第三話 少女と霧の銀狼団

__ザッカルング共和国ミノ県エイルマ市ルルッカス一番街黄金の滴歌劇場前__555年8月25日


 

 歌劇場前の通りは、爆発音に驚いて建物から飛び出してきた人でごった返していた。現場では火災が起きているのか煙はオレンジ色に染まっているが、炎が見えないから誰も逃げ出す様子はなく、「あらまあ」「怖いわね」とまったくの他人事だ。そのうち警笛の音が鳴り響き、野次馬を押しのけて警官がやってきた。


「また爆発する可能性があるので二番街へは行かないように!」


「消防旅団が通るぞ! 道を開けろ!」


 カンカンカンと鐘の音が近づいてきて、手動式ポンプと消防士を積んだ消防旅団の馬車が次々と目の前を通り過ぎる。


 歌劇場前に並んだ馬車は方向転換できず、二番街から避難してくる人々で混雑がいっそうひどくなると、観劇帰りの貴族たちは行き場を失って怒号が飛び交い始めた。ヘサン伯爵は駆け寄ってきた支配人と短く言葉を交わし、閉館時刻延長を伝える。


「黄金の滴歌劇場にお越しのお客さま! 馬車が動くまでどうぞロビーでお待ちください!」


 支配人が声を張り上げると人々はぞろぞろと歌劇場に逆流し始め、背後から「われわれも戻ろうか」とレナードの声がしたが、わたしは居ても立ってもいられず二番街へ足を向けた。


「ユフィ嬢!」


 アカツキは強引に貴婦人を押しのけることもできずウロウロと立ち往生している。


「すぐ戻ります! 中で待っていてください!」


 旅装のままだからドレスは重苦しいものではないし、ユフィの運動神経ならすぐ現場まで行けると思っていた。しかし、歌劇場から離れても野次馬と避難者が呆然と煙を見上げて立ち尽くし、なかなか前に進むことができない。ヨスニルからの観光客らしいバッスル・ドレスの女性四人組が横並びになって行く手を塞ぎ、「クソッタレ」と吐き捨てたとき背後から腕を掴まれた。


「ご令嬢の言葉とも思えませんね」


 アカツキは苦笑しつつ額の汗を拭う。「聞き間違いですよ」と返すと、ハハッと笑い声を漏らした。


「ユフィ嬢、裏道を行きましょう。大通りだと消防旅団に止められる可能性があります。こっちへ」


 消防旅団の騎馬隊が行き過ぎると、アカツキはわたしの手を引いて強引に馬車道を渡った。人垣をかき分けて細い路地に入り、「行きましょう」と迷いなく歩き始める。


 路地には人の姿がポツポツあったが、誰もが建物の隙間から煙を見上げ、わたしたちのことなど気にもとめていなかった。


「ユフィ嬢、たしか二番街三七番地でしたね?」


「そうです」


「爆発があったのはおそらくそのあたりですよ」


 ひとつ隣の通りに人垣ができているのが見えた。その奥には消防馬車の上に立つ消防士の影があり、さらにもう一本先の通りだろうか、炎が妖しげに壁を舐めている。


「これ以上近づくのは無理です。ユフィ嬢、明日また改めて様子を見に来ましょう」


「でも」


「オト・アッシュフィールドのことが心配なのはわかりますが、タルコット侯爵が近くをうろついているかもしれません。侯爵の狙いがイヴォンだけとは限らないのですから」


 そのとき背後からジャリッと砂を踏む音がし、わたしとアカツキは同時に振り返った。路地とも言えない細い隙間から顔だけ出しているのは、頭にターバンを巻いた町娘風の少女。


「ねえ、あなたはダーシャ?」


 少女の発したのはロアナ語だった。わたしを見つめる大きな目と意思の強そうな太い眉。ターバンで髪を隠しているが、眼の前の少女は行方不明のイヴォンに違いない。


「そうよ。今はダーシャという名前ではないけど」


 最小限の返事を返すと、彼女は周囲を警戒しながらわたしたちの前までやって来た。


「おわかりだと思いますが、わたしはラァラ神殿に追われているイモゥトゥのイヴォンです。あなたはユーフェミア・アッシュフィールドですよね。

 実は、あなたのことを少し交霊で見ました。ユーフェミアさんがここにいるということは、わたしと同じ場所……新月の黒豹倶楽部を目指しているのでしょう?」


「ええ。そこにわたしの知り合いがいるはずなの」


「オトさんですね。彼はあの爆発現場にはいないと思います。あそこは霧の銀狼団に知られたらしく、別の場所に隠れたみたいですから」


「霧の銀狼団って?」


「あなたたちが『犬』と呼んでいる組織です」


「ちょっと待ってくれるかな」


 イヴォンの答えを遮り、アカツキが申し訳なさそうに割って入ってきた。


「ユフィ嬢、彼女はイヴォンで合ってる?」


「はい。ケイ卿も今の話を聞かれていましたよね」


「ごめん。おれはロアナ語に関しては読み書き専門で、その速さで話されるとまったくついていけないんだ」


「『クソッタレヤァシ』はわかるのに?」 


「発音が単純で覚えやすいでしょう? 『ブサイクバーバーシ』とか『デブアーシ』とか、相手を侮辱する言葉には特徴があるし」


「小難しい文献ばっかり読んでる人がどこでそんな言葉を覚えるの? バーバーシやアーシなんて言葉は何の役にも立たないのに、それでロアナに行くつもりだったなんて」


「カタコトでも筆談でも方法はあるさ。とりあえず、イヴォン嬢とはゆっくり話してもらえるかな?」


「では、わたしがヨスニル語で話します。それともザッカルング語の方がいいですか?」


 イヴォンが口にしたのは流暢なヨスニル語だった。今のやりとりを彼女が完全に理解していたとわかり、アカツキは恥ずかしそうに「ヨスニル語で」と答える。


「あなたはアカツキ・ケイさんですよね。ユーフェミアさんはあなたを信用しているようですし、わたしを神殿に売ることはないと信じています」


 イヴォンは先ほどわたしと話したことをヨスニル語で繰り返し、ひと通りの内容を伝え終えると「歩きながら続きを話しましょう」と歌劇場とは逆方向に向かって歩き始めた。けれど、ほんの数メートル行ったところで足を止め、顔の前で何度か手を払う。新生前のイモゥトゥが交霊状態から抜け出すためによくやる仕草だ。


「イヴォン、もしかして新生前症状?」


「大丈夫です。もう消えましたから先を急ぎましょう。話の続きですが、霧の銀狼団というのはイモゥトゥを狙っている組織で、新月の黒豹倶楽部は彼らを警戒して場所を移したようです。ユーフェミアさんとは行き違いになってしまったみたいですが、そう遠くには行っていないと思います。

 オトさんが仲間と一緒に新しい隠れ家に入っていくのを交霊で見ました。土地勘がないので迷ってしまったのですが、ルルッカス一番街四一番地と言っていました」


「それならもう二筋向こうのはずだ。わたしが先に行きましょう。ユフィ嬢、彼女をお願いします」


 アカツキは前に出るとすぐ近くの路地を右へ曲がった。イヴォンもその後について行ったが、彼女の目にはしつこく幻影がチラついているらしく、わたしが手を握ると悪夢から醒めたようにホッと息を吐く。


「ユーフェミアさん、しばらく手を繋いでいてもいいですか?」


「もちろん。ところで、霧の銀狼団とタルコット侯爵は関係があるの?」


「彼は霧の銀狼団に所属しています。タルコット侯爵が怪しいということはあなたたちも気づいていたようですが、おそらく彼はわたしの捜索を担当しています。ダーシャさんやオトさんがここに来たことで、あなたたちの担当チームと合同で動いているかもしれません。

 ――あっ、そう言えばあなたも新生が近づいていますよね。症状はどうですか?」


「落ち着いてるわ」


 わたしはそう答えたあと、「ダーシャは死んだの。新生した」とイヴォンの耳元で囁いた。本当のことを話したのは、イヴォンならわたしの特異な状況について何か知っているのではないかと考えたからだ。けれど、彼女の反応は期待していたものとは違っていた。


 驚きで目を見開いて何か問おうとするイヴォンの口を咄嗟に塞ぎ、話をそらすため「そこの通りの向こうですよね?」とアカツキに声をかける。


「そうです。みんな火事が気になっているようですから、普通にしていれば人目を引くことはないと思います」


 通りは夜更けにも関わらず賑わっており、「煙が酷い」「大丈夫だろうか」と心配そうに話す人もいれば、笑いながら夜空を見上げる人もいる。喧騒に混じって音楽が聞こえ、行き交うのは豪奢な身なりの貴族ばかり。いくら夜道とはいえ、庶民じみたイヴォンの格好は人目を引くかもしれなかった。


「この通りは通称カジノ通りと言って、柄の悪い輩もうろついています。なるべく目立たないように、急ぎ過ぎず、普通に渡りましょう。イヴォン嬢はこれを」


 アカツキは上着を脱いで彼女の肩に掛けた。わたしはターバンを外すように言い、周囲をうかがって自分のカツラを彼女の頭につけ替える。夜ならわたしの赤毛も茶髪とそう区別がつかないはずだ。


 支度が整うと、わたしたちは馬車が行き過ぎるのを待って道を渡り始めた。アカツキは敢えて途中で足を止め、空を見上げて「すごい煙だよ」とさも野次馬のように口にする。実際、煙の勢いは衰えることなく、消防旅団のベルはここまで聞こえている。


「さあ、遅くなるから宿に戻ろう」


 アカツキは年の離れた妹にするようにイヴォンの肩を抱き、人垣をすり抜けて路地に入った。外灯はなく、小さな窓から漏れるわずかな明かりを頼りに進んでいくと、突然後ろの方からバタバタと足音が近づいてくる。駆け出すことを躊躇したのは、逃げれば追われる身だと自白するようなものだからだ。


「そこの三人、止まれ!」


 わたしたちは素直に足を止め、振り返った瞬間後悔した。薄暗くて顔はわからないが、帽子をかぶりマントを羽織った二人組は明らかにタルコット侯爵の手先。しかも、そのうちひとりは銃を構えている。

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