第32話 左利きの男

「おっちゃーん!」


 かつての維新志士ぶって生意気を言う悠馬でも、やはりただの子供。剣の男のただならぬ雰囲気に泣き出してしまった。

 どうする、中村。


 あちらの厳つい侍姿の男も危険人物だが、突進してくる目つきの鋭い男の方が、もっとヤバい。現に刀を向けているのだ。ヤバくないわけがない。


 自分が逃げ出したい。たが、悠馬を置いて逃げるわけにはいかない。ただでさえ親に内緒でYouTubeに出しているのだ。これで殺されてしまったら、どんな言い訳も通じない。だけど、逃げたいのが本音。更に言えば、足がすくんで動けない。

 目つきの鋭い男は、左手で刀を構えている。左利きのようだ。

 男の足は早く、どんどん悠馬に近づいていく。考えている暇はない。


「うわーっ!」


 とりあえず叫びながら、自撮り棒を前に突き出して、中村は目つきの鋭い男の方は走り出した。武器の代わりになるものは、この自撮り棒しかない。

 左利きの男は進行方向を、悠馬から中村の方へ切り替えた。男は無言で向かってくる。男は体を低く構え、胸に当たりそうなほど足をあげ、左右の足を素早く繰り出す。足音が微かにしか聞こえない。まるで宙に浮いているようだ。

 細い目に、尖った鼻と顎。後ろに撫で付けている頭髪。細い体に長い腕が、風の抵抗を切り裂いて向かってくる。


 一方中村は、震える足でがむしゃらに走るが、足に力が入っていないので左右にヨロヨロとしている。逃げたい気持ちが大きいので、うまく足が上がらない。摺り足になってしまう。

 左利きの男の足は速い。中村との間は既に3〜4メートル。

 切先はもう目と鼻の先だ。擦っている足が、何もないところでつまずいてしまった。中村は転んで顎の皮を擦りむいた。自撮り棒を落としそうになり、慌ててグリップを握ると延長ボタンを押してしまった。

 自撮り棒が、にょいっ、と伸びた。


「なにっ!」


 中村が転んだせいで、体勢を低くしていた左利きの男の視界から消えた。次の瞬間、伸びた自撮り棒が目つきの鋭い男の手の甲に当たった。


「痛っ!」


 今度は左利きの男の方がバランスを崩し、刀を落としそうになった。右手を着き、体を半回転させ態勢を持ち直す。男は地面を蹴り、体の向きを切り替え、左から刀を振り下ろした。


「うへっ!」


 中村は変な声をあげ、反射的に自撮り棒の両脇を握った。仰向けになった中村は、バーベルをあげるような態勢で真一文字に突き出し、左利きの男の刀を防ぐことができた。

 ネットで買った物だがパッケージの説明書には、ドイツかどこかの軍で使用されている特別な金属らしい。斬り落とされることは防げたが、真ん中当たりが曲がってしまった。その丈夫さに命を救われた。

 左利きの男は一瞬動揺したが、すかさず二の矢を放ってくる。振り上げた刀を逆手にし、ガラ空きの胴めがけて右から振り払った。

 中村は体をくの字にして避けようとしたが、刀は腰に食い込んだ。中村は悲鳴をあげた。だが、刀が食い込んだのは腰に付けていたウエストポーチ。その中には、バッテリーやらなにやら機材を押し込んでいたので助かった。


「くそっ!」


 自撮り棒で抉られた左手の甲が痛むようだ。痺れていて、剣さばきが思うようにいかない。左利きの男は、予測できない中村の動きに戸惑った。中村が攻撃に転じないことも訝しんだ。


「ナメてるのか。来い、半次郎!」


「へ?」


 中村は、変な渾名をつけられたと思って、間抜けな声を出した。命が危険に晒されているのに緊張感のない名前で呼ばれて、力が抜けてしまった。


「噂に聞くとやらを、俺に見せてみろ」


 上半身を起こし立とうとするが、腰から砕けてしまっている。前に足を放り出した状態で、立ち上がることができない。


「つまらん。本気を出させてやる」


 左利きの男は、視線を中村から外した。鼻を啜る音が聞こえる。男の視線は、悠馬に向けられた。

 男は刃先を確認した。中央に刃こぼれが見える。切先は無傷だ。

 また、平突きの構え。またもや切先が悠馬に向けられる。男が走り出した。


「ちょっ、ちょっ、待って!!」


 悠馬は自分めがけて突進してくる男を見て、まん丸く目を見開いた。声が掠れて、悲鳴すらあげられない。

 中村は奥歯を噛み締め、膝を立てた。膝が笑って、うまく力が入らない。

 もう、間に合わない。






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