第三章 狼少女

第一話 クイナの翼(一)

__ザッカルング共和国ミノ県エイルマ市馬車内__555年8月25日



 何事も用意周到なレナード・ウィルビーは、プリンセス・オリアンヌ号乗船前にヘサン伯爵に電報を送っていたらしく、当然のごとく一緒に伯爵邸に宿泊することになっていた。伯爵の方は突然の来客を面倒くさがるでもなく、むしろ王家の血を引く公爵令息ふたりをもてなせることをたいそう喜んでいるようだった。


 わたしはアカツキから恋人のアッシュフィールド男爵令嬢として紹介されたが、彼が「家族には内密に」と言ったのを伯爵は身分差のせいで家族に打ち明けられないと受け取ったらしく、わたしに気遣うような眼差しを向けたくらいで、根掘り葉掘り聞かれることはなかった。


 わたしとアカツキとレナード、そしてヘサン伯爵。四人を乗せた馬車が向かっているのはヘサン伯爵邸ではなく市の中心部にあるルルッカス一番街の『黄金の滴歌劇場』だ。伯爵がオーナーのその歌劇場ではラァラをモデルにした『クイナの翼』を公演中らしく、アカツキが興味を示すと話はトントン拍子に進み、さっそく今夜の公演を観劇することになった。当然ながら、本当の目的はイヴォンとルルッカス二番街にある新月の黒豹倶楽部。


 レナードの従者アレックスは三人分の荷物を積んだ馬車で先にヘサン伯爵邸のあるエイルマ市郊外のヘサン地区に向かったのだが、驚いたことに、イヴォンは今月二十日にそのヘサン地区で目撃されたらしい。


 茶畑と小さな小立に囲まれているというヘサン伯爵邸は市中心部からそれほど離れているわけではなく、エイルマ駅からは馬車で三十分ほどで、イヴォンが目撃されたのは茶農家の共同納屋近く。その後、仕事を終えた頃に誰かが『例のイモゥトゥだったんじゃないか』と言い始め、その話が翌日の朝市経由で町中に広まり、『ヘサン地区の茶農家がイヴォンを見たらしい』とザッカルング聖会本部に伝わったのが二十一日の昼頃。同日夕刻、ヘサン伯爵がオーナーを務める『黄金の滴歌劇場』のあるルルッカス一番街で再びイヴォンが目撃され、二十三日の地方紙に小さな記事が載ったことで騒ぎが大きくなったようだ。


 この状況ではルルッカスニ番街でオトを探しても見つからないかもしれないが、だからといって確認しないわけにはいかなかった。二十一日にワイアケイシア急行でチェサ駅を発ったオトは、翌二十ニ日にエイルマ駅に到着しているはず。観劇ついでにルルッカス街付近の様子を見て、改めて探しに行くのが良さそうだった。


「アッシュフィールド嬢、馬車に酔われましたかな?」


 向かいに座るヘサン伯爵が心配そうにこちらを見ていた。白髪混じりの頭髪も眉毛もフサフサで、整えられた鼻髭がよく似合う品の良い紳士は、流行りの麻ベストを上着の下にのぞかせている。


「平気です。街並みがチェサ特別区と似ている気がして眺めていたんです」


 空にスモッグはないが、年季の入った石造りの建物が並び、石畳の道を馬車が忙しなく行き交っていた。


「レイルズ通りに似ているのでしょう? このあたりは景観保護地区に指定されていて王政時代の名残が色濃く残っているんです。建築様式はヨスニル式と同じ流れを汲んでいますが、よく見ると違うところもあるのですよ。ちょうど聖会が見えてきましたが、ほら、窓がヨスニル聖会のものと違っていませんか?」


 窓よりも聖会前の人の多さに釘付けになっていたわたしの代わりに、専門家らしい返事をしたのはアカツキだった。


「ヨスニル様式は半円アーチですが、ザッカルングは尖頭アーチが採用されているため、ヨスニル聖会より天井が高くなっているんです。それにしても、砂糖にむらがる蟻のようですね」


「ええ、まったくです」


 ヘサン伯爵は前のめりにうなずくと、憤懣やるかたないといった様子で眉間にシワを寄せて人だかりを見る。


「大聖会もラァラ神殿に好き勝手にさせていないで、高額の懸賞金をかけるようなやり方を止めさせるべきです。これではまるで犯罪者を追っているようですよ。文字の読めないゴロツキたちは金のことしか頭にありませんから、あのイモゥトゥがそんなやつらに見つかったらと思うとゾッとします。だいたい、神殿にいたイモゥトゥが大陸を横断してこんなところまで来るなんて」


 そこで伯爵は声を潜め、「神殿から逃げているように思えませんか?」と言った。


「うちの劇団員たちはクイナの翼を演じるためにラァラやイモゥトゥについて日々議論していましたから、イモゥトゥも普通の人間と同じように傷つき、痛みを感じると知っています。神殿のやり方は羊に向けて狼の群れを放つようなものですよ。

 実は、昨日神殿から調査を依頼されたという方がうちの歌劇場に来て、あの姿絵を出して『心当たりはないか、まさか匿ってはいないだろうな』と言ってきたんです。仕方なく十代の研修生で金髪の子を練習室に集めましてね、全部で六十人近くでしょうか。それを一人ひとり確認した挙げ句、他の団員からも話が聞きたいと。営業妨害もいいところですよ」


 ヘサン伯爵が話している間に聖会前を通り過ぎ、馬車はルルッカス大橋に差しかかった。


「ヘサン伯爵、神殿に調査依頼されたというのはどなたですか?」


 アカツキが尋ねると、返ってきたのは予想通りの答えだ。


「ロアナ王国のタルコット侯爵です。自分で捜索隊を組織しているらしく、部下が入れ替わり立ち替わりやって来ていました。しばらくエイルマに滞在してイモゥトゥを探すそうですから、今も歌劇場近くをウロウロしているかもしれません。

 わたしはかなり顔が広いほうだと自負していたのですが、タルコット侯爵の名を一度も耳にしたことがなかったのが不思議です。彼は数年前から仕事で中央クローナを転々としているらしく、ザッカルングにも知り合いがいるということでしたから。

 ――ああ、もうそろそろ歌劇場が見えてくる頃ですよ」


 ヘサン伯爵は馬車の行く先を指さした。太陽はいつの間にか沈んでいたが、まだ一日は終わらないというようにガス灯の光が薄暮の街を照らしている。その中でひときわ明るく目立っているのが『黄金の滴歌劇場』だった。


 何台もの馬車が劇場の前に列をなし、着飾った紳士淑女が次々と歌劇場へと吸い込まれていく。通りはずいぶん賑わっているが、視線を集めているのは豪奢な劇場だけではなかった。


「あの人たちは何? マントに帽子で顔まで隠して」

「例のイモゥトゥ探しでもしているようですな。ほら、あそこにいる男性が指示を出している」

「まあ、イモゥトゥ探しなんて庶民がするものだと思っていましたのに、あの方は貴族でしょう?」


 馬車を降りるなりそんな会話が聞こえ、ヘサン伯爵は苦笑を浮かべた。


「やはりいらっしゃいましたね。ほら、通りの向こうにいる、馬の顔と鹿の体を掛け合わせたような紳士がタルコット侯爵です。こうしてみると彼はザッカルングの生活が長いのかもしれませんね。流行を押さえているが、気張っているふうではなくむしろこなれた着こなしだ。手下らしい人たちは場違いとしか言いようがありませんが」


 馬車が出るとタルコット侯爵がヘサン伯爵に気づいて会釈し、伯爵も帽子の鍔を上げて応じた。侯爵は思いのほか若く、四十代くらいに見える。


 わたしはさりげなくアカツキの後ろに隠れたが、タルコット侯爵の視線はしばらくこちらに向けられていた。少なくとも、伯爵の連れがケイ公爵令息とウィルビー公爵令息ということは気づいただろう。


 周りの視線は怪しげなマントの男たちからヘサン伯爵の連れた美青年へと移り、じきに「レナード・ウィルビーだわ」とヒソヒソ囁く声が聞こえ始める。


「さあさあ、こちらです。開演までもうそんなにありませんよ」


 ヘサン伯爵が聞えよがしに言うと、女性たちは後ろ髪引かれながら場内へ入っていった。


 わたしたちはヘサン伯爵とロビーで別れ、係に案内されたのは舞台にほど近い二階のバルコニー席。一階の平土間席を見下ろすと空いた席が次から次へと埋まり、来場を歓迎するようにオーケストラピットから軽快な音楽が流れてくる。


 オペラ観劇は初めてではないが、以前はオペラグラスがなければ見えなかった演者の顔が、ユフィの視力なら裸眼ではっきりと見えそうだ。向かいのバルコニー席の紳士の顔も、その紳士が連れの女性に渡しているチョコレート店の紙袋の文字まで読める。


 幕が降りた舞台の端で、ベルを持った男が今にも開演の音を鳴らそうとしていた。


「ユフィ、立ってないで座ったら?」


 レナードは椅子に深々と身を埋めたまま「はい」とグラスを差し出す。わたしは素直に受け取って隣に座ったが、偽装恋人の姿がどこにも見当たらなかった。


「ケイ卿はどこに?」


「アカツキって呼べばいいのに。表向きは恋人同士なわけだし、そうすれば言い間違えても問題ないよ」


「そうしたらあなたのこともうっかりレナード様と呼んでしまいそうだもの」


「別にいいんじゃない?」


 開演のベルと同時にコツコツとノックの音がし、返事も待たずに扉が開いてアカツキが入ってきた。片手に手提げの紙袋、もう片方の手にも袋を持っている。


「ケイ卿、どこに行ってたんですか?」


「だから、アカツキって呼んだほうがいいよ。そのほうが恋人みたいだ。ねえ、ケイ卿?」


 レナードが茶化すように言うと、アカツキは「ユフィ嬢の好きなように」と紙袋をわたしの膝に置いた。甘い匂いがし、開けてみるとカヌレがふたつとクッキーがいくつか入っている。


「それだけじゃ足りないだろうけど、とりあえず小腹は満たせるよ。レナードはこれでいいだろう」


 もうひとつの紙袋をレナードに渡すと、アカツキは後ろのテーブルで自らワインを注いでわたしの隣に座った。


「ドラジェか。男が男に贈るのはどうかと思うけど、ありがたくいただくよ、アカツキ」


「ありがたくいただきます、アカツキ」


 レナードに便乗して呼び方を変えると、アカツキは「どういたしまして」と照れたように肩をすくめた。バルコニーの気安い雰囲気とは裏腹に、幕が上がって聞こえてきたのは死者をセタの元へと送る鎮魂歌だ。

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