第二章 追跡者
第一話 偶然の同乗者(一)
__ヨスニル共和国チェサ駅発急行列車内__555年8月21日
オトとの別れは唐突だった。予定ではレッドロビンズホテルにニ、三日滞在し、ザッカルング共和国に向かったパヴラからの電報を待つことにしていたのだが、どうやらわたしがサハラン霊園に着いた頃にはその電報が届いていたらしいのだ。
昨夜、わたしがアカツキと別れてホテルの部屋に戻ると、オトはすでに荷造りを終えていた。そして、メルヴィン・ヒースに貰ったというザッカルング風の服をわたしに見せびらかしたのだった。裾を折り返した七分丈ズボンと飾り気のないシャツに、今夏はツートーンの麻ベストが貴族男性の間では流行しているらしい。
「ヒースさんの知り合いがちょうど明日発のワイアケイシア急行でザッカルングに向かうんだって。相部屋で良かったら一緒にどうかって言われたから、そうしてもらったんだ。ザッカルングの黒豹倶楽部はやっぱり場所を変えるみたいで、パヴラは早く来て手伝えって言うし」
豪華列車に乗りたいだけじゃないのとわたしが言うと、オトは悪びれもせず「せっかくだから」と、お出かけ前の子どもみたいにはしゃいでいた。
パヴラと合流できなかったせいもあって、わたしもオトも旅券はアッシュフィールドのまま偽装異母姉弟関係は継続中。旅の同行者にはザッカルングの友人の元に向かうと伝えたらしい。
「エイルマ駅まではその人が同行してくれるみたいだし、着いたらなんとかなるよ」
ユーフェミアもそうだが、長く生きていると先のことに不安を感じなくなるのだろうか。オトは自分よりむしろわたしを心配していた。鉄道記念館でのことを話したせいもあるだろう。弟というよりむしろ母親のように細々と小言を繰り返し、「髪は洗ったらちゃんと乾かしてね」と言われた時にはさすがに笑ってしまった。
「ユーフェミア嬢、思い出し笑いですか?」
アカツキが開いたページから顔をあげた。
「ええ、ちょっと」
わたしが言葉を濁すと、「そうですか」と再び本に視線を落とす。
わたしとアカツキが乗っているのは、ヨスニル国有鉄道サホウ路線を走る急行列車。オトがチェサを発つと知り、メルヴィン・ヒースを頼って昨夜のうちにアカツキと連絡をとり、わたしも早々にチェサを離れることにしたのだ。
サホウ路線は首都チェサからサホウ半島方面に向かう鉄道路線だが、終点はソトラッカではなくずっと手前のドンクルート駅。今夜はその駅付近で一泊し、明日丸一日かけて馬車で峠を越え、その翌日に半島先端のソトラッカ郡内を走るソトラッカ鉄道に乗る予定にしている。
わたしは車窓に視線を戻し、のどかな田園風景と、はるか遠くに見えるサホウ連峰の山並み、それを霞ませるどんよりした曇り空を眺めた。薄っすら窓に映るのは赤毛ではなく金髪の男爵令嬢。追手を警戒して念のためカツラも服も総替えしたのだ。ヒルシャ国で購入していたものだからヨスニルの流行りとは違うが、一般的にファッションの流行は東からと言われているし、そう違和感はないはずだった。胸の下に切り替えのある軽やかなドレスは、旅装としてはバッスル・ドレスよりも優れている。
「良かったらこの本でも読みますか?」
わたしが手持ち無沙汰にしているのを見かねたらしく、しばらくしてまたアカツキが話しかけてきた。テーブルの上に本を立てて彼が見せたタイトルは『トゥカ紀総覧〈第二十七巻〉』。
ジチ教の正式な経典は『聖人大書』だが、この『トゥカ紀総覧』は大陸各地のクローナ神話と神話にまつわる逸話を網羅したもので、全五十九巻に及ぶ。アカツキにとっては研究資料のひとつだが、わたしは三巻あたりで読むのをやめてしまった。
「二十七巻には何が書かれてるんです?」
「リルナ王の話です。ジチ教発祥の地と言われる聖地トゥカは、かつてはトゥカ王国という独立した国だったのですが、このリルナ王はトゥカ王国ができる前の王です。実在した証拠はありません」
「リルナって、響きがリーリナみたいですね」
「ええ。このリルナ王が邪神リーリナのモデルとも言われているんです。圧政と暴虐の限りを尽くした暴君で、奴隷の反乱によって殺されたんですが、夾竹桃の枝で刺されたと書かれています。聖人ジチらしい人物はここには出てきませんが、奴隷だった一人の女性を娶り寵愛したとあるので、この女性がラァラにあたるのかもしれません」
「君主のあるべき姿として聖人ジチが生まれたんでしょうか?」
「そういう説もあります。しかし、トゥカ王国はジチ教を国教として他者への愛を謳っておきながら、製鉄技術を得て武器製造に注力し始めるんです。周辺国に侵攻して東へと版図を拡大し、それとともにジチ教が広まった。ついにクローナ大陸のほぼ全土を掌握するトゥカ帝国となりましたが、栄華はいつまでも続くものではありません。今では聖地にその名が残っているだけです」
「トゥカ紀総覧は自分で読むよりケイ卿に教えてもらった方が良さそうです。読もうとしたことがあるんですが、すぐにやめてしまいました」
「本で読むのが嫌なら、演劇やオペラにもクローナ神話を題材にしたものが数多くあります。そっちの方が取っつきやすいかもしれません。機会があればお誘いしましょう」
「いいのですか? わたしは保護対象者ですが」
「ええ。ですから研究所からの外出を希望する際は遠慮なく言ってください。いつでも同行しますよ」
「わたしはセラフィア様の代わりですか?」
アカツキが顔を強張らせ、わたしは自分の口から出た言葉にサッと血の気が引いた。
「すいません、つい」
「いえ、こっちこそ。自覚はなかったのですが、あなたの言う通りかもしれません」
気まずい間があったが蒸気機関車の走行音がその間を埋め、そして時と場所をわきまえないわたしの腹の虫がアカツキの表情を和らげた。
「ケイ卿、この体は食欲旺盛なんです。それに、朝が早かったのでお腹がペコペコです」
「わたしも小腹がすきました。せっかくですから食堂車に行きましょう」
せっかくとアカツキが言うのは、この列車が通常の列車ではなく観光列車と銘打った豪華列車の部類に入るからだ。チェサ駅からドンクルート駅までおよそ十時間だが、そのあいだ停車するのは二駅だけ。座席はすべて四人用のセミコンパートメントになっており、食堂車とラウンジ車はいつでも利用できる。
アカツキは本を鞄にしまって立ち上がったが、ふと何か思い出したようにわたしを見た。テーブルから身を乗り出し、
「タルコット家の調査を知人に頼んでおきました」
思ってもみなかった言葉にわたしが反応できないでいると、前かがみの姿勢のままさらに言葉を続ける。
「ご心配なく。わたしの親友で、信頼できる人です。ユーフェミア嬢も名前は聞いたことがあるかもしれません。レナード・ウィルビーという男ですよ」
レナード・ウィルビーに調査を頼むのは悪くない選択だった。ケイ家と同じ名ばかり公爵家ではあるけれど、レナード個人は国内外に特殊な人脈を持っている。公爵令息としてではなく、銃マニアという世間にはあまり知られていない趣味による繋がりだった。
「ウィルビー卿なら新聞で拝見したことがあります。ヨスニル大学の首都キャンパスに在籍されているのですよね。昨夜わたしと別れた後にお会いになったのですか?」
「レナードには電報を送っただけです」
会話を聞かれても問題ないと判断したのか、アカツキは「揺れるので気をつけてください」とわたしを促して後部車両の方へと歩き始めた。通路側の窓には鬱蒼とした木々が迫り、乱れた風が黒煙を吹き下ろして視界が黒っぽく霞む。
「レナードはいまウィルビー公爵家に帰省しているのですが、ご存知のように旧ウィルビー領があるのはサホウ半島突端です。ソトラッカからそう遠くないので、わたしが研究所に戻ったら会う予定にしているんです。ユーフェミア嬢は彼の噂を聞いたことは?」
「チェサではずいぶん浮名を流しておられるようですね」
「彼の名誉のために言っておくと、あの噂はただの噂です。わたしが保証しますよ」
レナードは女性受けのする物憂げな甘いマスクに最近の男性には珍しい長髪で、ヨスニル王族の血を引くこともあって社交の場では常に注目の的だった。そのうえ『名ばかり貴族』なものだから、女性たちは憧れ半分、からかい半分で色目を使って近づいてくるのだと、レナード本人から愚痴をこぼされたことがある。
「きっと周りの女性が勝手に騒ぎ立てているだけなのでしょう? 美男も大変ですね」
「そういえば、ユーフェミア嬢は美男子がお好きでしたね」
〝美男子〟がルーカスを意味しているとわかり眉をしかめると、アカツキは「おや、嫌いでしたか」と肩をすくめた。
ガタンという音とともに車体が揺れ、わたしは転ばないよう左手で手すりを掴み、右手には八百万クランの入ったハンドバッグをしっかり握りしめる。父からもらった一千万クランのうち、ニ百万クランをオトに渡した残りだった。
オトは受け取ろうとしなかったけれど、「わたしが裏切らないための人質だと思って」と無理やり彼の鞄に押し込んだ。身分偽装している状態では銀行を利用するのが難しく、わたし一人がまとめて持っているよりも分散させたほうが安全だと考えたのだ。
イモゥトゥになってから以前は当たり前にできていたことができなくなり、できたとしても〝偽装〟という犯罪行為を伴う。改めてイモゥトゥの立場の弱さを実感し、研究所でもっとできることがあったのではと後悔することばかりだった。
「ケイ卿、お金を預かってもらえませんか?」
咄嗟の思いつきだったが、人けのない食堂車への連結部でアカツキにそう声をかけた。唐突なお願いに彼は一瞬ポカンとし、大きなガラス窓がついた入口扉の前で足を止める。ガラス越しに給仕が扉を開けようとするのが見えたが、アカツキは片手をあげてそれを制した。
「ユーフェミア嬢、どういうことです?」
「男爵様に援助いただいたのですが、銀行口座がありません」
八百万クランです、と背伸びして囁くと、アカツキはその額で納得したようだった。
「構いませんが、そんなに簡単にわたしを信用して良いのですか?」
「問題ありません」
迷いなく言い切るとアカツキは「ではそのように」と苦笑し、窓越しにこちらをうかがっていた給仕に手で合図を送った。
扉が開けられ、漂ってきたのはバターの香り。ちょうど空いている時間帯で、九つあるテーブルのうち人が座っているのは最奥の四人掛けテーブルに男性が一人。小さな厨房でシェフが作っているのはクロックムッシュのようだった。
アカツキが車両中央あたりのテーブルを選んで座ろうとすると、奥にいた先客が様子をうかがうように振り返り、「あっ」と声をあげる。
「ケイ卿もこの列車に乗っていたんですね」
クリフ・オールソンだった。手帳を見ていたらしく眼鏡をかけていて、いつもより少し大きく見える両目が好奇の色を帯びてわたしに向けられる。
オールソン伯爵家のイモゥトゥ売買についてもアカツキに話しておけば良かったと後悔したが、彼は別の理由でオールソン卿を警戒したようだった。
「ルーカスをセラフィアに紹介した男です」
クリフ・オールソンには笑顔で手を振り返しながら、わたしには小声でそう耳打ちしたのだった。
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