第二話 茶畑に囲まれた要塞
__ザッカルング共和国ミノ県エイルマ市ルルッカス一番街__555年8月26日
馬車はすぐに左折して歌劇場の前の通りに出た。目隠しのため窓はすべてカーテンを引いてあったが、急に子どもっぽくなったイヴォンが手を伸ばして外を見ようとしている。
「イヴォン、ダメよ」
「どうして? わたしたちどこに行くの、キャスリン」
あどけなく首をかしげるイヴォンは、見かけはともかく内面は十歳にも満たないようだ。なんだか思っていたのと違うね、とレナードが興味深そうにイヴォンを観察していた。イヴォンはその視線に気づくと、人見知りするようにわたしに抱きついてくる。
「あの人、誰?」
わたしはキャスリンの演技を続けるべきか、それとも現実――ここはザッカルングで今は五五五年だということ――を伝えるべきか迷ったが、アカツキは伝えないことを選んだらしくレナードの耳元でボソボソと説明する。
「イヴォン、あの人はお友だちよ。これから一緒に別のお友だちのお家に行くの」
「お家から出ても大丈夫なの? 森の外に出るの?」
森という言葉で思いつくのはウチヒスル村の森だった。イヴォンが狼とともに目撃されたその場所で、二人は一緒に暮らしていたのだろうか。アカツキも同じ疑問を抱いたようだが、口を開いたのはレナードだった。
「ねえ、イヴォン。キャスリンさんは君のお母さん?」
「そうよ。……あっ、でも、キャスリンは小さくなっちゃったからお母さんって呼ぶのはダメなの」
「小さくなったって、どういうこと?」
レナードのふたつめの質問には答えず、イヴォンはわたしの顔をうかがった。もしかしたらキャスリンに口止めされていたのかもしれないと考えて「話しても大丈夫よ」と促してみると、案の定「わかった」とうなずく。けれど、そのあと突然「イヤ!」と駄々をこねるように体をよじってしがみついてきた。その華奢な体は小刻みに震えている。
「イヴォン、どうしたの?」
「キャスリンがいなくなっちゃう」
「いなくならないから大丈夫よ」
「うそ! キャスリンは川に入っていなくなっちゃった。一人ぼっちはイヤ、お家に帰りたい!」
流されたのかとアカツキが小声で口にしたが、きっとその通りだろう。過去にいるイヴォンの記憶は前後が脈絡なく繋がっているのか、キャスリンの死を思い出して、キャスリンがいなくなることを怖がっているのだ。
イヴォンはわたしの膝に突っ伏してしばらく泣いていたが、じきに寝息を立て始めた。わたしたちは三人顔を見合わせ、嵐が去った後のようにホッと息をつく。
「赤ちゃん返りならぬ、幼児返りだね。新生したわけじゃないんだろう?」
レナードが半分冗談めかして口にした。
「新生したら言葉も忘れるから、イヴォンのは新生前症状よ。とりあえず、ひとつ確認できたじゃない。イヴォンの母親が川で溺死したということは、母親はイモゥトゥではなさそうね」
「だろうね」とアカツキは同意して続けた。
「しかし『小さくなる』っていうのはどういうことなんだろう。それに、キャスリンがイモゥトゥじゃないなら、リュカとキャスリンの共通点はいったい何だと思う?
昨夜、イヴォンはキャスリンのことを交霊で見て『キャスリンはリュカと同じ』と言っていただろう?」
「二人とも、話を進める前にぼくにも説明してくれるかな?
セラフィとアカツキがこうして昔みたいに話してるのを見るのはやぶさかではないけれど、君たちはイモゥトゥの話になるといつもぼくを置いてけぼりにするんだ」
「セラフィじゃないわ」と正してから、昨夜イヴォンから聞いたことを順を追ってレナードに話した。全て話し終えたときにはヘサン伯爵邸が丘の上に見えていたが、レナードは窓外には目もくれず腕組みして考え込んでいる。
「ぼくは素人だから変なことを言うかもしれないが、ウチヒスル村で生まれたイヴォンは奇病に罹ってイモゥトゥになったという可能性はない? 奇病によってイヴォンの体は特異な変化をしたが、他の村人はその変化に堪えられず死に至った」
「興味深い意見だが、おれはリーリナ神教が関わっているんじゃないかと思ってる。
リーリナ神教がロアナで禁教になったのは二四九年で、奇病が発生したのは二九一年だが、禁教にしたからといってすぐに信徒がいなくなるわけじゃない。イモゥトゥのイヴォンがウチヒスル村と関係があるんだから、その村がリーリナ神教と関係していると考えるのは自然なことだろう?
奇病発生当時ウチヒスル村はサザラン領だったはずだ。当時のサザラン家の誰かが不老不死術の書かれた書物か何かを手に入れ、エリオットがそれを使ってリュカを生み出した。想像に過ぎないが、いちおう筋は通っていると思わないか」
「奇病そのものがリーリナ神教の信者の仕業という意味か?」
「平気で人体実験を行っていた宗教だ。あり得ない話ではないだろう?」
レナードはふと何か思い出したようにパチンと指を鳴らした。
「アカツキには言ってなかったんだが、ユフィの正体を知ったなら君にも話しておきたいことがある。あの夾竹桃祭りの夜、彼女に何があったのかはもう聞いただろう?
問題は、その後にセラフィがどうやってチェレスタ九番通りまで行って、大勢の人前で馬車の前に飛び出したのかだ。催眠術や降霊術かとも考えたんだが、ぼくはリーリナ神教の禁術を使ったんじゃないかと彼女に言ったんだ。もちろん笑われたけどね」
レナードは唇の端をあげ、「それで」と続ける。
「専門家のアカツキに聞きたいんだが、たしかリーリナ神教が研究していたのは不老不死術だけじゃなかっただろう? その中に死者を操る術がありはしないか?」
アカツキは「なるほどね」と眠るイヴォンに目をやった。睡眠時間が増えるのも新生前症状のひとつだ。
「レナードの言う通り、リーリナ神教には不老不死術以外にも怪しげな呪術が存在する。しかし、禁教に関する資料は閲覧制限が厳しくてね。大聖会に頼んで不老不死術に関する場所はなんとか見れたんだが、他のところに関しては手を付けれていないんだ。持ち出し禁止だから直接トゥカの大聖会本部に行く必要があるしね」
ナスル王国にある聖地トゥカにはジチ大聖堂と広大なサルビア聖園がある。大聖会本部はジチ聖堂内にあり、サルビア聖園には歴代大教司が埋葬されているらしい。父には色んなところに連れて行ってもらったが聖地を訪れる機会はなく、父が仕事で大聖会本部に行ったのはサルビアが雪に埋もれる冬のことだ。
「ねえ、大聖会にあるリーリナ神教の資料は禁教になった二四九年当時に回収できたものだけよね。禁教後に隠れて研究していたのならその記録が残ってるのは神殿かサザラン伯爵家かウチヒスル城だけど――」
「ウチヒスル城?」
イヴォンがわたしの膝から起き上がって目を擦り、向かいに座る二人の顔を眺めた。幻想を見ているのか現実を見ているのか判じかね、「起きたのね」と当たり障りのない言葉をかけると、彼女はわたしの顔を見たあと窓の外に目をやる。
馬車は茶畑の中を走っていた。道の先にある目的地のヘサン伯爵邸は、貴族の虚栄心を満たすために造られた豪奢な歌劇場とは正反対に、無骨な城壁に囲われた要塞のような古城だった。
「ユーフェミアさん、もしかして迷惑をおかけしたでしょうか。記憶がところどころ抜けているようです」
「昔の自分になりきっていたみたいだけど、別に迷惑はかけられていないわ。もうヘサン伯爵邸に着くから安心して」
イヴォンの落ち着いた態度にわたしは安堵の吐息をもらした。馬車は門をくぐり、その途端左右は数メートルの壁に視界を遮られる。城に囚われる身なら逃亡を諦めそうなほどの圧迫感だが、外部から身を隠す立場としては心強いものだった。
わたしとアカツキは物珍しさから窓に張り付いて城壁を見上げていたが、昨夜ヘサン邸に泊まったレナードは「屋敷まではもう少しかかるよ」と勝手知ったる余裕の態度でイヴォンに微笑みかける。
「改めて自己紹介させてもらってもいいかな。ぼくはレナード・ウィルビー。知ってるかもしれないけど――」
「ウィルビー公爵家のご令息ですね」
イヴォンは彼の言葉を遮り、令嬢なら誰しもが見惚れてしまう美形から顔をそむけた。
「すいません、少し目眩が」
「もしかして交霊でぼくのことが見えた? 差し支えなければ何が見えたのか教えてくれないだろうか」
「交霊したのは間違いないですが、多くの人があなたの姿を見ているので記憶の量に酔ってしまったみたいです。具体的な景色は見えませんでした」
期待していたレナードは「残念」と肩を落とし、イヴォンは苦笑している。
「でも、レナードさんのおかげで面白いことがわかりました。交霊で情報を盗まれないために普通は顔を隠すのですが、積極的に人前に出て人々の記憶に残ることも交霊対策になりそうです。知りたい情報を雑多な記憶に埋もれさせてしまえばいいのですから」
「霧の銀狼団がレナードを交霊で見ようとしても、こちらの情報が漏れる心配はないってことか」
アカツキは満足げだったが、イヴォンは「でも、完全ではありません」と釘を刺した。
「掛け合わせには注意しないといけません。例えば、この特徴的なヘサン伯爵邸とレナードさんを同時に交霊で見ようとすれば、かなり絞り込まれた情報が得られるはずです。アカツキさんとユーフェミアさんという組み合わせでも」
「なるほどね。レナード、屋敷に着いたら眼鏡をかけろ。カツラでもいいが」
アカツキが笑い混じりに提案すると、レナードは「眼鏡にするよ」と間髪入れず答えた。
石畳の馬車道は広々とした庭園を横切り、荘厳な古城の前広場へと続いている。わたしたちの馬車はその古城の前を素通りし、裏手にある近代的な煉瓦造りの屋敷の前に停まった。出迎えたのはレナードの従者アレックス・フィンチだった。
「おい、レナード。アレックスにイヴォンのことは?」
「アレックスだけじゃなくこっちの屋敷にいる使用人は事情を知っているが、口止め料は渡してある」
「使用人に会わせていただければ弱みを握ることも可能ですが、そこまでする必要はないですよね?」
イヴォンの何気ない発言に驚いたが、と同時に彼女がわたしたち三人の年齢を足したよりもずっと年上だという事実を思い出した。
「イヴォン、わざわざ使用人に会う必要はないけど、何か見えたらわたしにも教えてくれる? そのほうがイヴォンも安心でしょう?」
「そうします。わたしはいつ意識を失うかわかりませんから」
そんな会話を交わしたのだが、屋敷に足を踏み入れたところに三人の使用人が満面の笑みで待っていた。白髪の執事と年配の女中は夫婦で、イヴォンのための小間使いは二人の娘らしい。普段からこの別館の一角にある管理人宿所で家族三人が寝起きしているということだった。
「この通路の先に通用口があるのですが、管理人宿所はその手前です。夜中に何かあれば宿所に声をかけてください。お客様のお部屋は二階ですのでこちらにどうぞ」
執事が先に立って階段を上り、わたしたちの後ろを小間使いのサキがついて来た。女中は管理人宿所の方へ足早に去っていったが、その後ろ姿をわたしが目で追っていると「見張りを呼びに行ったんです」と言い訳のようにサキが説明する。
「見張りって警備のこと?」
「はい。正面入口と通用口と裏口の三箇所に。イヴォン様と顔を合わせない方が良いと思ったので、みなさんが屋敷に入られてから呼びに行くことにしていたんです。
お忍びのお客様をもてなすことはこれまでもありましたから、あまり心配されず、ゆっくりお寛ぎください」
サキの話を「そういうことですので」と父親の執事が引き取り、わたしたちは階段を上りきったところで左右に別れた。アカツキとレナード、アレックスは執事について右へ、わたしとイヴォンはサキと一緒に左へ。
「お二人のお部屋はこちらです」
サキが扉を開けると正面の窓に茶畑が見えた。城壁内にあるこぢんまりした畑だが、直線的かつ美しく整った景色はウィルズマリーホテルの生垣迷路を思わせる。
「あそこの畑のお茶はディドル大陸の変種なんです。七年前に植えて、ようやく去年から収穫できるようになりました。畑には人が出入りしますが、距離があるのでバルコニーに出ても大丈夫です。心配ならクローゼットにベールがあるのでそれをお使いください」
わたしが窓の景色に目をとめたせいか、サキは部屋を案内するより先にそんな説明をした。広々とした部屋には古風だが重厚で品のあるソファとテーブルが置かれ、棚には茶器とヘサンブランドの紅茶缶が並んでいる。その棚の傍にはアレックスに預けていたわたしの旅行鞄があった。
「クローゼットは寝室にあります」
サキは奥の扉を開け、天蓋付きのベッドがふたつ置かれたその部屋の窓からもやはり茶畑が見えている。わたしは引き寄せられるように窓辺に立ったが、戸の軋む音に振り返るとイヴォンがクローゼットを開けていた。サキが言っていたベールの他には、わたしがドンクルートで購入したドレスが二着かかっているだけだ。
その時わたしはようやくイヴォンが何の荷物も持っていないことに気づいたのだった。
「サキさん、すいませんがイヴォンが着られる服を用意してもらえませんか?」
「イヴォン様の服は伯爵様が歌劇場からお持ちくださるそうです。わたしが既製服を買ってきましょうかと言ったのですが、この騒ぎのなか伯爵家の使用人が少女の服を買っては怪しまれるからと。ただ、伯爵様がお戻りになるのは夜ですので、それまでわたしの服で良ければお持ちしますが」
イヴォンはホッとした顔で「お願いします」と頭を下げた。
「騒ぎになって、いつでも身軽に逃げられるように着ているもの以外は捨ててしまったんです。たぶん、わたし匂いますよね? できれば体を拭くものもお願いしたいのですが」
サキは「かしこまりました」と部屋を出ていき、張り切って世話を焼いた彼女のおかげでイヴォンはずいぶんさっぱりした様子だったが、サキの服を着ることはなかった。その前にヘサン伯爵が予定を繰り上げて帰宅したからだ。
運び込まれた荷物は貴族令嬢が身につけるようなドレスや靴だけでなく、少年に変装するためのシャツやズボンにキャスケット帽、カツラは五種類ほど揃えてあった。伯爵が持って来たのはそれだけではない。
「クリフ・オールソンという方からわたし宛てに手紙が届いていました。エイルマに来ているので、ケイ卿がうちに滞在しているのなら明日訪問して話したいことがあると。ケイ卿のお知り合いで間違いありませんかな?」
ソトラッカに行ったはずのクリフ・オールソンがエイルマに来ているのは、どう考えても怪しかった。それに、ルーカスがイモゥトゥなら彼が子どもの頃ルーカスと遊んだという話は嘘だったことになる。
ヘサン伯爵の前でその話をするわけにもいかず、無言で視線を交わすわたしたちを見て伯爵は何かを察したようだ。
「ケイ卿、来ていないと返事をしましょうか」
「いや、受けよう」と言ったのはアカツキではなくレナードだった。
「飛んで火にいる夏の虫。捕まえて口を割らせるなら、この屋敷はうってつけだ。アカツキ、彼の尋問は君に任せて、ぼくは隣室で銃の手入れでもしておくよ」
冗談なのか本気なのかもわからない言葉にヘサン伯爵は顔を引き攣らせたが、結局クリフ・オールソンをこの別館に招くことに決まり、応対はアカツキとわたしの二人でやることになったのだった。
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