第八話 濡れてはいけない
__ザッカルング共和国ミノ県エイルマ市郊外ヘサン伯爵邸__555年8月28日0時頃
わたしは感情的にならないように留意しつつ、次の三点を簡潔にヘサン伯爵に伝えた。すなわち、セラフィア・エイツがルーカス・サザランと恋人関係にあったこと、ルーカスがイヴォンを探すためにセラフィアに近づいたこと、そして、セラフィアの死にルーカスが関与していること。
恋人云々についてはともかく、殺人を仄めかしたことで「あれは馬車事故だと」と伯爵は公爵令息二人の顔をうかがった。そして、二人が事故死判定に疑問を抱いていることをすぐに察したようだ。
「エイツ男爵はご存知なのですか?」
「いえ、男爵様は事故死と思っているはずです。セラフィアお嬢さまが馬車に轢かれたのは事実ですから。
わたしが交霊で見たのはお嬢さまが事故に遭う少し前、ルーカスの家での光景です。窓の外からランタンパレードの演奏が聞こえていたので、夾竹桃祭りの夜で間違いありません。
お嬢さまは体が麻痺した状態で、ルーカスは一人で喋っていました。使用人のロブに声をかけて『手筈通りにしろ』と。おそらくお嬢さまが死んだあとの処理を命じたのだと思います。『もって二時間だからそれまでに終わらせろ』とも言っていました。
そのあとロブは部屋を出ていき、――その部屋は二階だったようですが――、一階から『行ってくる』と子どもの声がしました。
断言はできませんが、わたしはその子がルーカスそっくりの例の子どもだと考えています。その子は一人で出ていったようでしたから、ルーカスと違って肉体的には外出できる状態にあるということです」
わたしがひと通り話し終えると伯爵は「セタ神よ」と手を組んで祈り、アカツキは紙巻き煙草を指先でもてあそびつつ「証言と一致してる」と独り言をこぼした。
「アカツキ、一致してるって何のことだ?」
「セラフィアを轢いた御者の証言だ。事故をおこしたあの馬車に客は乗っていなかった。名前は伏せるが、その御者はとある男爵に呼ばれて屋敷に向かうところだったらしい。だが、男爵もその屋敷の者も馬車を呼んでいないんだ。
御者によると馬車を呼びにきたのは五歳くらいの子どもで、夜更けにずいぶん幼い遣いだとは思ったらしいが、その男爵はいつもその御者の馬車を利用していたから疑うことなく男爵邸に向かった。その途中でセラフィアが馬の前に飛び出し、事故をおこした。
結局その子どもは見つからず、いたずらで片付けられてしまったんだ」
わたしが思っていた以上にアカツキは手を尽くして事故のことを調べてくれていたようだった。交霊で彼を見たときはソトラッカ市警で警官に食い下がっていたし、パヴラの話ではチェサタイムスのソトラッカ支社にも足を運んでいる。
「御者に会ったのか」とレナードが問うと、アカツキは「男爵邸にも行ったよ」とさも当たり前のように答えた。
「その男爵邸にはそもそもそんな小さな子どもはいないそうだ」
「御者がルーカスに買収された可能性は? 事故があったのはチェレスタ九番通りだ。夾竹桃祭りの日はほとんどの辻馬車がチェレスタ七番通りよりも駅寄りにいるのに、交通規制が解かれないうちから九番通りを走ってるなんてずいぶん商売っ気がないじゃないか」
「常連客はローサンヌ広場裏に住む貴族ばかりだそうだ。評判も悪くないし、あの御者が事故を起こしたと知ってみなかなり驚いていた。
御者とは拘置所で面会して話をしたが、彼はルーカスとは無関係だろう。妻子がいるのに自分が刑務所行きになったら養っていけないと、ひどく憔悴していた。知らないうちにルーカスに利用されたというところだろうね。あの御者の他にも何人か目を付けていて、あの夜たまたまあの男が都合のいい場所にいたのかもしれない。
ルーカスがあのエリオット・サザランに育てられたというのなら、そういうやり方を仕込まれたのかもしれないな」
自分の手は汚さずか、とレナードは歪めた口にブランデーを流し込んだ。
「しかし、ロアナ国内でのルーカスの立場はいまいち判然としないね。オールソンの話だと、ロアナ王国内ではルーカス・サザランは存在しないも同然。しかし、フォルブスは彼に協力的だ」
「協力的といえるかは微妙だね。イヴォン捜索に関しては、フォルブス男爵が頭首だという霧の銀狼団とルーカスは別で動いているようだ。オールソン卿は男爵からルーカスを支えろと言われたようだが、裏返せばルーカスへの監視ともとれなくない。サザラン家とフォルブス家、サザラン家とルーカス、そのどちらの関係もいまいちよくわからない。なぜ、ルーカスはサザランを名乗ったんだろう」
「フォルブスに言われたんじゃないか? フォルブスはエリオットのそっくりさんを利用して何か企てているのかもしれない。神殿の顔として表に出せば何らかの利用価値はありそうだ」
ルーカスを利用して――という言葉が空疎な響きをもってわたしの鼓膜を通過していった。
利用しようと近づいたことを見透かされ、利用されることを拒絶して殺されたのはわたしだ。死にかけのわたしに向けられた愉悦で歪んだ眼差し。躊躇いも、微塵の罪悪感もそこには見当たらなかった。おそらくそれは相手がフォルブスでも変わらないだろう。利用しているのはルーカスで、利用されているのはフォルブス。そんな確信がある。彼の言葉も表情も、仕草ひとつとってもそれはすべて演技だから――、
「ルーカスはエリオットのフリをして神にでもなるつもりなのかしら?」
わたしのつぶやきで不意に薄暗い部屋に沈黙が落ち、風で揺らいだ蝋燭がジジとかすかな音をたてた。三人はわたしの次の言葉を待っている。
「ラァラ派の始祖であるエリオット・サザランがイモゥトゥとなって姿を現せば、一般信者は彼を崇めるでしょう。神殿幹部の考えがどうあれ、ルーカスの存在は無視できなくなる。ロアナ国内のルーカスへの扱いという点だけ見れば、今とは百八十度真逆の状態になるということです」
「それはもうジチ教ではないのでは?」
ヘサン伯爵が嫌悪感を顔に滲ませ、アカツキはそれに深く頷いて賛同した。
「ラァラ派は元々ジチ教の名を借りた別の宗教と言っても過言ではありません。ジチ教でありながら聖殿ではなく神殿と名乗り、ジチではなくラァラを祀っている。よく聖会に入会できたものだと思いますが、エリオットお得意のやり方で押し通したのでしょう」
「金か」
半笑いで言ったレナードが、不意に社交界仕様の美しい笑みをその唇にたたえた。彼の視線を追うと、イヴォンが寝室の入口から顔だけ出してこっちを見ている。
「イヴォン、気分はどうですか?」
レナードが問いかけると、イヴォンは手に持っていたスカーフを頭にかぶり、顔を隠してからおずおずと近づいて来た。
「……あの、タナーさん。ここは本邸ですか? 伯爵様の許可なく勝手に入っては怒られてしまいます。それに、わたしの祭服が見あたらないのですが」
「本邸でもないようですね」
不安げなイヴォンが可哀そうでソファから腰を浮かせたが、レナードが「待って」と小声でわたしを制した。
「イヴォン、ここはへサン伯爵様の屋敷です。覚えていませんか?」
振り返った少女はレナードを完全にタナーと勘違いしているようだったが、それ以外の三人は見覚えのない人物として認識しているのだろう。チラチラとわたしたちの顔をうかがい、記憶を手繰っているようだった。
「あ……、それで、へサン伯爵様は交霊を依頼なさったのでしょうか? それでわたしはここに?」
年齢で判断したのかイヴォンは正しくヘサン伯爵に向かって問いかけ、伯爵は「ええ、実はそうなのです」と話を合わせる。
「やはりそうでしたか。でも、あまり期待しないでくださいね。最近、依頼されたことと無関係のものを見てしまうことが多くて」
「構いませんよ」
「そういっていただけて安心しました。では、姿絵を見せていただけますか?」
「ええっと、姿絵ですか……」
ヘサン伯爵はテーブルの上を探したが、あるのはブランデーのボトル、燭台、ウォーターピッチャー、グラスに灰皿と煙草入れくらいで姿絵の代わりになるものはない。
「あら、フォルブス男爵様はちゃんとご説明なさらなかったようですね。交霊は主に目で見たものと耳で聞いたものに触発されて、それに関連する光景が瞼に浮かぶのです。ですから、伯爵様が情報を知りたい相手の姿絵や、その方の持ち物で特徴的なものがあればそれをお持ちいただいて、それで交霊するのです。名前だけでも交霊できないことはありませんが――」
「リュカ。交霊でリュカのことを見てください。ウチヒスル城にいる、エリオット・サザランそっくりの金髪の青年を」
わたしが衝動的に口にすると、イヴォンは見開いた大きな目に動揺の色を浮かべた。
「……それはできません。どうやって彼のことを知ったのかは問いませんが、安易に詮索してよいことではありませんよ」
「では、あなたが生まれた場所のことを教えてください。あなたがエリオットに出会うよりも、狼と一緒に森で暮らしていたのよりも昔。キャスリン以外に、あなたの周りには誰がいましたか?」
「キャスリン以外に……?」
イヴォンが困惑した様子でぐるぐると部屋を見回し、かぶっていたショールが床に落ちた。「キャスリン」と泣きそうな声を出し、唐突に窓辺に駆け寄ると両膝を床について窓枠に両手をかける。そして、人のものとは思えない、まさに狼のような声で遠吠えをあげたのだった。
管理人のものと思われる足音が近づいてくるとイヴォンは遠吠えをやめ、低い唸り声をあげながらジリジリと寝室の方へと後退っていく。コンコン、とノッカーを打つ音がした。
「夜分に申し訳ありません。こちらから獣のような声が聞こえたのですが、扉をお開けしてよろしいですか?」
「いや、その場で待て」
答えたのはヘサン伯爵だった。彼はわたしたちに目配せし、イヴォンを遠巻きに避けて部屋から出ていく。イヴォンは寝室の入口まで後退し、四つん這いでこちらをうかがっていた。
「まさか狼になりきるとは思わなかったね。降霊会でたまにこういうのを見かけるが、たいがいペテンだ。そしてこれは本物」
「レナード様、暢気なことを言ってる場合ではありません。管理人は口止めできても本邸まで聞こえたかもしれないんですよ」
「きっと犬の遠吠えだと思ってるよ」
これ以上レナードと言い合っても無駄だと悟り、わたしはイヴォンに「おいで」と呼びかけた。できるだけ優しい声で、彼女が逃げ出さないようソファに浅く腰かけたまま手招きする。すると、イヴォンはパッと顔を輝かせた。
「キャスリン!」
四つ足で駆け寄ってきたイヴォンは、よく懐いたレトリーバーのように
「キャスリン、危ない!」
イヴォンがわたしに抱きつき、わたしは隣に座っていたアカツキの上に押し倒される。体を起こそうとしたが、イヴォンは押し潰されたアカツキのことなどそっちのけで、
「キャスリンが濡れちゃった」
と、半泣きになりながらわたしの頭や顔、肩、腕と、上から順に確認するように手でさすっていった。三人折り重なった不可思議な状態に、レナードは堪えきれずクッと笑い声を漏らす。
「
わたしが睨むと、レナードはようやく向かいのソファーから離れてイヴォンの肩に手をかけた。
「イヴォン。キャスリンは服が少し濡れただけだから大丈夫だよ」
「ダメ。濡れちゃダメなの。イヴォンは濡れても大丈夫だけど、キャスリンは水が苦手だから」
イヴォンはテーブルの上が水浸しになっているのに気づくと、慌てて寝間着をめくりあげ、その裾で拭き始めた。アカツキとレナードは呆気にとられていたが、わたしの脳裏であの夜の光景が火花のごとく弾ける。
――視界の隅でグラスが傾ぎ、ガラスの割れた音がした。ロブがすぐ近くにいて、ウォーターピッチャーを逆さまにひっくり返し、何かに水をかけている。
水飛沫が足にかかった。背後からわたしを右手で押さえつけているのはルーカス。では、彼の左手は? ロブに向かって差し出された彼の手は何を?
耳の奥で音がした。ガサガサと――
「ユフィ!」
辛うじて耳に届いたアカツキの声がわたしを現実に引き戻したが、視界は沼に沈むように暗い闇に覆われていった。
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