第五話 邪神リーリナの死地

__ワイアケイシア急行車内〜ナスル王国トゥカ聖会特別保護地区__555年9月4日



 ドビ平野を抜けたあとしばらく海沿いを走っていたが、列車は再び内陸へと向かい車窓には桑畑と小さな集落が見えていた。今朝から山麓あたりに広がりはじめた鈍色の雲が、今は空の半分ほどを覆っている。


「降らないといいけど」 


 わたしがひとり言をこぼすと、イヴォンが窓に頬をくっつけて空を見上げた。肩上の短い金髪、半ズボンに折り襟シャツという少年らしい格好をしているが、間近で見れば少女だということは誤魔化せない。黒い瞳をキョロキョロと忙しなく動かす姿は子ども返りの状態にも見えるけれど、これは聖地への期待感からくる素の表情だ。


「ユーフェミアさん、山の向こうとこっちで天気は違いますから、トンネルを抜けたら晴れてるかもしれません。きっと大丈夫です」


 イヴォンはそう言って双頭の天馬のバックルを握り締める。ダーシャがディドリーの男からもらい、わたしがここまで持ってきたあのバックルだ。昨夜、トイレに起き出してきたイヴォンが興味を示し、何気なく渡したら交霊でディドル大陸にあるヨタ砂漠が見えたと言う。


『怖いくらい青い空に、一面の砂の丘が見えます。ラクダを連れてるのは二十人ほどの商隊みたい。聞いたことのない言葉だから何を言ってるかわからないけど、みんな楽しそう』


 交霊から戻っても名残惜しそうにバックルを眺める彼女に、「聖地に着くまで預けておくわ」と持たせているのだ。


「そのバックルを作った人も、クローナ大陸にあるジチ教の聖地に行き着くなんて想像もしなかったでしょうね。しかも聖女の手で」


 イヴォンは苦笑を漏らし、表情が憂いを帯びる。


「もし大聖会がわたしを拒絶したらどうしましょう。わたしのわがままで聖地に行くことになり、みなさんを危険に晒しているというのに、わたしは何の力にもなれません。それどころか、いつ新生するかもわからない」


「大丈夫よ。こうして聖地に向かってるのはイヴォンのわがままではないわ。タルコット侯爵は自分の目的のためにあなたを利用しているわけだし、わたしも目的があってこの列車に乗ってる」


「ユーフェミアさんの目的は、あの男に復讐することですか?」


「……そうね」


 汽笛でわたしの声はかき消され、その後ワイアケイシア急行はトンネルを抜けてブドウ畑の広がるソルナーニャ村に入った。


 聖人ジチが邪神リーリナを滅する際に使ったのがソルナーニャ村の白ワインだと伝えられているため、白ワインの聖地と呼ばれている。夾竹桃祭りや聖人の日にはクローナ大陸全土で白ワインが売られるが、ここソルナーニャ村を含むロリーナ地方産のものは高級ワインとして有名だ。


 わたしが殺された七月二十日の夾竹桃祭りは邪神リーリナがラァラをイモゥトゥにした日で、再びそのような悲劇が起こらないよう白ワインに夾竹桃を挿して祈る。


 白ワインが神話に登場するのは〝滅邪点聖の日〟とも呼ばれる十一月三十日の聖人の日。聖人ジチは邪神に見初められイモゥトゥにされてしまった娘ラァラ。ジチはそのラァラと邪神の結婚式に招かれる。場所は邪神とイモゥトゥとが暮らす神殿。ジチは夾竹桃を漬け込んだ白ワインを祝い酒として邪神の盃に注ぎ、それを飲んだリーリナは苦痛に七転八倒する。その場にいたイモゥトゥの半数が同じように苦痛に悶え、残りの半数は愛を取り戻し人間に戻ったという。そのため、苦しんだのは邪神が創造した邪物で、人は呪いが解けて元に戻ったとされている。ジチは用意していた夾竹桃の槍で邪神の心臓を貫き、串刺しにされた邪神リーリナは老いて皺々になり絶命した。


 ――というのがジチ聖典『聖人大書』の記述だ。クローナ大陸全土の説話をまとめた『トゥカ紀総覧』には、殺されたリーリナも邪術によって作られた偽物だとする説や、邪神は命からがら逃げ出しリルナ泥沼の奥底で復活の機を伺っているという説が書かれている。


 聖地トゥカとは聖人ジチが邪神を滅した地。つまり、そこにはラァラと邪神の結婚式が行われた神殿があったということだ。もちろんそんなのはただの神話で、わたしはそれが実際に起きたことだとは微塵も思っていない。警戒すべきは現世の邪神とも言えるラァラ神殿。そして、邪術によって生まれたのかもしれない存在――リュカ。


 こんなふうに物思いに耽るのもソルナーニャ地方を抜けるまでだった。ワイアケイシア急行はすでにトゥカ聖会特別保護地区内を走行中で、風景はブドウ畑から街並みへと変わり、車窓を過ぎる町並みにサルビアの花が目立つ。ジチ教のシンボルである夾竹桃とワイングラスの紋章もそこかしこにあり、聖殿や礼拝堂だけでなく役所や病院もその紋章のついた旗を掲げていた。


「あと三十分ほどで到着です」


 マルクがそう言って荷物を運び出してから二十分ほどが経っている。イヴォンは変装のためにハンチング帽をかぶり、ポケットに突っ込んだ手はバックルを握りしめているのだろう。

 

 不意に車窓の建物が途切れ、視界がひらけた途端サルビアの赤が景色のすべてを飲み込んだ。


「うわぁ」


 わたしとイヴォンが同時に声を上げた。燃えるような赤い絨毯に囲まれた建物群の中央にあるのが大聖殿。ヨスニル聖会やザッカルング聖会の建物とは違って赤茶けた石材が使われており、天に在すセタ神に向けて炎が手を伸ばしているように見える。


 大聖殿の左右にあるのは病院や療養施設、就労所などの付帯施設だと父から聞いた記憶があるが、それらも同系色で統一されていた。赤を際立たせるのが緑の木々。植えられているのは夾竹桃ばかりではなく、樫の木の下では巡礼者たちが休息をとっている。


 その景色に束の間目を奪われていたが、湾曲した線路の先に駅舎を見つけた。


「そろそろね」


 わたしの言葉にイヴォンが無言でうなずく。


 トゥカ駅での停車時間は十五分。ロブに気づかれないよう荷物だけ先に下ろし、出発直前までスタッフ車両の最後尾に身を隠す。


 ――そういう手筈だったのだが、異変が起きたのはトゥカ駅に停車してすぐのことだ。スタッフ車両に移動するため部屋を出たとき、


「聖女はあそこだ!」


 聞き覚えのない声に振り返ると、祭服姿の男二人がアカツキとオトと揉み合っていた。ベリックはやられたのか扉の前で床に突っ伏している。


「アカツキ、こいつらラァラ神殿の祭服着てるよ!」

 

 オトの言う通り、彼らはフードと顔を覆う布がついたラァラ神殿特有の祭服を身に着けていた。


「ユフィ、イヴォン、走れ!」


 アカツキの声でわたしたちは弾かれたように通路を駆け出す。前を走るのはライナスとオールソン卿、その後ろにタルコット侯爵が続き、追いついたオトがイヴォンの手を引いた。マルクとオラフが男たちの足を止め、わたしはアカツキと一緒にスタッフ車両に乗り込む。そのまま後ろの扉を目指した。


「急いで荷物を降ろせ」


 デッキで作業している乗務員に侯爵が叫んだ。窓のない通路からは外の様子をうかがうことができず、そのせいか焦りが募る。先頭のライナスが扉に手をかけた瞬間、


「止まれ! 止まらないと撃つ!」


 背後から声がした。全員が咄嗟に壁際に身を寄せる中、振り返ったわたしが見たのは護身用の短剣を構えるマルクとオラフと、彼らがその剣を向けるドレス姿の少女――いや、薄暗くて顔はわからないが、声は明らかに知っている男のものだ。その手には銃が握られている。


「ロブ」


 わたしがその名を口にすると、背後に祭服の男二人を従えたドレスの少年は怪訝そうに眉を顰めた。


「あなたと会った記憶はありませんが?」


「わたしが一方的に知ってるだけよ。あなたもわたしを一方的に知っているでしょう?」


「たしかに、わたしはあなたを知っています。新月の黒豹倶楽部のユーフェミア・アッシュフィールドさん。あなたはどこでわたしのことを?」


「ソトラッカにいたルーカス・サザランの従者でしょう? セラフィア・エイツの死体を処理した」


「……交霊で何か見たのかもしれませんが、人聞きの悪いことは言わないでください。あれは事故です。わたしもルーカス様も彼女の死には酷く心を痛めているんです」


「あの時は事故に偽装するためあれこれ面倒なことをしたみたいだけど、今度は堂々と銃を向けるのね。ルーカスは相当焦ってるってこと?」


 わたしは他の人たちを先に行かせようと背後で手を払ったが、ロブは「挑発には乗りません」と冷めた声で言い、撃鉄を起こした。銃口が向けられたのはわたしだが、彼の視線は別の人物へと移動する。


「クリフ・オールソン――、いえ、クリフ・フォルブス様。今こそあなたの成すべきことをして下さい。あなたはここでタルコット一味を足止めし、その間にわたしは聖女を連れてウチヒスルへ向かいます」


 全員の視線がオールソン卿に集まった。逆光で表情は見えないが、彼は震える手で腰を探り、隠していた銃をタルコット侯爵に向ける。侯爵が「ハッ」と乾いた吐息を漏らし、ロブは「良かった」と安堵したように口にした。


「クリフ様が噂ほど愚鈍でなくて何よりです。しかし、ここで刃傷沙汰が起きればわたしまでトゥカ衛兵に拘束されてしまうかもしれませんし、みなさん予定通りここで下車なさってください。その後のことはよろしくお願いしますね、クリフ様」


 ロブはゆっくりと歩を進め、わたしたちはジリジリと後ろへ追いやられ全員がデッキに出た。オールソン卿と侯爵、ライナスの三人は押し出されるようにタラップを降りる。


「おっと、聖女様は降りてはいけませんよ。ユーフェミアさんが死ぬのは聖女様も悲しいでしょう? イモゥトゥでも心臓に二発撃ち込めば死にますから」


「……っ、わかりました」


 イヴォンはオトの手を払って前に出たが、わたしは咄嗟にその腕を掴む。


「ダメよ、イヴォ……」


 引き留めようとしたわたしの声は、「ベリック!」という侯爵の声で遮られた。線路上にはいつの間にかベリックの姿があり、その手で侯爵の腕を捻り上げて鞄を奪おうとしている。それに気を取られた隙にイヴォンの腕が離れた。


「ユーフェミアさん!」


「イヴォン」


 わたしの声も虚しく、小柄な聖女は男の肩に担がれて車内に連れ去られていく。ロブに銃口を向けられた状態では身動きの取りようがなかった。


「安心してください、ユーフェミアさん。神殿の聖職者が聖女様を傷つけることはありません。そもそも聖女様を拉致したのはタルコット侯爵であり、わたしは神殿所属の聖女様をお救いするためここにいるのです。

 ああ、そうだ。タルコット侯爵が捏造した告発文書とやらも処分しておかなければなりません。ベリック、早くそれを回収して下さい」


「ベリック、何のつもりだ!」


 ベリックは侯爵から強引に鞄を奪い、それをオールソン卿の足元に投げた。と同時にマルクとオラフがデッキから飛び降り、もしや彼らもロブ側ではと肝を冷やしたが、ベリックは二人を牽制するように短剣を侯爵の喉に突きつける。


「ベリック、どういうつもりだ? やつに何を吹き込まれた?」


 マルクの問いかけにベリックは無言のまま、代わりに答えたのはロブだった。


「ベリックさんはもともとこちら側なんです。十年もタルコット侯爵の監視担当だったので情が移ってしまうのではと危惧していたのですが、十分な働きを見せてくれました。彼の協力なくして火事は起こせませんでしたし、クリフ様に銃を渡すこともできなかったはずです」


 オールソン卿は侯爵に銃口を向けていたが、彼もベリックの裏切りに動揺しているようだった。


「……わたしは、ベリックともロブとも接触してません。昨夜トイレから戻ったら部屋に銃が置かれていて、わたしに自殺でもしろという意味で誰かが置いていったのかと……」


 ロブは舌打ちし、「降りろ」とデッキに残っていたわたしたちに銃口を向けた。言われた通り線路に降りると、前方車両の方でトゥカ衛兵が車掌のトマス・ロッキンガムと話している。その様子を見る限り、衛兵もロッキンガムも味方をしてくれそうになかった。おそらくロブが何か吹き込んだのだろう。


「……わたしはどうすれば」


 オールソン卿は誰とも目を合わせようとしない。ドレス姿の少年は車体にもたれかかり、うんざりしたように彼を見下ろした。


「やはりクリフ様は残念な人ですね。フォルブス男爵様はあなたに手柄を立てさせようとしているのに、その意図を汲むこともできないなんて。

 まあ、男爵様もタルコット侯爵の処分まではクリフ様に求めていないようでしたし、先ほど言った通りしばらく侯爵を足止めしてくだされば結構です。それくらいならベリックさんとライナスさんがいれば大丈夫ですよね?

 それと、わたしが見届けないといけないのは捏造された〝告発文書〟の処理ですが……。ライナスさん、ベリックさんは手が離せませんから、クリフ様を手伝ってあげてください」


 タルコット侯爵が憎々しげにライナスを睨んだが、睨まれた方はおどけた態度で肩をすくめ、地面に放り出された鞄から大判の茶封筒を取り出した。


「クリフ様、わたしが燃やしてもよろしいですか?」


 ライナスの口調はからかっているようにしか聞こえない。オールソン卿が操り人形のようにガクンと首を縦に振ると、ライナスは躊躇いもなくマッチで火をつけた。その途端、遠巻きに見ていたトゥカ衛兵が警笛を鳴らして一斉に駆けてくる。こうなるのを予測していたのか、ロブが大声で叫んだ。


「聖女を誘拐したのはこの人たちです! あれは爆発物かもしれません! 早く列車を出して下さい!」


 車掌と乗務員が慌ただしく駆け回り、発車を知らせるベルが鳴り響いた。ロブは列車が動き出すまで銃を構えていたが、トゥカ衛兵がわたしたちを取り囲む前にドレスの裾を翻し車内に姿を消す。


 トゥカ衛兵がナスル語で何か言い、線路の上で燃える告発文書に消火器のノズルを向けた。神殿と交渉するための手札のひとつはワイアケイシア急行とともに遠ざかり、もうひとつは一瞬で消火剤にまみれて見るも無残な状態になったのだった。



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