第四章 過去の記憶
第一話 ヘサン伯爵邸
__ザッカルング共和国ミノ県エイルマ市ルルッカス二番街四一番__555年8月26日
小さな窓しかない裏部屋は夜が明けても薄暗く、椅子でうつらうつらしていたわたしが目を覚ましたのはパヴラとアカツキの話し声が聞こえたからだった。
「歩いて行くのはやめたほうがいいわ。今から荷馬車を手配してくるから、それで歌劇場まで行って。マントの男たちは見当たらないけど、マントを脱いでうろついてる可能性もあるから」
「そうするよ。しかし、本当にパヴラもオトも伯爵邸に行くつもりはないのか?」
かすかにオトの寝ぼけた声がしたが、まだイヴォンの隣で眠っているらしく、パヴラが「そのつもりよ」と返事をする。
「わたしは伯爵を信用してるわけじゃない。それに、郊外のヘサン地区に行ってしまえば仲間と連絡が取りづらくなるわ」
「わかった。でも、悪いけどユフィは連れて行くよ」
「どうぞお好きに。あの子はもともと研究所に行くことになってたんだから。じゃあ、ちょっと出てくるわね」
わたしは寝起きでぼんやりしたまま「パヴラ」と声をかけたが、彼女はヒラヒラと手を振って裏口から出ていった。昨日の夜と同じ、使用人のお仕着せみたいな格好だった。
昨晩、彼女が黄金の滴歌劇場に行ったとき、手紙だけ渡して帰ろうとしたところを噂の美青年に呼び止められたらしい。そのあと伯爵のところに連れて行かれてこちらの状況を伝えたようだが、おかげで話は滞りなく進んだ。伯爵は自邸でのイヴォンの保護を快く引き受けてくれた上、今日の正午には歌劇場に馬車を用意してくれることになっている。
「ユフィ。パヴラが戻る前に腹ごしらえしておこう」
アカツキはわたしの隣に座るとテーブルに置かれたパンを手渡し、自分もひとつ取ってかぶりつく。昨夜パヴラが伯爵からもらってきた、チーズ入りの柔らかいパンだった。
「イヴォンは起きてないの?」
ベッドの下段でモゾモゾ動いているのはオト。イヴォンはその奥で壁の方を向いて丸くなっている。
「パヴラの話だと夜明け前に一度起きたらしいけど、オトをリュカだと勘違いして、タナーさんがどこにいるのか聞いたそうだ」
「ダーシャも過去の自分になりきってタルコット侯爵家から逃げようとしたって聞いたけど、まさか一度目の人生を見るなんてね。
そう言えば、ひとつ気になったことがあるの。イヴォンがウチヒスル村で生まれて四三〇年頃に新生したとしたら、百六十歳で新生したことになるわよね。その新生から百二十五年でこの状態よ。新生を重ねる毎に周期が短くなるのかしら」
「おれは交霊が影響してるんじゃないかと思う」
「どういうこと?」
「イヴォンが言っていただろう? 年をとると魂の膜が脆くなって他人の記憶が流れ込んでくるのが新生前症状じゃないかって。だとしたら、麻薬やなんかで交霊する場合は強引に膜を壊していることになる。魂の膜に限界が来るのも早まると思わないか?」
真面目な顔で『魂の膜』と口にするアカツキに、わたしは無意識にクスッと声を漏らしていた。
「麻薬による交霊と新生年齢に相関関係があるかどうかは調べてみるとして、アカツキは魂の膜が本当に存在すると思ってるの? あれはきっと比喩みたいなものよ」
「卵の殻みたいな、わかりやすい形をしたものじゃないことはわかってるよ。便宜上、彼女の言い方を真似ただけだ。おれは交霊したことがないから憶測で言うけど、膜っていうのは〝その人をその人たらしめている何か〟じゃないだろうか。自我と言ってもいい」
「新生前症状は自我の崩壊、新生は自我の消滅。麻薬による交霊は自我の破壊ってこと?
間違ってはないだろうけど、交霊を直に体験した身としてはその定義では不十分に感じるし、いくら時間を費やしてもきっと正確な定義はできないわ。それより、アカツキはルーカスが新生を経験していると思う?」
「微妙だね。イヴォンが三歳のリュカと会ったのが四〇〇年頃ということは、今現在、彼は百五十五歳。研究所は新生が百四十から百六十歳で起きるとしてきたけど、今のイヴォンの状態を見れば百三十年前後で新生が起きてもおかしくない。とっくの昔に新生しているか、新生間近か。可能性としてはどちらもあり得るが、やつに新生前症状みたいなものは見られなかったんだろう?」
「ないわ。といっても、わたしが彼に会ってたのは週一回のほんの数時間よ。誤魔化そうと思えばいくらでも誤魔化せる」
「君は、……いや、なんでもない」
アカツキは言いかけた言葉と一緒に千切ったパンを飲み込んだ。
「言いかけて止めるなら最初から口にしないで」
わたしが詰め寄ると彼は気まずそうに視線を泳がせ、「彼の家に泊まったことは?」と予想外の問いを口にする。
「……あなたもレナード様も、わたしが同情で彼といたことはわかってたんじゃないの? それとも、婚前に平気でそういうことをする女だと思ってた?」
「まさか」と慌てて否定するアカツキの声に、「やっぱり」とオトの声が重なった。
「男慣れしてなさそうだから、そうかなって思ってたけど」
突然会話に割り込んで、気持ち良さそうにあくびしたあとヒョイとベッドから飛び降りる。アカツキが複雑な表情でオトの様子をうかがっていたから何かと思えば、「オトは彼女が新生する前の恋人だった?」と突拍子もないことを聞いた。わたしは唖然とし、オトはプッと吹き出す。
「違うよ。ぼくはダーシャが新生したときのお世話役の予定だったんだ。でも、恋人がいたのは合ってる。遠目にしか見たことないけど、アカツキよりも大きなディドリーだよ」
「その恋人は今もイス皇国に?」
「うん。ダーシャがイモゥトゥだったことも、新生したことも知ってる。この状態になったユフィを新月の黒豹倶楽部に連れてきてくれたのは彼だからね。そんなに心配しなくてもユフィを追ってきたりしないよ。たぶん」
オトが中途半端な言い方をしたせいか、アカツキが確認するようにわたしを見た。
「絶対追ってこないわ。ダーシャには未練があるかもしれないけど、ダーシャとわたしが別人だってことはわかってる。同じ顔をしてるのにわたしにはまったくそそられないって言ってたから」
「えっ、初耳! なんで教えてくれなかったの」
「オトがからかうからに決まってるじゃない」
三人で朝食を食べながら、わたしは憑依してからウェルミー五番通りにたどり着くまでのことを話した。その間もイヴォンが目覚めることはなく、食事と支度を終えてパブの前に幌付き荷馬車が停まっても、彼女はまだ眠っていた。
「寝かせたまま連れて行ったら?」
パヴラが言い、「そうしよう」とアカツキが抱き上げようとした時だ。イヴォンは野生の獣のようにパッと体を起こし、壁際に身を寄せる。
「誰ですか?」
「アカツキ・ケイ。ここはザッカルング共和国にある新月の黒豹倶楽部。今はクローナ歴五五五年八月二十六日」
「五五五年……?」
イヴォンはまわりにいる人間の顔を一人ひとり確認し、そのたびに交霊が起こるのか自分の目の前で手を払った。
「わたしは霧の銀狼団から逃げているんです。それで、オトさんとパヴラさんのいる新月の黒豹倶楽部を探していて……」
「わかってるよ。イヴォンはこれからヘサン伯爵のところに行くんだ。いつ新生するかわからないから、ここにいるのは危険なんだよ」
オトがベッドに膝をついて右手を差し出すと、イヴォンは恐る恐るその手を掴んで二段ベッドから出てくる。そして、すべてを見透かすような大きく澄んだ目でアカツキを見た。
「あなたがヘサン伯爵に頼んでくださったのですか? わたし、数日前に一人でヘサン伯爵のところに行こうとしたんです。歌劇場近くにいた男性を交霊で見たらそれがたまたまヘサン伯爵で、神殿のやり方に批判的なようでしたから、彼なら味方になってくれる気がして」
「イヴォンの言う通り、伯爵は君を神殿に売ったりはしないよ。このあと荷馬車で歌劇場に行って、そこから伯爵の馬車で屋敷に向かうことになってる。まったく危険がないとは言えないけど、一緒に来てくれるかい?」
躊躇いながらうなずくイヴォンは、まだ自分の置かれた状況や昨夜あったことを完全には思い出せていないようだったが、フード付きのケープをパヴラから渡されると素直に羽織って金髪を隠した。そして、オトに手を引かれ表玄関へと向かう。
パブの表に停められた馬車は、後部の幌が上げられて乗り込みやすいよう踏み台が置かれている。アカツキがイヴォンに手を貸そうとしたが、彼女は「大丈夫です」と身軽な動きで荷台に乗り込み、わたしもその後に続いた。最後にアカツキが乗り込むと御者が踏み台を積んで幌を降ろし、三人で木箱に身を隠して床板に座り込む。
「ユフィ」
パヴラが幌をめくって顔を覗かせた。
「御者は仲間だから安心していいわ。でも、お互いのために他人のフリをして」
わたしたちが無言でうなずくとパヴラは顔を引っ込め、「出して」と御者に声をかけた。荷台の前方は開いており、馬蹄型に切り取られた街の景色の中央に御者台に座る男の背中がある。男が手綱をしならせると、馬車はゆっくりと動き始めた。もう正午近いからか人通りはそれなりにあるが、カジノ通りのような洒落た雰囲気はなく、ふと思い出したのはチェレスタ九番通りの景色だ。
労働者向けの集合住宅と、庶民向けの雑貨屋や飲食店が建ち並んだその通りの酒屋でワインを買ってルーカスの家に向かったのはたった一か月前のこと。そして、わたしが馬車に轢かれたのもその通りだという。
「馬車の荷台に乗るなんて子どもの頃以来だ」
アカツキがのんきなひとり言をつぶやいた。上着は脱いでシャツの袖を捲りあげ、ズボンの裾は昨日の騒動で汚れ、髪も乱れているけれど庶民には見えない。ポケットからいかにも高級そうな懐中時計を取り出し、彼は蓋を開けて時刻を確認した。
「五分ほどで着くはずだ。予定より早いからまだ伯爵の馬車は準備ができていないかもしれない」
「心配ない」と、反応したのは御者だった。
「もう裏手に来てるらしいから横付けする」
「そうか。助かる」
「別に、あんたのためじゃないさ」
それなら誰のためなのか、とは誰も問い返さなかった。新月の黒豹倶楽部のイモゥトゥたちがイヴォンについてどう考えているのか、正直なところはわからない。協力的ではあるけれど、イヴォンを抱えるのは新月の黒豹倶楽部にとって危険だし、厄介払いのためにそうしているようにも思える。
イヴォンはわたしの手を握り、もう片方の手で幻影を追い払っていた。「大丈夫?」とわたしが問うと「どうでしょう」と不安げに首をかしげたが、わたしのことはわかっているようだ。
「昨夜のことは覚えてる?」
「路地でお二人に会って、追手から逃げてさっきの場所に行ったんですよね。そのあと色々と話した気がしますが、仲間に会って緊張の糸が切れたのか記憶が曖昧で、起きてからも気を抜くとすぐ交霊状態になってしまうんです。ダーシャさん、もしわたしが新生しても神殿には引き渡さないでください」
「大丈夫よ。安心して」
イヴォンは安堵の表情を浮かべたものの、そのあと「ありがとう、キャスリン」と満面の笑みで抱きついてきた。頭を過ったのは『自我の崩壊』という言葉。きっとアカツキも同じ言葉を思い浮かべただろう。
イヴォンの脱げかかったフードを直しつつ、わたしはアカツキと視線を交わして今の状況を受け入れることにした。現実を教えて下手に刺激するより、無事にヘサン伯爵の馬車に乗り換えることが先決だ。
大通りを走っていた馬車は黄金の滴歌劇場よりも手前で右折し、裏通りに出た。軒下にいるチュチュ姿の女の子たちは歌劇場の研修生らしく、夜明けのスズメのように賑やかに囀っている。傍では二人の男が壁に立てかけられた書割を前に絵筆を動かし、その先に停まった幌付き荷馬車の横では針子らしい女性が布地を手にした生地屋と話していた。
「あの馬車じゃないみたいね」
アカツキに話しかけたつもりが、前方の御者から「その奥だ」とそっけない声が返ってきた。生地屋の馬車の横を通り過ぎると少し先に貴族所有らしい四人乗りの箱馬車が見えてくる。御者はそのすぐ後ろに停めた。
「あんたら二人は後ろのやつらに見られても貴族の逢引きだと思われるだろうが、ちっこいお嬢さんは前から降りた方がいい」
御者の提案はもっともだが、イヴォンは不安げにわたしを見た。
「キャスリン、いなくならない?」
「いなくならないわ。あのお兄さんの隣に座って待っていてくれたらすぐ迎えに行く」
「わかった」
イヴォンは意を決したようにうなずくと、身軽な動作で御者台に飛び乗り、「早く」とわたしを急かす。キャスリンとイヴォンはどんな関係だったのか、調べてわかることでもなさそうだが、口調や表情から成長停止前のイヴォンと関わりがあったのは間違いないだろう。
アカツキとわたしは荷台の後ろから飛び降り、歌劇場関係者の視線を背中に浴びながら馬車の前方に回り込んだ。イヴォンはすでに御者台から降りて荷馬車と箱馬車の間で待っていたが、わたしたちが来ると御者に向かって「さよなら」と手を振った。御者はつば広の麦わら帽の下に照れ隠しのような半端な笑みを浮かべ、チラとわたしに目を向ける。
「あんたらの馬車が先に出たほうがいい。後ろから丸見えになる」
「そうね。ありがとう」
「ちゃんと逃げ切れよ、ユフィ」
御者は帽子のつばを下げて顔を隠した。慣れた口ぶりで名を呼んだこの男は、おそらくユーフェミアと面識があったのだろう。
「ユフィ、早く」
アカツキとイヴォンが馬車の中から顔を覗かせていて、慌てて乗り込むと二人の他に見知った男性がいるのに気づいた。一人だけ貴族らしい整った身なりで、足を組んでアカツキの隣に座っているのはレナード・ウィルビー。彼は前方の小窓を叩いて「出せ」と御者に命じた。
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