第6話 腹の虫

 河上は膝の力が抜けて、その場にへたり込んだ。


 殺される。

 自分の手柄にならない仕事で残業して、金にならないうえに、ここでこの変質者に絡まれて死ぬのか。今まて生きてきた35年を思い返し、たいした思い出もないことに気づいた。虚しいなぁ。


 蛍光灯の光が反射して光る日本刀を前に、対抗する気力も失せた。


 あんなモノで斬られたら、痛いだろうなぁ。すぐ死ねないだろうなぁ。どうせだったら一瞬で終わりにしてほしい。


 ジリジリと彼に近寄る髭の男。無抵抗の彼を見て落ち着きを取り戻し、フンッと鼻で笑った。


「長州のものか?」


 ちょうしゅう?何を言ってるんだ、このジジイは。頭がおかしくなって、自分のことをサムライかなにかだと思い込んでいるのだろうか。そういえば、白い着流しに水色の羽織を羽織っている。水色の羽織は、なんか見たことがある。河上が記憶を辿ると、中学の修学旅行で京都に行った時、お土産屋で見たことがある。たしか新選組の羽織だ。

 たいしたいい思い出もなく、こんな新選組のコスプレをしたジジイに殺されるのかと思うと、自身のあわれな最期に笑いが込み上げてきた。彼の頬の肉が少し上がると、涙がポロッと溢れた。


「観念したようだな」


 髭の男は彼のすぐ目の前にいる。刃先を下に向け、彼を見下ろす。

 薄ら笑いを浮かべる河上。目からは涙。人間といるのは、感情の置き所がわからなくなると泣くものなのか、と改めて感じた。


 あー、こんなことになるんだったら、嫌でもヒラマと飲みに行ってた方がマシだったな。そう考えていると、体の方が腹が減っていることを思い出し、腹の虫が鳴く。昼から何も食べていない。


「情けをかけて、名くらいは聞きてやろう。名をなんと申す」


 河上は惚けた顔で、河上です、と素直に答えた。

 髭の男、首を傾げる。


「どこかで聞いた名だな」


 と呟くと、


「まあ、いい。最期に何か残す言葉はないか」


 と下に向けた日本刀を両手で握り直すと、右肩に引き寄せ刃を彼に向け、力を入れた。グッと柄を握ると、その拍子に髭の男の腹の虫も、ぐぅーっと鳴った。


 こんなツイてない日はない。腹が減ったまま死ぬのは嫌だ。

 髭の男の腹の虫に呼応して、彼の腹もまた鳴った。どうせこのまま切られるのなら、最後の悪あがきで飯をせがんでもいいだろう。この状況で飯を食わせろと言ったら、即殺されるかもしれない。この空腹に耐えるくらいなら、即殺された方がマシだ。

 このジジイも腹が減ってるのだ。情けをかけて、飯を食わせてくれるかもしれない。あわよくば隙を見て逃げられるかもしれない。一縷いちるの望みと、半ば自暴自棄になって髭の男に掴み掛かった。

 思い切って飛びかかったまではいいが、さっき倒した椅子の脚につまずき、倒れるようにして髭の男の服を掴んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る