第一幕〜2025年 令和7年 3月20日

INOUE SIDE

第2話 闇

「今日って、用事ないよな」


 昼食で混み合ってあっている会社の食堂で、河上誠人かわかみまことが1人で日替わり定食を食べているところ、突然同期のヒラマに話しかけられた。どうせ飲みの誘いだ。


 河上とヒラマは、同期だが2つ歳下だ。ヒラマは高卒で中途入社だ。アパレル販売会社を2年で退社し、河上も勤めている広告代理店に入社してきた。

 一方、河上は大卒入社。

 ヒラマのことは第一印象から気に入らなかった。自分の方が2年先に社会に出ていることで、社会経験のない河上のことを下に見ている節があった。三流大学とはいえ、高卒の中途入社の人間よりは優遇されるはずだ、と河上はたかを括っていた。

 しかし会社というものは実力主義である。ヒラマは河上よりもコミュニケーション能力が高かった。話が面白くムードメーカー。体育会系のノリで上司からも評判がいい。そして、瞬く間に実績を作っていった。

 河上が勤めるのは、広告代理店の企画部。そこそこ名のある広告代理店だ。企画部とは言っても、提案する企画は自分で売り込まなければならない。半分以上営業みたいなもんだ。

 個人経営の飲食店のホームページを作ったり、グルメアプリに広告を載せたり、フリーペーパーを作ったり。割引きクーポンやらアプリでポイントを貯める企画などを作るつまらない仕事だ。大学で経済統計学と購買心理学を学んでみたが、なんの役にも立たない。せっせとフリーペーパーのクーポンを切って持っていく客の気持ちがわからない。

 学生までに学んだ知識など、会社という組織に属してしまえば、必要のないスキルだ。ヒラマのように上司に取り入るスキルの方が、働く上で必要なスキルなのだ。ありきたりな企画をあげても、ヒラマのような営業スキルを持っている人間が実績を上げる。入社して13年。ヒラマに随分差をつけられてしまっている。


「やっと経理部のアヤミちゃん誘えたんだよ。向こうも4人だからさぁ。河上、頼む!」


 やっぱり飲みの誘いだ。35歳にもなって、まだそんなことをしているのかよ、と河上は声に出さずに小さく舌打ちした。

 こういう付き合いが1番面倒臭い。酒は飲めないわけではないが、コミュニケーションスキルの低い河上にとってはという空気感が苦手だ。隅で黙って飲んでいればいいのだが、つまらなそうな顔をしていると相手側が気を遣ってくる。この気を遣われるのも、気を遣う。終わるまで楽しんでいるフリをしなければならない。たいして仲良くないメンツと、たいして美味くもない料理を食べながら、笑顔を作らなければならない時間は、まさに苦行くぎょうだ。

 それに相手側は河上たちより10歳以上も若い。当然、金はこちらが出す。つまらない付き合いに金まで取られるほど無駄なことはない。


「お前のこと目当ての女の子も来るんだよ。だからお前を誘ってくれって言われてんだよ。頼む」


 絶対、嘘だ。若い子が、うだつの上がらない30半ばの男を好むはずがない。仮に河上のことを誘うよう言われていたら、当日に誘うなんてことはないだろう。どうせ人数合わせだ。おおかた予定の1人が来れなくなったからだろう。

 こういう時、なんで態々わざわざ人数を合わせる必要があるのだろう、と河上はいつも思う。毎回必ずカップルが成立するわけじゃないんだから、3対4でも勝手に行けばいいのに。河上は日替わり定食のエビフライをつつきながらそう思ったが、いいよ、と向こうが望む返事をしてやった。断る勇気がなかった、と言った方が正しいのだろう。


「ありがとう。助かるぅ」


 ヒラマは仏様にでも拝むように両手を合わせて、わざとらしい礼をした。

 そこへ今度は、企画部の部長が慌てた形相で話しかけてきた。


「あー、いたいた、河上くん。この間のアレ、どうなってる」


 部長の《アレ》が、なんのことなのかわからないのは、いつものことだ。


「アレは、今日中にアレしなきゃならないんだけど」


「申し訳ないです。どれのことでしょうか」


 河上の質問に対する答えにも、《アレ》を連発するので、側で聞いてるヒラマもなんのことだか理解できていない顔をして、半笑いだ。

 だが、この先の展開はなんとなく想像できる。ヒラマが河上の顔を覗き見る。部長が河上に指示した書類が出来上がっているかの確認をしているが、彼にとっては初めて聞く話だ。


「なんとかならんのかね」


「僕の方も今日中にデザイン部にあげなきゃいけない資料作りがあるので」


 彼は食堂の壁に貼ってあるポスターを横目で見た。『ハラスメント撲滅!』『休み時間、部下に仕事の話をしない』『残業を強要しない』ハラスメントが横行している会社に限って、こういうポスターを貼りたがる。そういうことをしていることでクリーンであると勘違いしている。

 部長もそのポスターに視線を送る。だが、部長は河上の思惑とは別の意味で視線を送っている。部長の目には『残業を強要しない』という項目しか映っていない。そして、その『』とは、と目配せを送ってきた。


「明日の朝に必要な書類だがら、くれりゃあいいんだよ」


 部長もデザイン部に出す資料作りが夕方までかかる仕事だとわかっているはずだ。要はということなのだ。


「まあ、私の指示の仕方も悪かったかもしれないから、このミスは目を瞑るよ」


 結局は指示なんかしていないのだ。自分のミスを河上に押し付けた上で、間に合わない仕事まで押し付けようとしている。

 ただ他人に気を遣うだけのヒラマの飲み会よりはマシかもしれない。ここで部長に貸しを作っておくのもアリかもしれない。部長も人並み以下でも情というものを持ち合わせているのなら次の成績で多少の便宜べんぎは図ってくれるのかも、彼にはそういう下心もあった。


「部長の意向をメモしておいていただければ、それに沿って進めておきます」


 と、少しヤル気を見せてみた。

 すると、部長はヒラマに声をかけた。


「ヒラマくん。また飲み会かね。君もこんなところで油を売ってるんじゃないよ」


 珍しくヒラマが部長に指摘されていると思ったが、どうやら河上のとは少し趣旨が違う。


「君は万年ヒラの河上くんと違って、大事な時なんだから。いつまでもチャラチャラ遊んでるんじゃないよ」


「はい、すいやせん」


 ヒラマは頭を掻きながら、ニヤついていた。


「まだ発表前だが、次の職制で課長になるんだから。河上くんも、彼の足引っ張るんじゃないぞ」


 河上は愛想笑いを作るのに精一杯だった。このクソ野郎が上司になるのか、と顔に出てはいないか焦る。30も半ばになれば2歳差なんて歳下もクソもないことくらいわかっているし、実績がモノをいうこともわかっているが、実際に自分の上司になるとは、なんともしゃくだ。


「頼んだぞ」


 部長は去り際に、もう1度壁のポスターを見て、念を押した。そして、今度は私も誘いなさい、と軽口を叩きながらヒラマとともに食堂から去っていった。


 おかげで面倒な飲み会からは免れることはできたが、残業は残業でしんどい。あの部長の目付きからすれば、残業代は付けるな、ということだ。それに今度の職制を聞かされてしまった。ショックを隠しきれない。


 日替わり定食は冷めていた。


 河上は冷めたエビフライを咀嚼し、みんな死ねばいいのに、という言葉と一緒に飲み込んだ。




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