第7話 達人と怪力男

「な、なんと!」


 髭の男は、怯んだ。この状況において掴み掛かってくるとは思ってもいなかっただろう、簡単に間合いを詰められてしまった。相当肝の据わった男だと勘違いしたのか、自分の詰めの甘さを悔いているのか、ぬぬぬっ、と唸った。これでは、刀を振れない。


「飯、食いに行きましょう!」


 その言葉に唖然とする髭の男。

 掴まれた衿に彼の全体重が乗っている。これでは動けない。それもそのはず、躓いた河上の足は後方に投げ出された状態で、衿を引っ張るというよりは、髭の男にぶら下がっている状態。髭の男が動こうとしてもがへば踠くほど、衿が引っ張られ首が締めつけられていく。刀を持つ右手がに曲がっている。そこへ河上がしがみついているものだから、右手を動かさない。

 髭の男は首の動脈が締め付けられ、意識が遠のいていく。これでは酸欠になってしまう。ありったけの力を使って体を左右に振った。河上の体がストンと落ちた。髭の男の着流しがはだけて、髭の男の左肩があらわになった。

 河上と髭の男の体に少し隙間ができた。髭の男はそこへ右膝を捻じ込み、ぬえいっ、と膝を伸ばした。河上の手が髭の男の衿から離れ、蹴り飛ばされた。尻から落ちて、後ろでんぐり返りの状態で転がった。


「お主、薩摩さつまの者だな!」


 そう言われた河上は、一瞬きょとんとした顔を見せた。空腹の状態で、敢えて出てきた食べ物が、何故さつま揚げなのか。ピンポイントでそこを言われると、はたしてどこで食べれるのだろう。デパ地下の営業時間はとうに過ぎている。この時間だと丼物のチェーン店か、深夜営業のファミレス、あと居酒屋くらいしかやっていない。居酒屋にあるのだろうか。


「思い出したぞ、幕府の敵め!」


 ばくふ、のてき?それがどんな食い物か思いつかない。

 気づくと、髭の男は震えている。鼻息を増して、笑みを溢す。


「丸腰相手に卑怯と言われようと構わん。これも徳川のため」


 髭と男が日本刀を掲げる。ギラリと光る。


「我の名は、新選組六番隊組長 井上源三郎いのうえげんざぶろう。相手に不足なし、いざ!」


 髭の男の眼がギョロリといた。襷掛たすきがけに振り下ろす。足が変に絡まって河上がよろけて、間一髪のところで刀をわした、というか転んだ。刀の風圧で斬られたと勘違いした。河上は自分の胸を確認すると、ネクタイが切れていた。


「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと待って」


「覚悟せい!河上彦斎かわかみげんさい!!」


「誰、それ!違うって。人違い!!」


 河上は転がるようにして、デスクの向こう側へ逃げる。オフィスには、テーブルや椅子、ダンボールが邪魔で、井上源三郎は足場を確保するのがやっとだ。


「逃げるな!そうやって情に訴える奴を見逃してやったことはあるのか。この人斬りがっ!!」


 かわかみげんさい?ひときり?何言ってるんだ、この人は。それに、新選組とか言ってなかったか?

 河上は、この頭がイッちゃってる人から逃れようと、手当たり次第物を投げつけた。デスクの上にある物を井上に投げながら、少しずつオフィスの出口に向かう。ファイル、コピー用紙、電卓、ペン立てが散乱する。

 井上は見たこともない物が飛んでくるのを怯えながら避けた。

 井上は、目の前を阻むスチールデスクを一刀両断。割れたデスクは両側に倒れ、井上に道を作る。


小賢こざかしい!観念せい!!」


 すると、ジリリリリリリリリッ、とけたたましい警報か鳴った。突然の大音量に、井上は耳を塞ぐ。


「なんじゃ、この音は!」


 井上が両手で耳を押さえたため、剣の構えが崩れた。その隙に河上はオフィスの出口まで走った。

 廊下に出て、階段に向かう。河上のオフィスは3階。たった2つのフロアを降るだけだが、全力で駆け降りた。背後から、井上の叫び声が聞こえる。刀を振り回して追いかけてくる奴に、待て、と言われて律儀に待つ人間はいない。段差と自分の歩幅が合わなく、足がもつれそうになる。

 1階のフロアが見えたところで、5段目から飛び降りた。革靴で着地した衝撃で、踵の骨が痺れた。だが、気にしてはいられない。こんなところでコスプレ変態オヤジに殺されるわけにはいかない。

 左にはオフィスビルのエントランスが見える。エントランスは、この時間施錠されている。右に向かって走る。関係者意外立入禁止のプレートが貼ってある扉を開く。狭い通路を抜けると守衛室がある。その向こうが社員用通用口だ。

 守衛室には、あの嫌味な守衛がいるが、当直はもう1人あるはずだ。この状況であれば、どちらかは助けてくれるだろう。少し時間を稼げれば、警備会社の人間も駆けつけるはずだ。

 階段から守衛室まで、ほんの5メートルくらいの距離だが、河上には遠く感じた。


 ぐぉぉぉぉぉぉぉぉーっ。


 獣じみた叫び声が聞こえたと同時に、守衛室のガラス戸が割れ、放り投げられたゴミ袋のような紺色の塊が飛び出してきた。その塊は通路の壁にぶつかり、ドサッと生身の音がした。さっきの守衛、キヨカワだ。

 そして守衛室から、もう1人の悲鳴。

 警報が鳴ったのは、どうやら守衛室も緊急事態だったからのようだ。

 守衛室から大柄な男が姿を現した。身長180センチを超える巨漢。岩のような腕、ゴリラのように胸板が厚い。背中は、大人2人分の幅がある。

 無造作に伸びた、少し癖のある長い髪を振り乱して、もう1人の守衛も投げられた。壁に叩きつけられた守衛は、グエッと声を漏らし、そのまま意識を失った。


「島田!」


 髭の男が巨漢の名を呼んだ。この巨漢も、井上と同じく水色の羽織をかけていた。

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