第26話 撥雲館
道路を渡り少し西へ歩くと、古びた木造の家屋があった。さっきの少女が言っていた道場だ。ご丁寧にこちらにもパネルがあった。『天然理心流道場
「近藤先生、これ」
後から追ってきた近藤に、斉藤はパネルを示した。
「たしかに
斉藤は腕を組み、右手を顎に添えてパネルを熟読し始めた。そして、あー、とか、ふぅーん、とか独りごちた。
「なんだ。なんと書いてあるんだ?知らぬ単語が出てきて、よう意味がわからん」
近藤は少々イラついていた。
「これ、5代目が道場にしたそうですよ」
「5代目?じゃあ周平が建てたのか?」
周平とは、
「あいつ、いつのまに道場なんて開いたんじゃ」
近藤は首を傾げた。京で行動をともにし、1人で江戸に返した覚えはない。その養子が建てた道場というのが辻褄が合わないのだ。
「いやいや、周平さんじゃないです。近藤先生のお兄さんの次男が5代目を継いだそうですよ。長兄の子と書いてあります」
「長兄?音五郎兄さんか」
「そう書いてありますね。娘さんと結婚して後を継いだそうです」
「たまか?!」
近藤は驚きを隠せないで素っ頓狂な声をあげた。
近藤の一人娘たまは、感動の死後結婚したのだから、近藤が知る由もない。
「兄さんの息子と結婚したなら、宮川家じゃないか」
「なんか、この勇五郎という人は婿養子になって継いだらしいですよ」
「わけがわからん。たまはわたしに黙って宮川家に嫁いだというのか。音五郎兄さんも、なぜ連絡をよこさん!」
近藤の肩がガクガク震えだした。
「近藤先生?」
斉藤は近藤の姿を見て不安が蘇った。
この状況になって斉藤の方からは触れなかったが、彼らは直前まで
山南の切腹の義を目の前にし、そこにいた隊士のほとんどが訳のわからぬ体の不調をきたした。その時、近藤の体は石のように硬直しガタガタと震えたのだ。また同じことが起こる、と斉藤は不安になったのだ。
ゴリゴリゴリッ。
アスファルトを擦る草鞋の音ではない。石が砕かれるような音。バリバリバリッ、ギリギリギリッ。
斉藤は恐る恐る近藤の顔を覗いた。近藤は下顎を左右に揺らし、顔を真っ赤にしていた。
「でぃやあー、えぇぇぇぇぇぇぇぇい!!」
斉藤のサラサラした前髪が浮いた。
見えなかった。
近藤が刀を抜いたのだ。
どさっ、と目の前の標柱が倒れた。
標柱には『雲館』という文字が残っている。『撥』の文字の上から、虎徹に斬り落とされたのだ。切り口は綺麗な平で、それを見た斉藤の口角が上がった。
「流石ですね」
近藤の剣の腕に、今更ながら恐れ慄く。
隊士皆が
斉藤は京で新選組と落ち合う以前、試衛館に出入りしていた。
試衛館には天才剣士と謳われた
その中で剣の腕を比べ、近藤が最強だとは言い難かった。
だが、試衛館の頃、斉藤が道場で竹刀を交えた時、居合だけで足が
土方と比較し、温和な性格の近藤だから皆が慕っているのではない。剣を構えた近藤の殺気は桁外れだったのだ。
斉藤はそれを京で落ち合った時に再確認し、近藤についていくことを決めたのだ。
そして今、改めてそれを再々確認したのだ。
ただ、その確認したきっかけが娘のたまに激怒している姿というのが、どこか気の抜けた話である。
やや時間が経ち、少し冷静さを取り戻してくると、今度は極端に落ち込む姿を見せた。
「幕府のためにと家族を
角張った大きな背中に『しょんぼり』と文字が浮かび上がるほど丸めた近藤の背中。言葉では家族と言っているが、その家族という言葉の中には新撰組の隊士、特に試衛館からの古い隊士たちも含まれているのだろう。今、近藤の脳裏には、きっと切腹をする山南の姿が浮かんでいるのだろう。
幕府のために、徳川のためにと
近藤たちと対立していた彼らに関しては、新選組や会津藩を守るためという大義名分があった。でも山南は違う。旧知の仲間をも、この手にかけようとしていたのだ。
それらは本当に幕府のためだったのだろうか。彼らの望む未来に必要なことだったのか。彼らはその手で何を守ってきたのか。
大義名分や権力など、時代の流れに弄ばれていただけではないだろうか。
近藤は虎徹を鞘に納めた。そして掌を開いて、眺めた。
指の付け根の剣だこ。太い指、皮の厚くなりやや黄ばんだ掌。彼の手は、すでに汚れている。それを幕府のためだと理由つけると、彼の思考は堂々巡りを始める。
どこで間違えたのか。なにが悪かったのか。誰のせいにもできず、答えは見つからない。
もう、疲れた。
「わたしが悪かったんだ」
近藤はもう1度呟いた。
斉藤には、その背がとてつもなく小さく見えた。
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