第15話 ススム
明美が務めるクラブは、『Club Grace』。優雅さや美しさを意味する言葉で、クラブやスナックでよく使われる名前だ。
直訳すると『恵み』という意味もあり、オーナーの名前が
恵は多くの不動産を有し家賃収入だけで充分なのだが、飲食業界やアパレル業界、ヘアサロン、フィットネスなど色んな業界に手を出していた。
恵は
そんな
そんな店の利益など明美には関係なかった。半年くらい前に辞めようとしたところ、オーナーに呼び出され引き止められてしまった。オーナーからしてみれば岩倉のお気に入りを辞めさせるわけにはいかないのだ。破格の時給を提示されて渋々留まることにしたが、べつに金に釣られたわけではない。断ることが面倒だった。
全てのことにやる気がしない。こんなに簡単に収入を得られるのなら、大学を卒業することに意味はあるのか。そう考えると大学へ通うことが面倒になった。
「唯香さん。3番テーブルにいつもの方です」
フリー客のテーブルについていると店のボーイのススムに呼ばれた。
「えー、行っちゃうの?」
20代半ばくらいの2人組の客が、寂しげな顔を作ってみせた。歌舞伎町の中では高級部類の店だが、銀座より敷居が低い分客層が若い。中途半端に金を持った人間が集まる。
「次は指名してくださいね。また今度」
「絶対指名するよ」
社交辞令を社交辞令で返される。歌舞伎町は店も客も入れ替わりが激しい。一時の遊び場としてドライだ。だが、時に岩倉のようにしつこい客も多いのも事実。
ボーイのススムが言っていたいつもの方とは、常連客の武田。チャージ料と指名料のみで、たまに延長するくらいのケチな男。酒が飲めないので烏龍茶しか頼まない。明美に会いたい一心で何度も来るので単価の低く、利益効率が悪い。そして武田は話も上手ではないので、明美にとっては苦行以外のなにものでもない。たまにキャバ嬢を辞めて自分と一緒にならないか、と真剣に口説いてくる。それが1番面倒臭い。
「唯香さん、大丈夫ですか?」
フリーのテーブルを抜け、武田のいるテーブルへ向かっていると、ボーイのススムが小声で心配そうに声をかけてきた。最近武田が出待ちしていたり、下戸なので車で来店するため家まで送って行こうとする。武田が若干ストーカーの気質があることを、ススムは心配しているのだ。
ススムは、サラサラしたマッシュルームカットの金髪、背が高いが細身でヒョロっとした体格。声が小さくて頼りない。この店を続けられるのも、ススムがいつも明美のことを気にかけてくれているからだ。
いつもミーティングだことの店の打ち上げだことの適当な嘘の理由で断っている。ちゃんと断れば諦めるため、大きい被害にはならず出禁にすることもできない。せいぜい店では従業員ルームの手前にある1番隅の小さいテーブルに案内するくらいの嫌がらせをする程度しか対応できない。
しかし武田にとっては、狭いテーブルのせいで明美との距離が近く、むしろ喜んでいるくらいだ。
「大丈夫よ、ススムくん。いつものように適当にやっとくから」
明美は武田が居着くせいで、周りのラウンジ嬢とも関係がうまくいっていない。他のラウンジ嬢が移動する明美を蔑んだ目で見ている。岩倉、チーフ、武田、そして他のラウンジ嬢、みんなワタシの前から消えてほしい。彼女はその気持ちの上に、べたりと薄っぺらい笑みを被せて誤魔化している。
「お待たせしました」
武田は背が小さく少し小太りの中年男。眉毛が太く、毛深いので髭を剃っているのに口周りが青い。まだそんな暑い季節ではないのに赤ら顔で額に汗をかいている。ススムから手渡されたおしぼりを差し出すと、嬉しそうに顔を拭いた。
「そ、そ、そんなに待ってないよ。ち、違う。メチャクチャ会いたかったです」
テーブルも小さければソファも狭いので、隣に座ると体が密着してしまう。明美は上半身を少し斜めにし、少しでも離れようとしている。
「ゆ、ゆ、唯香ちゃんは、あ、会いたかった?」
運ばれてきたアイスペールから氷をトングで取り出しグラスに入れる。酒も入れず烏龍茶だけをマドラーでかき混ぜている姿は滑稽だ。ゆっくり時間をかけて混ぜる。明美はなるべく会話を減らしたかった。
「どうかな?」
おしぼりでグラスの結露を拭いて渡した。会いたかった、と社交辞令でも言いたくなかった。それでも仕事は仕事。曖昧に含むように見える笑顔を作った。武田はそれを肯定と受け取り、満足げに烏龍茶を受け取る。
「ゆ、ゆ、唯香ちゃんも飲む?あ、あ、お酒を頼んでもいいよ」
武田が金がないのは知っている。支払いの時、いつもボロボロのバックに入っている封筒からお金を出すのだ。いつかの会話で、仕事の話になったが、なんの職業か忘れた。べつに興味のないことだ。
「あんまりお酒強くないから、武田さんが来てくれると少し休めるから、いいよ」
そんな言葉で武田は喜ぶ。武田は
金を落とさせるためには、明美が高いお酒をガンガンオーダーすればいいのだが、酔って「気持ち悪ぃーんだよ」なんて暴言を吐いてしまうわけにはいかない。明美は武田のことを休憩時間だと思うことにした。
「きょ、きょ、今日はミーティングじゃないよね?」
また車で送ると誘いたいのだ。
「あ、ごめん。今日もミーティング」
「前は金曜日がミーティングって言ってたよ」
武田にしては珍しく反論してきた。明美は少しムカついた。
「そうだっけ?そうだ、いつも金曜日にミーティングするのは土日に備えてだけど、明日祝日でしょ。そういう時は、その前の日にやるの」
武田は太い眉と眉を近づけて
バンッ!
従業員ルームから音がした。
「お前、ちゃんと整備の依頼しろって言っただろ!」
「すみません」
怒鳴っているのはチーフで、謝っているのはススム。他のテーブルは背凭れが高く周りの音が聞こえない作りになっているが、隅のテーブルには従業員ルームの声は筒抜けなのだ。
「5番テーブルのシャンデリア傾いてんだろ。あれ、営業中に落ちてきたら、どうすんだよ!」
「業者さんも祝日でやってないんですよ。知り合いの内装屋に頼んだら、今日の閉店後だったら来てくれるって言うんで」
明美は気まずそうに武田を見た。祝日は今日だったのか。昼間に出歩かないせいで、曜日感覚がなくなっていた。武田は俯きながら、ボソボソと喋り始めた。
「なんで嘘言うの。嘘言わされてるの。誰が、僕らを引き離そうとしてるの」
いつも
「誰だ!僕らの邪魔をするのは!」
まあこの手の店はこんなことは慣れっ子だ。咄嗟に2人のボーイが両脇から武田を担いで退店させた。
最初は客たちも驚いていたが、ボーイが「どうやら烏龍茶で酔っ払ってしまったようです」と軽口を叩くとラウンジには笑いが起こり、すぐに和やかなムードに戻った。
明美はスマホの待受画面で時間を確認した。22:46。そろそろ岩倉が来る頃だ。ススムも時間を気にして、そろそろ準備をしてほしいと申し訳なさそうに言った。
ホント、嫌になる。みんないなくなればいいのに。まともなのはススムくんぐらいだ。
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