第二話 クイナの翼(二)

__ザッカルング共和国ミノ県エイルマ市ルルッカス一番地黄金の滴歌劇場__555年8月25日



 舞台中央にはサルビアの造花に埋もれて白衣の死者が横たわり、黒服を纏った参列者たちがその周りを囲んでいた。


「そう言えば、冒頭は葬式のシーンだったね」


「このオペラは死で始まり死で終わる。イモゥトゥを題材にしてるから余計に死が際立つんだ」


 アカツキもレナードも観たことがあるような口ぶりだった。舞台上手から金髪の女性が駆け込んできて、死者に縋り、澄んだソプラノで問いかける。


『なぜ、みんなわたしを置いていくの。わたしの姿はセタの目にとまらず、わたしの魂は孤独な世界に閉じ込められたまま。リーリナ、なぜわたしから愛を奪わなかったの。そうすればこんなに孤独ではなかったのに。なぜ、みなわたしを置いて死んでしまうの』


 黒服の参列者たちは舞台上で円を描くようにゆっくり歩きながら、『ラァラは一人。邪神の愛はラァラのもとに』と女性を追い詰めていく。舞台袖から躍り出た数人のダンサーが赤い布をはためかせ、その布を死者に被せていったのは火葬の演出のようだ。


『セタ、わたしはここよ!』


 ラァラを残して他の演者たちは潮が引くようにいなくなり、会場からは拍手が起こった。主役が舞台袖にはけるとオーケストラの音楽は穏やかになり、手早く舞台セットが組み替えられていく。


「ケイ卿、さっきの死者はジチですか?」


 何気なく口にしたあと『ケイ卿』と呼ぶことに慣れてしまっているのを実感したが、彼は特に気にかけていないようだった。


「あれはジチではありません。クイナの翼はトゥカ紀総覧五十ニ巻にある放浪記を元に作られたものですが、それによるとラァラが放浪を決意するのはジチが死んでずいぶん経った後です。

 生まれ育った村の隣人が老衰や病死や事故死などでセタのもとに召されていくのに、自分だけが取り残されることに堪えられなくなり、ラァラは死ぬための旅に出るんです。だから、あれはただの村人です。

 村を出たあと彼女はクイナと名乗りました。翼はあるのに飛べないクイナを、愛があるのにセタのところに行けない自分と重ねたんです」


 タイミングを見計らったように、舞台上で男がクイナの名を呼ぶ。


『クイナ! 愛らしく優しい娘。どこから来たのか、どこへ行くのか、それすらも君は教えてくれないのかい』


『わたしはクイナ。ただの娘。永遠なる愛を探して旅をするだけの、飛べない鳥』


『それなら君にこの羽をあげよう。遥か遠く、空高く、どこまでも飛んでいけるこの羽を』


 オァシスという名のその男は赤色の羽飾りをクイナに渡して求婚し、承諾を得ると喜び勇んで結婚式の準備へと向かうのだった。羽飾りを握りしめたクイナは、正面のロイヤルボックス席を見上げて華やかに歌い上げる。


『この羽はどこまで飛べるのかしら。そう、わたしは愛を感じている。これは新しい愛。この愛がきっと、わたしをセタの元へと連れて行ってくれる。きっと』


 見入ってしまうのはわたしがイモゥトゥだからだろうか。


 わたしはこの主人公と違って時が来れば魂の死を迎える。それでも不安になるのは、肉体の死を経験しながら他人の体で魂だけ生かされているせい。もし、ラァラのようにいつまでも魂の死が訪れなかったら――。


「ユフィ嬢、あまり強く握ると痛いでしょう?」


 アカツキに声をかけられ、手を開くと爪の跡がついていた。彼は後ろのテーブルからワインボトルを取って戻り、空になったわたしのグラスに注ぐ。一気に飲み干してもまったく酔う気配はなかった。


「クイナは酒で寂しさを紛らわすこともできなかったのでしょうね。イモゥトゥだから」


「ユフィ嬢はどうやって紛らわすのです?」


 ダーシャはどうやって寂しさを紛らわせたのだろうと考え、頭に浮かんだのはディドリーの男の半裸姿。


 ――やったかどうかっていうことならやった。


 男の声が妙に生々しく思い出され、頬が熱くなるのを自覚してアカツキから顔を背けた。


「強いお酒なら少しくらい酔えます」


「お酒で酔うのは一瞬ですよね。ユフィ嬢、もしかしてザッカルングに向かった仲間というのは、あなたの恋人ですか?」


「まさか、違います。彼は弟みたいなもので……、あっ、そう言えば伝え忘れていました。ユーフェミア・アッシュフィールドには腹違いの弟がいることになってるんです。名前はオト・アッシュフィールド。イス皇国からチェサまで一緒に来て、ルルッカスニ番街の新月の黒豹倶楽部に向かいました。見た目はわたしより少し年下で、左腕がないのですぐわかるはずです」


「左腕がない? 欠損が回復しないという話は聞いていましたが本当のようですね」


 アカツキは急に研究者の顔になった。舞台では華やかな結婚式が行われ、クイナは二人目の夫(一人目はリーリナ神)と幸せそうに腕を組んで踊っている。


「左腕がなくなるくらいなら相当な大怪我ですが、医者に治療してもらったのですか? それとも自然治癒で?」


「自然治癒です。オトはイス・シデ戦争に従軍して爆撃を受けて数日間気を失い、目覚めたときには欠損部を皮膚が覆っていたそうです」


 オトが従軍することになった事情を説明しているうちに、舞台ではクイナが息子を産み、その息子アルバトロスはあっという間に成長してクイナと姉弟に見えるほどになった。


『ねえ、聞いて。アルバトロスっておかしいのよ。昨日の怪我がもうなくなっているの』

『そうよ、おかしいわ。だっていつまでも子どもみたい』

『アルバトロスだけじゃないわ。おかしいのはクイナ。アルバトロスの母親のクイナ。いつまでも年をとらない、まるであの人みたいに』

『あの人?』

『あの人?』

『聖女ラァラ。聖人ジチの娘、そして邪神リーリナの妻だった女。金色の髪に漆黒の瞳。それはまさにラァラ。邪神に死を奪われ、セタに疎まれて死ぬことができない、呪われた女。それはラァラ』

『呪いだ! 邪神の呪い、忌まわしい呪い! われわれから愛を奪う、あの親子は呪われたイモゥトゥ!』


「人間というのは恐ろしいね」


 レナードが冷めた口調で言い、ドラジェを一粒口に放り込んでカリッと音をさせた。


 村人たちは夾竹桃の槍を持ってクイナとアルバトロスを探し回り、クイナは家族三人で家を捨てて森に逃げた。しかし、見つかるのは時間の問題だった。クイナは夫オァシスにアルバトロスを連れて逃げるように言い、自ら村人たちの前に姿を晒す。そして十四本の夾竹桃の槍で突かれ、それでも死ねず火炙りにされようとしていた。

  

『ああ、愛しい隣人たちよ。呪われたわたしに死を与えようとする、無慈悲で残酷で、愛しい隣人たちよ。どうかわたしをセタの元へ。どうか、セタの元へ。しかし愛しい隣人たちよ、あなたがいたいけなわが子アルバトロスを手にかけたなら、わたしとともにセタの国へと召されんことを。ああ、愛しい隣人たちよ』


 村人たちはクイナを突き刺した夾竹桃の毒煙で息絶え、無事に脱出したオァシスは遠くに立ち上る煙をながめ涙を流した。


『あなたは呪われてなどいない、愛しいラァラ。あなたは彼の地から訪れ、あなたの向かう先はセタの元。愛しいラァラ』


 幕が降り、再び舞台上に現れたクイナ役の女性は会場の拍手喝采を一身に浴びた。それは死んだクイナの体に別人が乗り移ったように見え、少々複雑な気分にもなる。


「アカツキは村人たちの死をどう思う? ラァラは愛をもって彼らの死を願ったとは到底思えないよね」


 聞いたのはレナードだ。


「ラァラも人間だっていうことだろう。あのセリフは村人とセタへの皮肉だと思ってるよ。そもそも、セタの元に行くには隣人への愛がなければならない。村人たちは隣人のクイナを不当に傷つけて殺したんだから、行く先はセタの国ではなくリルナ泥沼でいしょうだ」


「リルナ泥沼というと、リーリナの沼のことか。子どもの頃は『悪いことばかりしてるとリーリナの沼に落とす』と脅されたものだが、大人になって沼の話を聞くのは久しぶりだ。懐かしいね」


「リルナ泥沼のことはちゃんとトゥカ紀に載っているんだが、そんなふうに子どもの躾に使われて陳腐な決まり文句になってしまったんだ。

 総覧第何巻だったか忘れたが、罪人の死後についてはこう書かれている。罪を犯し隣人を愛することなく死を迎えた者の魂は、邪神リーリナの死骸からできたリルナの泥沼に惹かれて自らその中に落ち、永遠の時を苦痛の中で過ごすと」


「ラァラはリルナ泥沼に行かなかったのか? リーリナの元妻なのに」


「そういう記述はどこにもない。それ以前に、リルナ泥沼については元々あった伝承ではなく聖会の作り話だという説があるんだ。良いことをすればセタの国に行けるのなら、悪いことをしたらどうなるか。それにふさわしい話をでっち上げたんじゃないかと言われてる。ラァラもジチも登場しないからね」


 コツコツと扉がノックされて二人の会話は終わり、顔を出した案内人が「馬車の用意ができました」と退席を促した。楽屋へと向かう客でごった返す中、わたしたちは案内係の後について一階へと降り、ヘサン伯爵と合流して歌劇場の外に出る。


 イヴォン捜索はまだ続いているらしく、マントに帽子をかぶったタルコット侯爵の手下数人が「侯爵は?」「二番街だ」と叫んで駆けていった。


「ヘサン伯爵様、二番街には何があるんですか?」


 わたしが尋ねた直後、マントの男たちが向かおうとしている先でドンと爆発音がして灰色の煙が上がり、馬車に繋がれた馬が興奮していななき、劇場から出てきた人々は騒然となった。


「ガス灯が爆発したぞ!」

「ルルッカス二番街の方だ」


 群衆の中から上がった声にヒヤリと冷たい汗が首筋を伝った。

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