然すれば 徒花
オノダ 竜太朗
序章〜1865年 元治2年 2月23日
第1話 粛清
誰も望んでいない結末。それを目の前にして言葉が出なかった。
泣いているのは
だが、自分は八番隊組長だという自負があり、ガキ扱いされることを最も嫌う。その剣士が、今はただ子供みたいに泣くしかできないのだ。
その同じ歳の
「なんでだよ」
声を潜めて呟いたのは
視線の先には
しかし永倉、原田が気にしたのは近藤ではなく、その隣に立っている男だ。腕を組んで、
土方は、睨む永倉を尻目に、八畳間の中央の男を見つめている。
細身の体に、肌は青白く、伸びた髪を後ろで束ねている。その男の名は、
「さんなんさん」
山南をさんなんと親しみを込めて呼ぶのは、山南の後ろに佇んでいる
局を脱するを許さず
山南は隊の規律に背き、切腹を申しつけられたのだ。
彼らが屯所にしていた前川邸のこの八畳間で、山南の最期を見届けるために集っていた。想いはそれぞれにある。沖田を介錯に指名したのは山南の方だ。彼を慕っていた沖田にその役目は
微笑みすら浮かべていた。この若者も、斎藤とは別の意味で何を考えているのか読めない。
立会人の
背後の衝立の前に、沖田が刀を手に話しかける。
「唄は詠まなくて、いいんですか?」
青白い顔の男は笑ったのか、ふぅっ、と一息ついて脇差を見つめながらこたえた。
「君に捕まってから一晩考えてみたが......、なにも思いつかなかったよ」
「そうですか」
沖田は刃先を下に向けたまま、
「
明里とは京都の遊郭島原の元天神、山南が馴染みにしている遊女であった。山南はこの明里と静かに暮らすために、隊を脱したのだ。
どんどんどんっ、戸を叩く音と『山南はん!』と彼を呼ぶ声が聞こえた。八木家の為三郎が、明里を連れてきた。
「明里には見せないでくれ」
「もう少し時間を作りましょうか?」
山南は静かに首を振る。
「先刻、充分に話した」
永倉が明里を探し出し、別室で時間を設けていた。
「いいじゃないですか、どれくらい話したって」
少し迷った顔をしたが、彼は脇差の紙で包まれた方を手にした。沖田に甘えていると、覚悟がブレてしまう。
「さあ、沖田くん。お願いします」
山南は背筋を伸ばし、刃先を腹に当てた。
「君の腕なら、苦しむ時間が少なくてすむよ」
「私もそう思います」
沖田が剣を構える。
ちらりと横目で、土方と目が合う。土方は舌打ちし、山南が、ふっと
「この、鬼が!」
隊服のダンダラ羽織、浅葱色は死に向かう色。九人のそれぞれの背中には『誠』の文字。
なにが誠だ。
俺たちは、いつ、どこで道を間違えたのか。
この広間は仲間の死を眺めるための場所ではない。八畳間で馬鹿な話や、酒に酔って重なるように雑魚寝した夜、阿呆みたいに馬鹿笑いしていた記憶しかない。懐かしさで視界が霞む。
井上は自分に問う。自分は何のために新選組であり続けているのだろう。幕府を守るため、尊皇攘夷のため、それともただ刀を振るいたかっただけなのか。
ただ
過去に戻ることなんかできるわけがない。それなら、いっそこんな現実、消えてなくなってしまえばいい。井上は思った。
しんしんと降る雪。如月の空は白く、冷たい。
縁側の外は真っ白い。庭中に敷き積もる雪。
この八畳間の重い空気とは裏腹に、外から反射した光が差し込む。井上の濡れた目に光が反射し、視界が
「君は私の分も、長く生きてくださいね」
「なにを言ってるんですか。私も、そう長くないですよ」
沖田は労咳を患っている。治す手立てもない。沖田は既に覚悟を決めていた。そして山南の首を落とす覚悟も決めた。沖田は刀を構えた。
「それでは先に行って待って...ま...まっ.......ぐ、ぐぐぐぐぐっ」
山南は喋っている途中で悶え始めた。腹に当てた脇差を落とし、上半身を前に投げ出し
「なにやってんだ、さんなん。この後において命乞いか」
土方が睨むと、てめえっ、と永倉が土方の胸倉を掴んだ。
「鬼の副長だかなんだか知らねえが、あんた、本当に鬼になっちまったのか、か、か、か...かれかれかれ、れろれろれろれろれろ!」
永倉が舌を出して痙攣し始めた。彼を止めようと間に入った原田も、槍のようにピンッと真っ直ぐに体を硬直させ、床に転がった。島田の口からはゴボゴボと泡が吹き上がり、顔を真っ赤にしている。島田の腹が破裂しそうなほど風船のように膨らんでいた。
ガタガタガタッと縁側の板が鳴る。近藤が胡座をかいた姿勢で硬直している。痙攣しているせいで、紙相撲のように板の上で、胡座をかいたまま右往左往していた。藤堂も白目を剥いて、涎を垂らして蹲っていた。
「何事か!」
そういう土方も首に筋を浮かべ、歯軋りをしていた。目は血走り、額や腕、手の甲の血管が浮き出る。
「だ、だれか、毒でも盛ったのか......!」
井上は思った。天罰でも食らったのか。それとも消えてなくなればいいという井上の願いが通じたのか。
雪ではない。熱いのだ。
強烈な光が八畳間に充満した。
倒れた永倉と原田の顔面には水泡が浮き上がり、膨れては弾ける。畳の上で
暑い。部屋に充満する空気が尋常ではなく、暑い。八畳間の空気が沸騰しているようだ。
なにやら様子がおかしいと覗きにきた為三郎が、襖を開けると、どっと熱風を浴びる。
「なんじゃ、これはぁ」
為三郎は腑抜けた声を上げると、彼らの姿を見て腰を抜かした。
「あ、あんたたち......」
「なんだ?ど、うぐっ、どうなってる」
井上は絞るように声を出した。吐く息が煙のように水蒸気となって、漏れる。
「井上はん、て、手ぇ見てみぃ」
視界のはっきりしない目を広げ、自らの腕を見た。なんだこれは。肘から先が見えない。視線を動かすと足首もないのだ。
ドサッと畳の上に、なにかを放る音。先程まで、山南の後ろで構えていた沖田がいない。山南の姿もない。そこにあるのは、沖田の構えていた刀だけだ。
眉間に穴が開くほどの激痛と、体の痺れを感じ、程なく井上の姿も消えた。
「はてぇ。みんな、どこ行っちまったんだ?」
八畳間に残されたのは、為三郎ただ一人であった。
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