第八話 ケイ公爵令息の訳ありの恋人

__ヨスニル共和国モルマ市モルマ港プリンセス・オリアンヌ号船内__555年8月23日



 船内通路には一定間隔でランプが灯っていたが、わたしたちが部屋を出ると乗務員がランタンを掲げて近づいてきた。


「どちらへお越しですか」


「ダイニングに向かう予定なんだが、その前にレナード・ウィルビーの部屋に案内してもらえるかな」


 乗務員はチラと部屋番号を確認し、連れて行って問題ないと判断したらしく「こちらです」と船首の方へと歩き出した。


 わたしとアカツキの部屋は左舷側の船首に近い位置にあり、隣室はプリンセス・オリアンヌ号で一番グレードの高いプレミアムキャビン。警護係も乗務員も立っていないところを見ると今夜は空室のようだった。


「こちらがレナード・ウィルビー様のお部屋です」


 案内されたのはわたしたちと同じグレードの右舷側の部屋。アカツキがノッカーを打つとすぐに扉が開き、顔をのぞかせた男性が「アカツキ様でしたか」と人懐こい笑みを浮かべる。わたしも何度か会ったことのあるこの男は、幼少期からレナードの従者をしているアレックス・フィンチ。主人より二つ年上で、兄のようなものだと以前レナードが言っていた。


「レナード様、お客様ですよ」


「今行く」


 上着の袖に手を通しながら出てきたレナードは、様変わりしたわたしを見て目を瞬かせた。


「……こんな美女がパートナーだなんて、アカツキが羨ましいよ」


 カツラも化粧も変装を意図したものと察したらしく、彼は社交辞令だけで済ませる。アレックスには暇を与え、わたしたちは乗務員の案内でダイニングに向かった。


 もともと人の多い場所で内密な話をする気はなかったけれど、入れ替わり立ち替わり他のテーブルの客が挨拶にやって来るのは名ばかり貴族二人の知名度の高さと、その公爵令息二人に挟まれた見知らぬ令嬢への好奇心だろう。ここにいるのがユフィではなくエイツ男爵令嬢ならテーブルに押しかけてくるのはせいぜいニ、三人で済んだはずだが、少々甘く見ていたようだ。


「そちらの可愛らしいご令嬢は?」


「彼女はユーフェミアといって、わたしが親しくしている女性です。彼女との関係はまだ秘密にしておきたいので、ここで見たことは黙っていてもらえますか?」


 アカツキの言い回しは彼らの興味をそそったようだが、偽装身分を下手に口にして探られるくらいなら訳ありの恋人と思わせておいた方がいい。


 恋人偽装のことはレナードにも耳打ちし、彼は秘密の恋を応援する役をそつなくこなしていた。三人で食事をすることはセラフィアだった頃にもあったけれど、両脇にいる男たちがこんなに嘘が上手いとは思わなかったし、少々疑心暗鬼にもなりそうだった。


 すっかり日が落ちてバーカウンターのそばでカルテット演奏が始まると、わたしたちのテーブルからようやく人が引いたが、周りからの好奇の視線が絶えることはなかった。レナードが話を切り出したのは給仕がデザートの皿をさげた後だ。


「それで、タルコット侯爵はいったい何をしたの?」


 彼はアカツキに尋ねたが、アカツキの視線はわたしに注がれ、二人がこちらをうかがう。


「ユフィ嬢、お話いただけますか?」


 首をかしげたレナードの長い髪が揺れた。それほど飲んではいないから、白い肌がほんのり赤く染まって見えるのは蝋燭の炎のせいだろう。


「お二人とも、場所を移しませんか?」


「では、酔い冷ましに海でも眺めましょう。この時間ならテラスにはあまり人がいないはずです。みんなダイニングかラウンジにいますから」


 アカツキが提案すると「決まりだね」とレナードが立ち上がり、わたしたちは目立たないよう壁際を出口へと向かった。思いがけず足を止められたのは、バーカウンターの横を通り過ぎた時だ。


「おや、ケイ卿ではありませんか」


 中年紳士がザッカルング語で話しかけ、わたしの前を行くアカツキが「あっ」と驚きの声をあげた。レナードも知り合いらしく、「イ・クルム子爵殿ではありませんか」と相好を崩す。


「これは、ウィルビー卿もご一緒でしたか」


 今度はヨスニル語で言うと、紳士はグラスを置いて立ち上がった。


「お二人の顔を見るのは四、五年ぶりでしょうか。二人ともずいぶん男前になられましたね。そちらのご令嬢は――」


「わたしのいい人です」


 アカツキは肩を抱き、「彼女のことはまだ秘密に」と決まり文句を繰り返したが、わたしは彼のように恋人らしい振る舞いに慣れていない。必死で動揺を隠しているのに、それに気づきもしない偽恋人が憎らしかった。


「まさかイ・クルム子爵殿とお会いできるとは思いませんでした。ヨスニルには仕事で?」


「いえ。ドンクルートで二週間ほど休暇を満喫してザッカルングに戻るところです。みなさんはどちらまで?」


「エイルマへ行く予定ですが」


 アカツキは中途半端に言葉を止めてレナードと視線を交わした。わたしはどこか不穏なものを感じたが、子爵は酔いもあってかその目配せに気づく様子もなく「ようこそわが故国へ」と上機嫌に口にする。


「子爵殿、実は前々からお会いしたら話したいと思っていたことがあるのです。少しお時間をいただけますか?」


「時間ならわたしにはいくらでもありますよ。見ての通り一人だからね」


 子爵はアカツキのために自ら隣の椅子を引いた。


「では、お言葉に甘えさせていただきます。ユフィ、済まないがレナードと一緒に先に行っててくれるかな」


「わかりました」


「アカツキ、彼女のことは心配しなくていいよ。先にテラスに行ってる」


 甲板に出ると思いのほか夜風が冷たく、レナードは上着を脱いでわたしの肩にかけた。それが押し付けがましいわけでもなく、むしろ育ちの良さを感じさせるから、容姿の美しさも相まって簡単に世の女性たちを虜にしてしまうのだろう。


 しばらく歩くと暗さに目が慣れ、舷側に吊るされた白塗りの救命ボートが夜闇の中に浮き上がって見えた。ディドリーの男と乗った小舟よりふた回りくらい大きいが、どこを見渡しても暗い海と空しかないこの場所では二十人乗りのボートでも心許なく感じられる。


「ユフィ嬢、あそこからテラスに上れます」


 少し先に階段があり、テラスに乗務員が一人立っているのが見えた。わたしたちに気づくと会釈し、どうぞお構いなくというように数歩退く。


「手すりを掴んで上がってください。落ちたらわたしが後ろから受け止めますよ」


 茶化すように言うのがいかにもレナードらしかった。言われた通りに階段を上がると広々としたテラスがあり、二人掛けのベンチが一定の距離をおいて置かれている。


「向こうが展望デッキですが、あそこは見ての通りラウンジから丸見えなのでやめておきましょう」


 船首方向に続く窓からは色とりどりの光が漏れ、屋内の喧騒が風音に混じって耳に届いた。一方、テラスは閑散としたもので客らしい姿は見当たらない。わたしとレナードは船尾方向に向かって歩き、三つ目のベンチに腰をおろした。


「ここならケイ卿が来たらすぐわかりますね」


「アカツキが気になりますか?」


「当然です。お二人で何か企んでいるように見えましたから」


 気づいていましたか、と彼は満足げな笑みをわたしに向けた。


「タルコット侯爵と関わりのある人物の一覧をアカツキに渡したのですが、ユフィ嬢もご覧になりましたか?」


「もしかしてイ・クルム子爵もあの中に?」


「はい。彼は三年ほど前までチェサにあるザッカルング大使館に勤めていて、タルコット侯爵と個人的に会っていたのはその頃のようです。チェサを離れたのは夫人が肺病を患ったためで、国に戻って自ら看病されていました。残念ながら帰国後数ヶ月で夫人は亡くなってしまったのですが、子爵はそういう人なんですよ。タルコット侯爵が何をしたのか知りませんが、子爵は悪事をはたらくような方ではありません」

 

「ケイ卿も子爵様とは懇意にされていたのですよね?」


「何年前だったか、ケイ公爵家が革命以来初めてザッカルングを公式訪問したとき、そのお膳立てをしたのがイ・クルム子爵でした。ケイ公爵家には何度も足を運んでいたようですから、ぼくよりもアカツキの方が彼とは親しいはずですよ」


「それなら、ケイ卿は子爵様の無実を確認するために残ったんですね」


「へえ。ユフィ嬢はアカツキの性格をわかってるみたいだ」


 急に砕けた口調になると、レナードは足を組んだ膝の上に頬杖をついて見透かすような目でわたしを見る。


「そんなことはないと思います。あの一覧にある人物は詳しく調べる必要がありますし、イ・クルム子爵がその最初になった。そして、ケイ卿は子爵が無関係だと考えている。それだけのことではありませんか」


 レナードはベンチに手をついてわたしの顔をのぞきこみ、それに居心地の悪さを感じたわたしはさりげなくお尻をずらして距離を保った。


「ユフィ嬢、これはカツラだよね」


「そうです」


「顔は似ていないけど、君はセラフィアを思い出させる。喋り方や所作が彼女にそっくりなんだ。アカツキにも言われなかった?」


「言われてません」


 レナードから目をそらし、空を見上げた。満天の星空を翳らせているのはプリンセス・オリアンヌ号が吐き出す黒煙。その煙の中で、火の粉が星のようにチラチラと瞬いて消えた。


「ウィルビー卿、雑談はそろそろ終わりにしましょう。タルコット侯爵家とわたし自身のことについてお話します。他言はしないと約束していただけますか?」


「それは内容によるね。君がなぜアカツキを巻き込んだのか、納得できる理由を教えてくれたら口外しないと約束するよ」


「巻き込んだのではなく、ケイ卿が勝手について来たんです。わたしは一人で行くと言ったのに」


「でも、最初にアカツキに接触したのは君だろう? エイツ男爵からの紹介状を持って」


 舌戦をレナードに仕掛けるのは無謀だと思い出したが、引き下がるのは癪だった。


「わたしはイモゥトゥです」


 これでどうだとばかりに言い放つとさすがのレナードも絶句し、わたしが畳み掛けるようにタルコット侯爵家の秘密――イモゥトゥとその血液の売買――について話すと表情を曇らせる。


「イモゥトゥの血液……。アカツキはそれについて何か言っていた?」


「研究所では最新の血液分析装置でイモゥトゥの血液を調べたそうですが、普通の人間の血液と変わりないということです。仲間のイモゥトゥたちも思い当たることはないようでした」


「仲間?」


「はい。イモゥトゥにも横の繋がりがあるんです」


 わたしはレナードに見せるつもりで持っていたユフィからの手紙を差し出した。


「読んでもいいの?」


「はい。その方が早いですから」


 彼はベンチから立ち上がり、傍にある柱のランプを頼りに手紙に目を通す。読み終えると丁寧に折りたたんでわたしに返したが、隣には座らず柱に背を預けた。


「セラフィアの代わりをアカツキに頼むつもりだったの?」


「ケイ卿を頼ったのは成り行きです。セラフィアお嬢さまの事故死について男爵様から話を聞きたくて、研究所に行く前にエイツ家を訪問したのですが、男爵様はわたしがイモゥトゥだと気づいてらっしゃいました。それで、イモゥトゥ研究員のケイ卿を紹介してくださったんです」


「経緯はわかったけど、いくら研究員でも初対面の人間によく打ち明ける気になったね。最近は金目当てにイモゥトゥ探しをしてるやつらも多いのに」


「それは……、ケイ卿がお墓で泣いてるのを見て、悪い人には思えなかったんです」


 レナードは彼の憔悴ぶりを思い出したのか、ため息混じりに「ああ」とうなずいた。


「君の言う通りアカツキは悪いやつじゃないよ。でも、ぼくにまでイモゥトゥだと明かす必要はなかったんじゃない? イモゥトゥ研究者でもないし、第一印象も良くなかったはずだ。それに、ぼくの噂を聞いたことはないの?」


「女性に言い寄られては捨てられるという噂ですか?」


 わたしの言い草にレナードは肩を揺らしてクッと笑う。


「おかしいね。巷ではぼくが女性を弄んでるって言われてるはずなのに、捨てられるだなんて。そんな酷い噂を君に教えたのはアカツキ?」


 実際はレナード本人から愚痴混じりに聞いたのだが、わたしは「はい」と答えておいた。


「ウィルビー卿は結婚されないのですか? そうすればあんな噂なくなると思います」


「そう簡単に言われても、名ばかり貴族のウィルビー家は微妙な立ち位置でね。姻戚関係を結んでも利益はないと考えるヨスニル貴族は未だに多いんだよ」


「貴族院の議席のことですよね?」


「そういうこと。ウィルビー家には議席がないし政治団体への支援も禁じられてる。縁談を持ちかけてくるのは経済的に困窮してる家門くらいだよ」


「エイツ男爵家は困窮していませんが、セラフィアお嬢さまとの縁談を断ったのは新貴族に媚びてると言われるのが嫌だったからですか?」


 公爵令息相手に無礼な発言とはわかっていながら、セラフィアだったら聞けないこともユーフェミアなら許されるような気がして、レナードの顔色をうかがいながら口にした。彼は「誰に聞いたんだか」と苦笑する。


「彼女との縁談は婿入りが条件だったんだ。それで断った。別にぼくがセラフィと結婚しなくてもウィルビー家とエイツ男爵家は昔から関わりがあったし、新貴族がどうのっていう陰口は小さい頃から聞かされていたから、今さらそんな理由で断ったりしないよ。だいたい、商売人を馬鹿にしてるのは貴族院でふんぞり返ってるやつらばかりなんだ。そういうやつらこそ名ばかり貴族って称号がピッタリだと思うけどね」


「わたしもそう思います」


 レナードはふうんと相槌を打ち、そのあと沈黙で話の続きを促した。


「新貴族の貴族院での発言力は弱いですが、代議院に所属する商工組合員とは協力関係にありますし、労働階級からの支持もあります。わたしはエイツ男爵様のところで働いていましたから、新貴族が馬鹿にされる意味がわかりません」


「興味深いご意見だけど、君は本当に単なるエイツ家の元使用人? もしかしてセラフィの妹なんじゃないの?」


 ついさっきセラフィアに似ていると言われたばかりなのに、調子に乗って余計なことまで喋り過ぎた。お調子者気質なのはセラフィアではなく絶対にユフィだ。


「ウィルビー卿、ちゃんと見てください。わたしの顔はお嬢さまとは少しも似ていません。最初に会ったときは金髪でしたが、あれもカツラなんです。本当は赤毛だし、それにわたしはイモゥトゥなんですよ」


「血縁者がイモゥトゥなら、あのセラフィアがイモゥトゥ研究者になったのも納得できる」


 ユーフェミアが発端でイモゥトゥ研究者になったのだから、当たらずと言えども遠からずではある。けれど、イモゥトゥが血縁者というのはあり得ない。


「いいですか、ウィルビー卿。わたしの最初の記憶はロアナ王国にあるタルコット侯爵家の隔離棟――」


 咄嗟に口を噤んだのは足音が聞こえたからだった。


 わたしたちのいるテラスは十メートルほど先で柵に突きあたり、そこを右へ曲がれば右舷のテラスへと繋がる連絡通路がある。その通路の途中にはたしか甲板へと降りる階段があったはずだ。足音はカツンカツンと甲高い金属音を響かせて遠ざかり、どうやらその階段を下りているようだった。


「レナード様、行きましょう」


 足音の主を確認するためテラスの端に向かい、柵に手をかけて下をのぞき込んだ。甲板には見回りの乗務員が一人いるだけで怪しい人影は見当たらず、連絡通路にも人の気配はない。


「身を乗り出すと危ないよ、セラフィ・・・・


「平気です」


 緊張が解けた直後だったせいか、レナードの言葉に違和感を覚えたのは返事をした後だった。


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