第7話 なにかは……ある

 オフィスの片隅に陣取るヤスオの元へやってきた。


「安田さん、メールで頼んでおいたあれ、いつくらいまでに終わります?」


 丸メガネの女子社員の声は少し不機嫌だ。

 ビクッと肩を震わせたヤスオは、半瞬の間を置いた後だった。


「ごごご、ごめん。急ぐよ」

「私は仕上げのはっきりした日時を訊いているんです。別に急ぎではないんで。急ぎなら安田さんなんかに頼みませんよ」


 きつい物言いをしてくる相手の名は、鮎川菜々あゆかわ なな。いちおう同僚である。

 そういえば、とヤスオは今さらながら彼女っていくつなんだろう、と考える。未亜より上とは思えないが老けて見える。なかなか失礼なことへ頭を巡らすようになったのも、同居の効果に違いない。なにせ先日までは女子社員に意識さえ向けないよう心がけていた。


「で、いつなんですか」


 不機嫌に問い質されて、ようやくヤスオは明日までとする期日を伝えた。

 お願いします、と相手は言い残して去っていく。ほっと一息を吐いた。こんな些細なやり取りだけでもヤスオには荷が重い。


 だけど変化はあった。


 今までなら、慌てて今日中に終わらせるとしたはずだ。ともかく相手の意向に添おうと引き受けた。現在はあまり残業はしたくない。夕飯の仕込みをちゃんとしたかった。

 そのためにも頼まれたプログラミング業務はしっかりこなしたい。


 さっそくヤスオは机上のパソコンへ向かった。

 今晩の具材は何にしようか。帰り道で立ち寄る買い物に思いを巡らせながら、仕事へ取り組む。


 夜が遅い未亜みあは。いったいどんな仕事をして深夜を回るのか。でも謎は不明のままで構わない。ともかくきちんと食べてもらいたかった。

 満足に食事が摂れなくなった祖父母の姿は忘れられない。

 もうあの家で、食が細った姿は見たくない。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

  

 居候となった、その夜からだった。


 未亜はこれからバイトへ行くと言う。

 どんな仕事か、ヤスオが流れのままに訊く。

 呑み屋、と端的な一言で返答がなされた。ならばと合鍵を渡す。気をつけてください、と送りだす。


 驚いたのは翌朝だ。下の台所で目玉焼きやソーセージとするオーソドックスな朝食を作っていた。余計かな、と一旦は躊躇したものの、迷惑にはならないだろうと未亜の分まで作っていたところだ。

 バタバタと勢いよく階段を駆け降りてくる音がする。


 おはよ、とビジネススーツの未亜が現れた。


 昨晩はかなり遅かったはずだ。なにせ夜中を回ったくらいに就寝するヤスオが未亜の帰宅に気づかなかったくらいである。午前様は間違いないのに、朝が早いときた。

 などと思い至ったのは出勤してからしばらくしてからだ。

 その時は姿を見せるだけで空気が華やぐ未亜が眩しい。女性というだけで気圧されるヤスオである。「あ、うん……」とろくな挨拶さえ返せない。


「わぁ、やっちゃん。もしかして用意してくれてたの」


 炬燵テーブルの上に並べてある二人前だ。


「あ、うん……パンでいい……ですか?」

「もう、ぜんぜん。あれから何も食べいないから、おなかぺこぺこ」


 ラップせずにすんだ手間をトーストの焼くほうへ回せた。昨日はヤスオに合わせて早めの夕食だったから、食事の間が空いてしまっている。申し訳なかったな、と思いつつ卓袱台に置いた。


 畳に敷いた座布団へ正座した未亜が箸を持ったまま両手を合わせる。いただきます、とお行儀の良さはそこまでだ。それからはまさしくガツガツといった感じでかき込んでいる。トーストなど齧りつくといった具合だ。



 なんて男らしい、と眺めるヤスオであった。

 トーストを齧っている途中で未亜は対座にいる視線に気づいたらしい。慌てて口を離しては、恥ずかしそうに頬を赤らめる。


「なんか、はしたないね。わたし」

「別に、レオンらしいと思いますよ」


 ゲームに関すれば当たり前のように口が開けるヤスオだ。


「ごはんまで用意してもらちゃって。賄い代は出すからね」

「いいですよ、当分は。だってお金に困って、うちに転がりこんできたのはわかっているんですよ」


 ディフェンダーのヤスことヤスオが言い出したことだ。トラブルが生じ多額な金銭を必要とするためゲームどころではなくなりそうだ、とするレオンを引き止めるために提案した。チームYMN=やみんで、まだまだ冒険したい。以前ほど頻繁でなくてもいい、ともかく存続させたい一心だった。


 で、でも悪いよ……、と未亜の箸を持つ手が鈍っている。


「別に食事分くらい増えても問題じゃないし、久々に自分以外の分を作るのも気分が悪いもんじゃないですよ」


 ここへ住み出し数えれば二十年以上は経つが。祖母が倒れてここへ住むようになってからヤスオは食事の大抵を賄ってきた。祖母に続いて祖父が逝くまで、ずっと続けてきた。

 たかがソーセージに目玉焼きと料理なんて言えない。それでも本当に久々の、家で誰かに食事を用意した。人見知りのくせに、他人に喜んで食べてもらいたいとする切望はあったようだ。なんだか気持ちが弾んでいる。


 ごめん、と未亜が下げた頭の上で両手を合わせていた。


「やっちゃんに受けたこの御恩は、いつか必ずお返しします。だから今はお許しを〜」

「無理しなくていいですよ。暇な時に、一緒に冒険してくれれば充分ですかね」


 惚けた未亜の口振りに、ヤスオもまた軽口で返す。やっと口許を緩ませられた。


 ありがと、と未亜は言えばまた猛然と咀嚼を開始する。ふと壁掛け時計が目に入れば「やば、遅刻しちゃう」と最後の一口は呑み込んでお腹へ入れていた。

 やっぱり我がチームの猪突猛進なアタッカー、レオンなんだな、としみじみするヤスオであった。


 洗い物……、と未亜が気にしている。


「水につけておくだけですいいよ。こっちももう出るし。それより今晩も遅いんですか?」


 うん、と返事があった。


 今晩も帰りは深夜を回るのだろうか。大変そうだな、とヤスオは内心で呟く。だがまだこの時点では軽かった。


 毎晩となれば、心配の仕方も深刻になっていく。

 三日くらい過ぎた晩に二階の自室からこっそり覗いた。部屋の灯りを消したまま窓の隙間から未亜を見た。

 毎朝のビジネススーツではなく、派手な服装をしている。ふらつく足下は酔っ払っているに違いない。


 何かがヤスオに伏せられているようだった。

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