えていた。
ククルはわずかな逡巡を見せると手をゆっくり持ち上げて、そっとカテリナの小指に絡めた。
「……ミロを、お願いっ、じまずっ……」
「はい。お任せください」
カテリナが、手に持ったままのハンカチを取るとククルの目元をそっと拭った。
ククルの決断に私も目頭が熱くなった。
視界のすべてがぼやけて、口の中が熱くなる。
二人に見られないように顔を背け、窓の外を窺うフリをした。親指の先で目尻に滲んだ涙をふく。
どうりで私も歳をとるわけだ。
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