第九話 夜明けの散歩者

__ザッカルング共和国ミノ県エイルマ市郊外ヘサン伯爵邸__555年8月28日早朝



 ふと風を感じて目を覚まし、見慣れない天井が視界にあってここはどこなのかと考えを巡らせた。隣のベッドに金髪の少女が横たわっているのを見つけ、ヘサン伯爵邸の別館だと思い出す。


 夜中に目覚めた時はベッドサイドにサキと、隣室にアカツキがいたけれど、今はわたしとイヴォンの二人きりのようだった。厚いカーテンの隙間からのぞく明け方の淡い光がユラユラと動いて、ジャリッと靴を擦る音がする。どうやら窓が開いているらしい。


 息をひそめて目を凝らしていると、吹き込んだ風で大きくカーテンがめくれ上がり、その奥に人影らしい曲線が見えた。わたしは枕の下から懐剣を取り出し、足音を忍ばせて窓へと向かう。息を吐いて気持ちを落ち着け、隣室と繋がったバルコニーをそっとのぞき込んだ。


「シッ、何もしない。おれはライナス。あんたと少し話がしたいだけだ。イヴォンには手は出さない」


 七、八メートルほど先、バルコニーの隅で眼鏡の男が人差し指を唇の前に立てている。風に揺れる癖のない髪は耳の下あたりで切り揃えられ、目にかかる前髪を鬱陶しそうにかき上げた。わたしが黙っていると「こっちで話さないか?」と居間のガラス窓をコツコツと指で叩く。


 わたしは背後のイヴォンをうかがった。ベッドの上で丸くなった少女はスースーと穏やかな寝息をたて、閉じられた瞼が開く気配はない。


「わかった。そっちに行くわ」


 わたしは寝室の窓に内側から鍵をかけ(いったいあの男はどうやってこの鍵を開けたのか)、ショールを羽織って居間に向かった。窓はすでに開けられ、男がカーテンをめくって待っている。わたしは剣先を男に向けてゆっくりと近づいた。


「そんな物騒なもの下ろしてくれ。クリフがまだ起きそうになかったから、朝の散歩ついでにあんたと話をしに来たんだ。襲うつもりはないし、イヴォンにも手出ししない」


「口先だけなら何とでも言えるわ」


 朝の散歩で要塞のような伯爵邸をうろつき、騒ぎも起こさず忍び込むなんて――と考えて、ふと男の声に聞き覚えがあると気がついた。


「あなた、ウィルズマリーホテルの男ね。 鉄道記念館で尾行してたのもあなたじゃない?」


「教えてやるからバルコニーに出て来なよ」


 警戒しつつライナスを追ってバルコニーに出ると、腰壁の装飾部分に四本爪の鉤縄が掛かっていた。所持品はレナードが確認したと言っていたのにどうやって持ち込んだのか、地上へと垂れ下がったロープが風でレンガ壁にあたり、タン、タンとかすかな音をたてている。


「登ってきたの?」


 シャツのボタンを胸元まで開け、無造作に袖をまくりあげた姿を見れば問うまでもないことだった。


「それ以外に方法が? いくら何でもここまでは飛び上がれないよ」


「激しい散歩がお好きみたいね」


「まあね」


 ライナスは鉤爪を自分の腰のベルトに引っ掛け、慣れた手つきで縄を回収していく。彼の背後に広がる茶畑はまだ夜の色を残しているが、城壁の遥か遠くにある小高い丘は太陽の光を受けて白っぽく霞んでいた。


「それで、さっきの質問の答えは? わたしとは初対面じゃないでしょう」


「あんたの推測通りさ。新月の黒豹倶楽部のボスにまた会えて光栄だよ」


 演技じみた所作でお辞儀するライナスに懐剣を突きつけてみたが、怯む様子はなくむしろ楽しげに笑っている。腰にぶら下げた鉤縄で攻撃する気はないようだった。


「霧の銀狼団に協力してるって聞いたけど、それは新月の黒豹倶楽部の敵ということよね?」


「おれが敵か味方かはあんたが判断したらいいが、霧の銀狼団について詮索するより、さっさと研究所に保護してもらえ。タルコット侯爵は捕まえたイモゥトゥに交霊させてイモゥトゥを捜索している。あんただけじゃなく、オト、パヴラ、ジュジュの三人も面が割れてるんだ」


「襲っておいて今さら善人ぶる気?」


「ウィルズマリーホテルのことなら傷の状態を確認したかっただけだ。クリフでは心許なかったからな」


 不意に発せられた予想外の――いや、多少予想していた言葉だったからこそ動揺を隠すことができなかった。


「どういうこと?」


「説明しないとわからないのか?」


 ライナスによると、ドンクルート行きの急行にオールソン卿と乗り合わせたのは偶然ではないらしい。オールソン卿とライナス、雇った男二人(酔っ払い)の四者の間でそれぞれ役割が決まっていて、途中下車した男二人はダーシャに傷を負わせる役、傷の回復状態を確認するのがオールソン卿、ライナスはオールソン卿のサポートと調整役だったそうだ。


「あの酔っ払ったフリしてた男二人は霧の銀狼団なの?」


「あんたは霧の銀狼団について勘違いしてる。霧の銀狼団はロアナ貴族のごく一握りの家門で構成され、その当主と後継者しか入団することはできない。タルコット侯爵はその一人だが、実際にイモゥトゥ探しをしてるのは侯爵が金で雇った捜索隊だ。

 まあ、クリフから霧の銀狼団のことを聞いたのなら勘違いしても無理はないさ。あいつは霧の銀狼団には入れないし、詳しいことは知らない。神殿内の研究組織を霧の銀狼団だと思ってる。まあ、その組織は霧の銀狼団が管理してるんだが」


 オールソン卿への疑念と警戒心と同情とが胸の中をぐるぐると駆け巡った。ひとつ確信が持てるのは、彼が嘘を吐いた理由が『父親に認められる唯一の方法だった』ということ。


「霧の銀狼団のことはオールソン卿から聞いたんじゃないわ。イヴォンが言ったのよ。イモゥトゥを狙ってるのは霧の銀狼団で、その頭首がフォルブス男爵だって」


「ああ、なるほどね。だったら交霊で見た情報を繋ぎ合わせて推測したんだろう。それで霧の銀狼団を警戒して神殿を出たのなら判断は間違ってない」


 まるでイヴォンを見逃しても良いとでも言いたげな口ぶりだった。


 空が刻一刻と明るさを増し、輪郭がはっきりしはじめた男の顔つきは十八か十九歳くらい。元は孤児と聞いたが、皮肉めいた表情に翳りが見え隠れするのはそのせいだろうか。それともまだ日が昇りきっていないせい。


「ライナスはイヴォンと面識が?」


「さっき会った」


「それは覗きでしょう?」


「神殿のイモゥトゥは簡単に会えるものじゃない。彼らは外界と隔離されているし、つい最近まで存在自体が隠されていたんだから。

 まあ、おれは特殊な立場にいたからある程度のことは知ってる。だから、あんたはおれの忠告に大人しく従ったほうがいい。イヴォンの心配をする前に自分の心配をしろ。リュカはイヴォンの次にあんたに目をつけてる」


「わたし? どうして?」


「新生が近いからだ。リュカは新生間近で交霊感度の高いイモゥトゥを探してる。だから、なるべく交霊感度が低いフリをしてろ。

 しかし、あんた本当に新生が近いのか? かなり症状が進んでると聞いてたんだが、まったくそんなふうに見えない」


「そうね。一時期は酷い状態だったけど、ここ一ヶ月はなんの症状もないわ」


「そんなことがあり得るのか?」


 ライナスは首を捻っているが、当然ながら新生済みだと打ち明ける気はなかった。


「それより、あなたの目的は? オールソン卿からはルーカスの右腕のように聞いてたけど、話を聞くとそうでもなさそうだし。もしかしてルーカスから逃げる機会をうかがってるの? だとしたら――」


 オールソン卿と一緒ね、と言いかけてやめた。ライナスは「だとしたら?」と好奇の眼差しを向けてくる。


「何でもないわ。すべて明かすほどあなたを信用してない」


「賢明だな。さすが新月の――」


 ライナスは急に言葉を切り、真顔になって半開きの窓に目をやった。


 廊下を近づいてくる足音と、かすかに話し声がする。聞き取れたのはユーフェミアの優れた聴力のおかげだが、ライナスも耳はいいようだった。逃げる準備なのか、腰壁から身を乗り出して地上を確認している。


「また飛び降りるつもり?」


「このくらいイモゥトゥなら余裕だ。あんただってできるだろう?」


 返答に詰まったが、ユーフェミアの体は反射的に攻撃を躱せるくらい運動神経がいいし、実際できそうな気がした。しかし、わたしの関心を引いたのは『イモゥトゥなら』という言葉だ。


 イモゥトゥの運動能力測定は行われていないが、だいたいみな均整のとれたしなやかな体つきをしている。研究所でちゃんと測定をしたら興味深い結果が得られそうだが、それより今は――。


「あなた、イモゥトゥだったの?」


「クリフには言うなよ」


 その仕草が癖なのか、ライナスが唇の前に人差し指を立てたときノックの音がした。


「はい」


 即座に返事をしたのは、そうしなければ眠っていると判断されてすぐ扉が開きそうだったからだ。昨夜はわたしもイヴォンも調子が良くなかったから、何かあったとき部屋に入れるよう鍵はかけていない。


「起きてたのか」とアカツキの声がした。


「うん。ちょっと待って」


 わたしはライナスに向かってシッシッと手を払い、窓を閉めようとしたが「待て」と力づくで阻止された。


「何のつもり? 見つかってまずいのはそっちでしょ」


「アカツキ・ケイと話したい。やつだけ中に入れろ」


「何を馬鹿なこと……」


「自己紹介するだけだ」


 ライナスは窓が閉まらないよう隙間に足を入れ、両手をあげて攻撃の意思がないことを示した。これ以上アカツキを待たせるわけにいかず、「一旦隠れて」とカーテンを引いて扉の方へと急ぐ。


「ユフィ、入ってもいいかな?」


「今開けるわ」 


 わたしは昨日の格好のままで、ヒルシャ国で購入したドレスはすっかり皺になっている。手で伸ばしてみたが効果はなく、ショールで誤魔化して扉を開けた。立っていたのは夜着にガウンを羽織ったアカツキ。


「一人? さっき話し声が聞こえた気がしたけど」


「サキさんだよ。ライナスがいなくなったらしくて、今も探してる」


「すいません」


 ライナスの声に驚いて振り返ると、カーテンをめくって姿を見せていた。アカツキはわたしを庇うように自分の後ろに押しやる。


「ライナス・ローナンか?」


「はい。朝の散歩のつもりがどうやら騒ぎになってしまったようですね」


「散歩? 散歩で女性の部屋に?」


「ユーフェミア嬢と話したいことがあったので」


「彼、イモゥトゥなんですって」


 わたしがアカツキに伝えるとライナスは「まいったな」と苦笑を浮かべる。


「ユーフェミア嬢はずいぶんケイ卿を信頼してるようだ」


「そっちこそ、なぜユフィに正体を明かした? 彼女を油断させるための嘘じゃないのか?」


「嘘かどうか、あんたの後ろにいるイモゥトゥに交霊させてみればいい。なかなか面白いものが見えるはずだ」


 たしかに事情通らしいこの男を交霊で見れば有益な情報が得られるかもしれない。しかし、イモゥトゥだという証拠が都合よく得られるとは限らない。


「わたしが交霊するよりライナスが交霊してみせてくれた方が早いわ。隣の部屋に幻覚キノコがあるけど、どう?」


 わたしは半ば直感的に彼がイモゥトゥだと確信していたから交霊させる気もなかったし、軽い挑発に過ぎなかった。しかし、彼の口からは意外な言葉が返ってくる。


「おれは交霊できないイモゥトゥだ。新生前症状も出ないかもしれないし、新生が起きるのかどうかも、その時になってみないとわからない」


「交霊できない? 交霊感度が極端に低いということ?」


「そういう次元の話じゃない。酒でも麻薬でも幻覚キノコでも、多少酔いはしても見えるのは現実だけだ」


 初めて知った『交霊できないイモゥトゥ』という存在にわたしは興味をそそられたが、アカツキは冷ややかな目で彼を睨んでいた。ライナスがイモゥトゥだということ自体を疑っているのだろう。


「ケイ卿は信じてないみたいだから、だったらこうしよう」


 鉤縄に手をかけたライナスにアカツキは身構えた。しかし、尖った鉤爪で傷つけたのはライナス自身の左腕だ。呻き声の代わりにチッと舌打ちし、痛みに顔を顰める。頼りない朝の光に晒された腕に赤黒い血が歪な筋を引き、わたしもアカツキも言葉を失った。


「ケイ卿の信頼を得るためなら、まあ、これくらいはしてもいいだろう。あんたは使えそうだし」


「どういう意味だ?」


「それはもう少し仲良くなってから話そう。この傷がどうなるか確認したかったら別館に招待してくれ。ただ、おれがイモゥトゥだということはクリフ・オールソンには絶対に知られるな。おれの存在自体がフォルブスの秘密のひとつだし、あいつにそれを知る権利はない」


 それならわたしとアカツキはどうなのかと思ったが、問いかける前にアカツキが違うことを聞いた。


「オールソン卿よりお前のほうが立場が上ということか?」


「それは微妙だな。フォルブス男爵を頂点とするなら、おれよりクリフが上だろう」


「頂点がルーカス・サザランなら?」


「上も下もない。クリフもおれもフォルブスも、イモゥトゥだろうが普通の人間だろうがルーカスにとってはみんなそのへんの雑草と同じだ。ユーフェミア嬢にはさっき忠告したが、ルーカスには近づかないのが身のためだぞ」


「ルーカスは何をしようとしてるの?」


「それももう少し仲良くなってからだ。どれだけ交霊回避してもバレる時はバレるもんだからな」


 ライナスはカツラを脱ぎ捨て、ぺしゃんこになった淡い色の短髪を軽く手で整えた。眼鏡も外して胸ポケットにしまう。


「そろそろ時間だ」


 ライナスは背後の茶畑を振り返り、眩しそうに目を細めた。まだ畑に人影はないが、古城脇の倉庫に人が出入りしている。


「じゃあ、招待を待ってる。クリフ・オールソンは抜きで」


 返事をする間もなく、彼は腰壁を飛び越えて姿を消した。わたしが地上を見下ろした時にはすでに姿は見あたらず、別館の通用口の方から、彼と執事の声が聞こえてくる。


 ――ちょっと散歩に……――勝手に出歩かれては……――声をかけようとしたけど誰もいなかったんです。お騒がせしてすいません――


 鉤縄をぶら下げて散歩もないだろうと思ったが、見るとバルコニーの隅に鉤縄とカツラ、血を拭ったハンカチが置き去りにされていた。


「侵入の証拠をわざわざ残すなんて、わたしたちを試しているのかしら?」


「さあね。それより、何もされなかったか?」


 アカツキがわたしの頬に触れ、目が合うと反射的に手を離した。


「すまない」


「……別に、少し驚いただけよ。昔と目線が違うせいか、たまにアカツキが違う人のように見えるの」


「おれはいつも混乱してるよ。いつも、どうしたらいいかわからない」


 アカツキは引っ込めた手をぎゅっと握りしめた。


 彼がまだわたしを愛しているのか、それとも外見が変わったことで愛が失われ、そのことに戸惑っているのか。表情から汲み取ることはできない。


 アカツキは逃げるように「様子を見てくる」と部屋を出ていき、イヴォンが目を 覚ましたのはそれから一時間ほど後のことだ。新生前症状が進んでいるのか、彼女は朝からラァラ神殿の祀花守になりきっていた。


「朝のご奉仕に行ってきます」


 止める間もなく部屋を出ていき、慌てて追いかけるとレナードタナーさんと部屋の前で談笑していた。そうしてイヴォンの水やりに二人で付き合うことになったのだが、別館の前庭にサルビアがあったのは幸いだ。


 夏の終わりを感じさせる風が思いのほか心地良く、このまま一日のんびり過ごしても良いのではと考えたが、穏やかな時間はそう長く続かなかった。ヘサン伯爵が古城から駆けて来るのが見え、わたしが最初に考えたのはライナスがまた何かやらかしたのではないかということ。しかし、事態はそれよりも厄介だった。


「ザッカルング聖会からです」


 伯爵から渡された封筒にはジチ聖会のシンボルである夾竹桃とワイングラスが描かれている。宛名はヘサン伯爵。ザッカルング語で書かれた手紙に目を通すと、そこには次の三つのことが書かれていた。


 一、捜索中の祀花守イヴォンをヘサン伯爵が隠匿しているとタルコット侯爵から告発があった。


 二、タルコット侯爵は誘拐事件としてエイルマ市警に通報することを検討している。


 三、ザッカルング聖会としては大事になるのは避けたいので、本日にでもヘサン伯爵邸を訪問して事情をうかがいたい旨。


 低姿勢で謙虚な言葉が並んでいたが、脅迫状のようなものだった。ヘサン伯爵が「どうされますか」と聞いてきたが、現時点でこちらに選択肢はなさそうだ。

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