第29話 まさか……です

 今日も忙しい。


 ヤスオのプログラミングに勤しむ手は休みを知らない。

 今回のプロジェクトが特別な仕事量を求めてきているわけではない。

 ただ人員の質に少々問題が起きていた。


「あまり根を詰めすぎないでくださいよ。安田さんに倒れられたら、シャレにならないじゃないですか」


 掛けられた声に振り向いたヤスオの目前に珈琲の紙カップが差し出された。ありがとうございます、と椅子ごと身体を振り向けては傍に立つ菜々ななを見上げる。


「そんなオーバーな。自分なんかがいなくたって……役に立ってますかね」

 と、謙遜はするも嬉しさを隠せない四十手前のヤスオであった。


 菜々は自分でも手にした珈琲を一口飲んで、ほおーと息を吐いた。


「安田さんだって、わかっているでしょ。今回、初めて参加した二人。できないならともかくやる気が、ぜんぜんないんだから」

「慣れればやるようになる、と思いたいですよ」

「ならないでしょ。朝から晩まで机に向かったことがないからだなんて、訳わからない。自分語りしたら、納得してくれると思ってるんですかね。迷惑ですよ」


 菜々がつい熱くなってしまう気持ちはわかる。ヤスオは問題の新人二人とやり合っている場面に出くわしている。


「すみません、安田さん。なんかまた愚痴、言いにきました」


 慌てて謝ってくる菜々に、そんなことないですとするヤスオだ。自分が避けてきた人間関係を引き受けさせてしまっている自覚はある。でも今さら代わりに、と出しゃばれるはずもない。ならば求められた仕事で助けるしかないし、話しくらい聞いて当然だ。


「で、でも鮎川あゆかわさんのお話し、おもしろいですよ」

「こっちが勝手に不満を聞かせているだけなのに?」

「こんな自分に話しかけてくるの、鮎川さんくらいしかいませんし……」


 ここで急に黙ったヤスオだ。どうしたんです? とする菜々の当然すぎる反応に対してである。はっとしたような顔をした。


「考えてみれば鮎川さんいなければ、ずっと女性としゃべるなんてこと、なかったんだなって」


 言った直後だ。ヤスオは激しい後悔に苛まれた。なんだか凄く気持ち悪いことを、それも自分語りときている。たった今、菜々が腹立たしいと訴えた同様のことを仕出かしている。なんかバカなことしたー、と内心で叫んだくらいだ。


 ぷっと菜々が噴き出してきた。あははは、と懸命に抑えようとしても止まらない笑いだった。

 なぜ笑いだしかわからないヤスオだが愉快そうで何よりだった。なんか窮地を切り抜けた気分である。自分はなにもしていないが。


 はぁ、と一通り笑いをすませた菜々は一口の珈琲で自らを落ち着かせていた。


「安田さんが私をそういう風に取ってくれていたなんて光栄です」

「ももももしかして、しゃべっているなんておこがましかったですか」


 嫌な汗をかきそうになるヤスオだ。変に調子に乗ってしまったか、と内心びくびくである。

 愉快そうに菜々が、違いますとばかりに顔の前で手を振ってくる。


「私のほうこそ、安田さんに会話として捉えてもらって、ほっとしているんです。だって八つ当たりしに行ってただけだから。イライラをぶつけていただけです」

「そうなんですか、よくわからなかったな。でも自分が役に立っていたようなら、良かったとするところです」

「今だって、そうじゃないですか。前からずっと甘えっ放しだったんだなって。ちょっと気づくのが遅すぎて……」


 言葉尻が消えゆくようであれば、ヤスオはどうしたんだろうとなる。歯切れの悪い菜々など珍しい。

 ところで、と相手が一転して強い口調で切り出されなければ尋ねていただろう。

 やや険しさを眉根に刻んだ菜々が口を開く。


「安田さん。未亜さんの調子は、だいぶ良くなりました?」

「あ、はい。今日から仕事にバイトまで復帰するそうです。いきなりフル回転は心配なんですけど、本人は身体がなまっているから、これくらいがちょうどいいそうです」


 パンをかじって出ていくような今朝の未亜だった。傍から眺める分には完全復活に見えなくもない。その姿が頭に甦れば、可笑しさを覚えるヤスオだ。現に思い出し笑いを軽くだがしてしまっていた。


 そうですか、と菜々の返しがなければ笑い続けていた。きっと気味が悪い顔をしていたに違いない。思わず身震いしたヤスオは表情を引き締めた。

 んんっとなにやら菜々が喉を整えている。


「安田さんは未亜さんのお仕事について知ってます?」

「ガールズバーで頑張っているのですよね」

「いえ、夜のバイトではなくて、昼間の仕事のほうです」


 即答は出来ずのヤスオだ。

 そう言えば、夜のガールズバーばかりに意識が向いていて、昼間の通常勤務には注意を向けた試しがない。でも本人の口からさり気なく聞かされてはいる。


「……あ、そうそう。不動産屋の事務をしていると言ってた気がします」

「その様子だと、あまりそっちのほうの話しはしていないみたいですね」


 はい、としかヤスオには返事のしようがない。菜々が難しい顔をしているから、どういった反応をしていいか。そうですね、と取り敢えず肯定の一言を返してみた。


「失礼ですけど、安田さんの家はそれなりの資産価値がありますよね」


 菜々の丁寧な言い回しは言い辛い気持ちの裏返しかもしれない。


 ぼんやりが基本のヤスオではある。だが、この話題にはすぐに何が言いたいか、推察できた。

 ぼろい家だ。建物自体にはそれほど価値はない。

 しかし土地は魅力的である。

 祖父母がいなくなって、身内からでさえ金銭に替えるよう勧められたくらいだ。

 況してや不動産関係者が放っておくはずもない。

 大手のデベロッパーから接触を計られたことさえある。

 最近は落ち着いたが、狙われなくなったわけではない。


 未亜が勤めている先は、不動産屋だ。


 まさか! とさせる話しであった。

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