第10話 試衛館跡(1)

 3人は433号を東方面へ、ひた走る。都営大江戸線牛込柳町付近のサイゼリヤを越え、交差点に差し掛かった。午前2時過ぎとなると、車通りは少ない。そこへ1台のタクシーが東側から向かってきた。左折してきたタクシーが、彼らの目の前を横切った。


「うわっ、なんじゃ。あの獣は?」


 自動車なんか見たことがない井上たちにとって、あれが人を乗せて走るものだとは想像がつかない。動いているというだけで、見たこともない生き物だと判断するしかない。

 車だけではなく、ビル、信号、電線、サイゼリヤから漏れるあかりなど、見たことない物だらけだ。

 走りながらもキョロキョロと忙しなく辺りを見回して、いちいち驚いていた。「あれは、なんじゃ!」と聞かれても、頭から羽織を被された河上には、彼らが何を指して聞いているのかわからないから答えようがない。

 それよりも島田が歩を進めるのに合わせて、河上の体は島田の肩の上でバウンドする。そのたび島田の鍛えられた硬い僧帽筋と三角筋が、河上の腹にめり込む。連続にボクサーからボディを喰らっているようなもんだ。降ろしてくれと頼みたいが、声が出ない。


 追いかけてくる警備員との距離が少しずつ縮まっている。井上たちはアスファルトの上を草鞋わらじで走っているのだ。走るたび、踵を強打され、痛くて速度が落ちてきている。


「こっちじゃ」


 先に走る井上が角を右に曲がった。島田も続く。

 東京シティ信用金庫が見えるとすぐに脇道に逸れた。マンションの隙間に身を潜める。


 しばらくすると複数の足音が近づいて、通り過ぎていった。いないぞ、あっちを探せ、と怒号が聞こえた。3人は息をひそめた。


 足音が遠ざかった。


「あのー、もう降ろしてもらっていいですか」


 河上は頃合いかと思い、なるべく小さな声で言った。


「ああ、すまぬ」


 必死で逃げてきた島田は、河上を肩に乗せていることを忘れていた。左手で河上の胴を支え、肩をそっと傾け、彼を降ろした。

 島田の羽織がはらりと落ちて視界が開けた。

 はじめに河上の目に映ったのは、怪我をした島田の姿。額、頬、裸になった肩や腕の切り傷から血が流れている。

 河上が怪我をしないよう島田が羽織をかけてくれたことを、その時初めて気づいた。


「あのー、すみません。血が出てます」


 島田はチラッと傷口を見て、「こんなもん、かすり傷じゃ」と平然としていた。


「お主は、平気か?」


 島田は河上の体の方々を確認し、心配そうな目を向けている。


「大丈夫です。ありがとうございます」


 暗がりで河上には見えにくかったが、壁に凭れて立っている井上も同じような顔をしていた。しゃがんでいる河上は、井上の草鞋を見た。足には血が滲んでいた。

 自分は巻き込まれた被害者なのに、なんだか申し訳ない気になっていた。


 路地から物音が聞こえ、3人はまた体を縮めた。酔っ払いが千鳥足で歩いていた。しゃがんだまま奥へ進み、ブロック塀をよじ登り、さらに奥へと進んだ。

 ビルの裏側は、民家やビル、小さな事務所などで入り組んでいた。建物と建物の隙間に砂利が敷かれたスペースがあった。ここは外の路地からは見えない。井上たちは砂利の上に腰を降ろした。


「なんじゃ、ここは?」


「あの高い壁みたいなものは、なんですかね?」


「なんじゃ、わからん。それに地面が硬くて、足が痛くてならん」


「平らな岩のようでしたね」


「途中、夜中だというのにえらい明るいところがあったな。ありゃあ、行灯あんどんの明かりじゃねえぞ」


「あれは、西洋のというものですか?」


「それじゃあ、ここは日本じゃねえのか」


 2人が頓珍漢とんちんかんな話をしているので、河上は笑うのを堪えきれなかった。


「なにがおかしい!」


「あ、すみません」


 言葉では謝っても笑ってしまう。

 井上も島田も逃げるのに必死だったが、見たこともないものが並んでいるのだ。頭の中でどう処理していいのかわからず、こうやって2人で吐き出すしかない。

 それを河上から見れば、大の大人が新選組のコスプレをして、その設定に徹しているようにしか見えない。まだ言うか、と呆れてしまう。


「まさか、本当に江戸時代からタイムスリップしてきたとか言うんじゃないですよね」


 河上の言葉に、井上と島田はポカンとした顔を上げた。それもそのはず、タイムスリップという言葉自体知らないのだ。それに『江戸時代』とは明治以降、徳川が納めていた時代のことを『江戸時代』と呼ぶようになったのだ。その時代に生きてきた当の本人たちは、何を言われているかさっぱりわからない。

 河上はわざと言う江戸時代の人が知らない単語を使うことで、彼らの嘘に綻びが出るのではないかと思ったのだ。


「え?あのー、マジっすか?」


 河上の顔から笑いが消えた。彼らが本物の新選組だと信じたわけではない。だが本当に知らないといった様子。そこまで徹底して新選組になりきっているのを、かなり頭のイカレた連中ではないか、と気味が悪くなったのだ。


「あのー.......ちなみに、今は令和ですけど」


 恐る恐る確認する。頭のイカレた連中のかんに触ることを言って、また日本刀を振り回されたら敵わない。


 ふと島田が後ろを振り向き、何かに気が付いた。


「こ、これは......」


「なんだ」と井上も振り向いた。彼らの後ろには、レンガ壁の建物がある。隣には小さいやしろがあり、記念碑のようなものが建っていた。


「源さん......これ、近藤さんの名前が書いてあります。あ、土方さんと沖田さんの名前も」


 そこには『幕末に新選組局長として知られる近藤勇の道場「試衛館」は、市ヶ谷甲良屋敷内(現市ヶ谷柳町二五番地)のこのあたりにありました。この道場で、後に新撰組の主力となる土方歳三、沖田総司などが剣術の腕をみがいていました。』と刻印されていた。その上には大きく『「試衛館」跡』と記されていた。

 新宿区の住宅街の片隅に、ひっそりと建てられた標柱。現在はこの標柱と、近くにあった正一位稲荷神社だけが残っている。通称『試衛館稲荷しえいかんいなり』は老朽化のため囲いで覆われ、外から見ることしかできない。350年前からあると伝わり、天然理心流道場の門人もんじんであった井上源三郎も当時ここを参拝に訪れていた。江戸で坪内主馬つぼうちしゅめ道場で永倉新八と知り合い、京都から参加した島田魁も試衛館の存在は知っていた。


「この稲荷は......。とはなんじゃ」


「なんか、今は無いみたいですね」


 井上と島田は、その標柱と稲荷神社跡を見て感傷に浸っていた。まだ、ここが未来だと把握できていない2人にとって、江戸を離れ京都を拠点にしたことによって、空家になってしまった道場が潰されてしまったくらいにしか思えない。


 河上はこの2人の様子を見て、まさか本当にタイムスリップしてきたのではないか、と思い始めてきた。


「あのー、今、西暦何年かわかります?」


「せいれき?なんじゃそれは」


「あー、じゃあ元号っていうんですかね。年月日みたいなのは......」


 2人は首を傾げた。江戸時代の人は、あまり元号を意識していない。干支で年齢を確かめることくらいしかしていなかったから、元号を知らない人間の方が多かった。


「たしか元治2年か3年ではなかったかな。近藤先生が文書を書いておるとき、そんな元号を書いていた気がする。それの2月23日じゃ」


 今は3月20日だ。元号どころか、日付までズレている。河上は、そこが少し引っかかった。午前0時を跨いでしまったので、厳密には3月21日。

 日付のズレはともかく、元号が全然違うことを伝えなければならない。


「今、令和ですよ」


?知らぬ間にみかどが代わったというのか」










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