第十一話 秘密と口づけ 

__ザッカルング共和国ミノ県エイルマ市郊外ヘサン伯爵邸__555年8月28日



 イヴォンが植物図鑑を手に窓辺に来て、わたしとライナスはさりげなくタナーさんレナードの隣を空けた。


「イヴォン、どうかしましたか?」


 レナードは穏やかな口調で問い、少女のほうは「外が見たいんです」と下手に出て許可を求める。しかし、返事を待つことなくバルコニーへと出ていった。


 後をついて行くとイヴォンは植物図鑑の『チャノキ』のページを広げていて、挿絵の茶畝と眼の前に広がる本物の茶畑を見比べている。イヴォンを挟んでわたしが右、レナードが左に立ち、レナードの隣でライナスは腰壁にもたれかかった。


 わたしが図鑑をのぞき込んで視界を遮ってもイヴォンは何も言わず、むしろ見えているのに見えていないフリをしているのではないかと頭を過る。


「イヴォン」


 試しに声をかけてみると、彼女はわたしから顔を背けるようにレナードに目をやった。


「タナーさん。今朝、あの畑で作業してる人を見かけたけど、タナーさんはあそこで何を栽培してるのか聞いている?」


「ディドル大陸原産のお茶だそうですよ。そこに載ってる、このチャノキです。ほら、この絵とそっくりでしょう」


 レナードは挿絵を指差したがイヴォンはあれが茶畑だと信じられないようだ。ショールで隠されていても、非難の眼差しをレナードに向けているのがわかる。


「タナーさん。わたしはあなたよりずっと長く生きているし、交霊でいろんなものを見ていることは知っているでしょう。霧の銀狼団はお茶に見せかけて新しい薬草を栽培し始めたのではありませんか?」


「心配しなくてもあれは普通のお茶です。部屋の棚に紅茶缶が並んでいたでしょう」


「本物のお茶かどうかはこの目で確認します。あとでこっそり葉を採りに行こうと思うけど、誰にも告げ口しないでくださいね」

 

「では、わたしがイヴォンの代わりに葉を採ってきましょう。それでよろしいですか?」


 レナードの提案になぜかイヴォンはクスッと笑い声を漏らした。


「心配しなくても大丈夫よ、タナーさん。大麻畑に火をつけた時は幻覚を見ていたって誤魔化したけど、同じ言い訳が通じるとは思っていないわ。消火に駆り出されたイモゥトゥたちに火傷を負わせてしまったし、あんなことはもうしない。火事はこりごりなの。

 記憶にはないけど、ウチヒスル奇病事件のあと森が燃やされるのを幼いながら見ていたんだと思う。大麻畑の小火から一週間くらい、火事で逃げ惑う悪夢を見たわ」


 イヴォンが弾かれたように顔をあげたのは、レナードが彼女の頭を撫でたからだ。きっと妹を思い出して無意識に手が出たのだろうが、すぐ「失礼しました」とバツが悪そうに手を引っ込めた。


「気にしないで。そういえば、タナーさんはリュカのお祖父様だものね。わたしを孫のように思っても不思議じゃないわ」


 わたしはエッと声を漏らし、ライナスが何とも言えない表情でフッと口の端を歪めた。どうやら彼も初耳のようだ。


「ねえ、タナーさんはリュカのことが怖くない?」


 イヴォンは古城を見ていた。彼女の頭の中ではあそこにリュカがいるのだろう。


「なぜそんなことを聞くのです? イヴォンはリュカが怖いのですか?」


「怖い、とは少し違うけど、伯爵様が亡くなったあとのリュカのことを考えると無性に心配になるの。リュカは伯爵様にとても似ているでしょう」


「ええ、ホクロの位置まで」


「外見じゃなくて中身のことよ。リュカは伯爵様の持つ地位や権力を欲しがっているような気がするの。でも、サザラン家はライナス様のもの、フォルブス家はネイサン様のもの。霧の銀狼団にもリュカの存在を伏せてあるようだし、リュカには何もないわ。たとえ伯爵様がリュカに何か遺したとしても、あの体ではどこにも行けない。人前に出ることも難しい」


 まるで我が子の未来を憂うように、イヴォンは深くため息を吐いた。


「タナーさん。伯爵様は上手く隠しているつもりだけど、わたしはもうずっと前からリュカの秘密を知っていたのよ。でも、知らないフリをしてきたの。それは伯爵様の秘密でもあるから」


「その秘密は、リュカの祖父であるわたしにも秘密ですか?」


「あなたは知っているでしょう」


 イヴォンは試されたと感じたのか、冷たく言い放った。


「わたし、伯爵様の記憶をのぞいたの。リュカが生まれるところをこの目で見たのよ。リュカの母親はタナーさんの娘ということになっているけど、本当は違う。リュカをサザラン邸に住まわせるために、すでに亡くなっていたタナーさんの娘が伯爵様の私生児を産んだということにした。そうでしょう?」


「イヴォンはリュカの本当の母親が誰か知っているのですか?」


 レナードは問いに問いで返し、イヴォンは一層不機嫌に「もういいわ」と顔を背けた。


「今さらリュカの秘密を知らないなんて言わないわよね? 彼の面倒をみてきたのはあなただし、何十年も一緒にいれば彼が小さくなる・・・・・こともあったはずだもの。だから、そんな意味のない質問をしないで」


 わたしとレナードの視線が交錯した。オカルト好きの彼ならきっとこう考えているはずだ。


 ルーカスに母親はいない。彼は母体から生まれたのではない――と。


 イヴォンが言った『小さくなる』を言葉通り受け取るなら、『若返る』ということ。そう考えると、彼女が幼児返りしたときに言っていた『キャスリンは小さくなっちゃったからお母さんって呼ぶのはダメなの』という言葉も理解できる。『お母さん』と呼ぶには不自然なほど若返ったということだ。


 しかし、――ありえない。


 わたしは何度も頭の中で否定の言葉を繰り返したが、考えれば考えるほど逆にそれが真実に思えてくる。リュカが邪術による分身ではないかとレナードが言った時の、『生贄が必要だ』とか、『血液や体の一部を捧げる』という言葉が生々しく感じられ、ルーカスと過ごした日々のことを思い返すと一層胸が悪くなった。ルーカスが人から生まれたのではないなら、わたしは一体何と手をつなぎ、言葉を交わし、口づけしたのか。


 レナードも押し黙って何か考え込んでいたが、どこかからブウンと虫の羽音が聞こえて「そういえば」とイヴォンが呟いた。


「サザラン領の本邸裏にあるニセアカシアって、今は誰が世話をしているのかしら? わたしたちがあそこで暮らしていた頃は本邸の方が裏庭に顔を出されることはなかったけれど、ライナス様にお子さまが生まれたと聞いたから少し心配だわ」


 イヴォンの口から出た自分の名前にライナスが肩をすくめた。それがエリオットの息子だということは、全員がわかっている。


「何が心配なのです?」


 レナードが先を促すと、イヴォンは植物図鑑をめくって『ニセアカシア』のところを広げ、「ここよ」とページの真ん中あたりを指さした。


 ザッカルング語の図鑑だからわたしの知らない専門用語がたくさん並んでいるけれど、『毒』という文字が読める。ニセアカシアは養蜂に利用されているし、花は食べられるはずだが。


「葉と樹皮に毒があるんですね。棘もあるし」


 レナードはざっと目を通しただけで内容を理解したようだった。


「筋力低下、下痢、呼吸困難、心拍数増加、沈鬱。たしかにこう書かれていると心配になりますが、馬が中毒症状を起こしたくらいの記録しかないようですし、ロアナ貴族のお坊ちゃんが木登りしたり葉っぱを口にしたりはしないでしょう」


「でもあの木のまわりは蜂が飛んでいるわ」


「イヴォンは心配性ですね」


「だって、わたしには普通の人がどれくらいの毒で死んでしまうのか、どれくらい苦しいのかわからないもの。ライナス様がイモゥトゥならここまで心配しないわ」


 二人のやりとりを聞きながら、わたしはまったく別のことを考えていた。両手の指で数えられるくらい、ほんの数回交わしたルーカスとの口づけのことだ。


 手を握るだけで幸せそうに照れ笑いを浮かべていたルーカス。彼が初めてわたしにキスをしてきたのは今年の春頃だった。思い返すとキスはいつも逢瀬の別れ際。ローサンヌ広場裏のあの借家の玄関先でキスして別れ、わたしは帰途についたあと鼓動の早まりと、微かな息苦しさを覚えた。それだけでなく、毎回初めて口づけをした少女のような背徳感が胸に広がり、沈鬱な気分になったのだった。それを恋心と考えたこともあったけれど、あれはニセアカシア中毒だったのではないだろうか。ルーカスがイモゥトゥなら(もしくは邪術による人ならざる者だったなら)、毒物を口に含んでも死に至ることはない。


 しかし、何のために中途半端な量の毒物をキスという不確かな形で接種させたのか。まさか、わたしに中毒症状を恋心と勘違いさせるためにそんなことをするとは思えないし、ルーカスが服用していた薬物が口中に残っていたとも考えられる。


 だが、あの夾竹桃祭りの夜のキスだけは別だった。酷い頭痛と目眩、全身が麻痺して喋ることもできず、わたしを死に至らしめた毒物。それを彼は意図的に盛ったのだ。料理に毒が入っていた可能性もあるが、あのルーカスらしからぬ執拗で激しいキスが、ただの欲求からきたものとは思えなくなった。


「ラァラはどうしてニセアカシアが好きだったのかしら」


 イヴォンの声で悪夢のような追憶から引き戻された。


「ニセアカシアはラァラを象徴する花のひとつだけど、その花と関わりがあるのはラァラだけじゃないの。邪神の神殿にハリエンジュ庭園があったらしいわ。ハリエンジュはニセアカシアの別名だから、邪神もニセアカシアが好きだったということ」


 複雑ねと呟いたイヴォンに、「トゥカ紀ですか」とレナードが尋ねる。


「違うわ。サザラン伯爵様に教えてもらったの。でも、そういう記述を目にしたことはないから、伯爵様の冗談だったのかもしれない」


 思い出し笑いなのかイヴォンは口元を緩めた。


 今の・・イヴォンはエリオットやリュカを恨んでいるようだったけれど、目の前のイヴォンは二人に対してそれほど悪感情を抱いていない。その態度がわたしだけでなくレナードも困惑させる。


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